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西区のあらまし

2018年4月1日

ページ番号:1048

西区の概要

区内の80%が戦災をうけたため、戦後いち早く本市の都市計画モデル地区として土地区画整理事業が実施され、昭和39年7月に完了し、業務地域、管理中枢地域としての基盤が形成された。
大阪府庁跡

市のほぼ中央に位置し、地勢は総体的に平坦である。区の中央部を流れる木津川を境に、その東側は事務所ビルや店舗が立ち並ぶ商業地域である。東南部の堀江地域は近年都会的で個性的な店舗が相次いでオープンし、従来の家具店と若者向けのブティックなどが共存、調和するお洒落なまちへと変貌を遂げ、人気のスポットとなっている。一方、西側には、鉄工、物流関係の事業所が多く、また有名な九条商店街がある。

区内には、都心のオアシスと呼ばれる靱公園をはじめ、少年広場や野球場を有する松島公園など区民の憩いの公園が大小合わせ30カ所ある。また、中央図書館、公文書館等の文化教育施設や、「靱テニスセンター」「西スポーツセンター」「西屋内プール」など、スポーツ施設も充実している。全天候型の多目的ドーム「京セラドーム大阪」はプロ野球の本拠地として、またスポーツ、コンサートなど各種イベントの会場として市民に娯楽、交流の場を提供している。川口居留地跡、大阪市役所江之子島庁舎跡、大阪府庁跡など大阪の経済・文化・行政の中心地として発展してきたことをしのばせる史跡も多数残されている。

南北には四つ橋筋、なにわ筋及び新なにわ筋、東西には中央大通、長堀通といった東西南北に通ずる幹線道路網があり、また、地下鉄四つ橋線、同千日前線、同中央線及び長堀鶴見緑地線が区内を縦横に通じるなど便利な交通網を形成している。さらに、平成21年3月に阪神なんば線が開通し、ますます交通至便なまちとなってきている。

京セラドーム大阪

こうした良好な居住環境や交通の至便性が高く評価され、近年マンションの建設が相次ぎ、人口は増加の一途をたどっている。

当区では、「安全安心で住みよい西区」をめざし、新たに区に流入した人々と、既存の地域コミュニティとの間で積極的なコミュニケーションを図る取組みをすすめており、あたたかく魅力あふれたまちとして今後ますます発展しようとしている。

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町名の由来


安治川(あじがわ)

安治川は貞享元年(1684)河村瑞賢が幕命により淀川・大和川の治水対策の一環として開削した。河口付近にあった九条島に新しく川を掘り割って流路を直線化する工事を短期間で完成したという。開削当時は単に新川と呼ばれていたが、後にこの地が安らかに治まるようにとの願いを込めて、あるいは、瑞賢の通名(河村瑞賢安治)をとって安治川と呼ぶようになった。

阿波座(あわざ)

古くから阿波(徳島)の商人たちがこの地に住みついて座をつくり商いなどをしていたことに由来する説と、当地が阿波屋(西村)太郎助の所領地であったことからだとする説の二説がある。

立売堀(いたちぼり)

  1. 大坂冬の陣・夏の陣の時、伊達家がここに壕を堀り陣地としていたが、その跡を掘り進んで川としたことから始めは伊達堀(だてぼり・後には、いたちぼり)と呼んでいた。その後沿岸で材木の立売(たちうり)が許されたため字は立売堀と改められたが、これを今まで通り「いたちぼり」と読ませていた。
  2. 元は阿波座の阿波屋西村太郎助家の所有地であったが、後に敷地を割って売ったので、断売堀(たちうりぼり)、あるいは居断堀(いたちぼり)という。
  3. イタチがいたので鼬堀(いたちぼり)と呼んだのが転化して立売堀になった。

以上の説がある。

靱(うつぼ)

豊臣秀吉がある日お供を従えて市中巡視をした際、町で魚商人たちが「やすい、やすい」と威勢のよい掛け声で魚を売っているのを耳にして「やす(矢巣)とは靱(矢を入れる道具)のことじゃ」と言ったので、その言葉にあやかって靱という町名がつけられたという。

江戸堀(えどぼり)

町名は、元和3年(1617)に開削された江戸堀川沿いに町域が位置したことに由来。堀川の名称起源は、はっきりしないが、徳川幕府の統治下に入って最初に掘った堀割を記念して付けたものと思われる。江戸時代には諸藩の蔵屋敷が建ち並び、舟運にも良く利用された。
江戸堀川は水質浄化のため昭和11年ごろ、川の起点部分に可動堰が設けられたりもしたが、昭和30年9月には埋め立てられた。

江之子島(えのこじま)

古来、難波江の児島・難波江の小嶋などと呼ばれていたのを、のち難波の冠字を略したという説と、もと犬子島と呼ばれていた所が転訛して江之子島となったという説がある。

川口(かわぐち)

この地が安治川と木津川の分流点に位置していることから用いられた通称であることに由来する。『摂津名所図会』には、「河口……河海の喉口にして両所あり。一は安治川という。大川筋・土佐堀・蜆川等の下流なり。一は木津川という。長堀・道頓堀、及び西の方諸流ここに帰会す……。むかしの川末(かわじり)の江口なり」とあることにもとづく。

北堀江(きたほりえ)、南堀江(みなみほりえ)

この地は難波(なんば)村といわれていたが、元禄11年(1698)新地の開発を目的とした堀川の開削に伴い、難波(なにわ)堀江(「・・・上古(じょうこ)の難波(なにわ)堀江にして今の大川也」【摂津名所図会大成】)を模して堀江の名を選んだのではないかという説がある。新たに開削した堀川を「堀江川」と名付け、堀江川の北側を北堀江、南側を南堀江というようになった。
元禄15年(1702)には、現在の南堀江3丁目の高台橋(たかきやばし)公園付近に大坂角力の相撲場がつくられ、その対岸には堀江新地が発展し、いずれも賑わい、この両所をつなぐ橋は賑江橋(しんえばし)と名付けられた。
堀江川は昭和35年に埋め立てられた。

京町堀(きょうまちぼり)

大坂冬の陣・夏の陣後、大坂城主松平忠明の人口来住政策に呼応して、伏見京町から移住してきた町人らが開発した町域であることに由来する。

九条(くじょう)

  1. 『摂陽群談』には「或いは衢壊(くじょう)に作る。貞享年中(1684~88)この地の衢を切て、淀川の流を直す」とあって、このとき衢(みち)を切ったため、衢壊(くじょう)の名が生まれたことに由来し、「九条」は衢壊の字をもじったものである。
  2. 中之島の西にあった島を、寛永年間(1624~44)に香西皙雲が開発し、儒者の林羅山が衢壤島(くじょうじま)と名付けたという。また、香西皙雲に協力したのが池山新兵衛であり、旧姓が壤島であったことからともいう。
  3. 延宝年間(1673~81)の洪水の時に、京都の九条家の笏が流れ着いたことから、九条と称するようになったという。

以上の説がある。

境川(さかいがわ)

境川は九条と市岡の境界に井路川があったことから境川と名付けられた。後に安治川と尻無川を結ぶ目的で境川運河が明治後期につくられたが、戦後埋め立てられた。

新町(しんまち)

『摂津名所図会』にも記載されているように「田圃を闢きて新に町とせしゆゑ、世の人新町とよんだ」ことに由来する。

千代崎(ちよざき)

町域の東側を流れる木津川に架かり、当町と南・北堀江とを結ぶ千代崎橋から採ったものだが、千代崎の語源は木津川下流の千本松の表現に「千株の竝松(なみまつ)蒼々として千代に栄えの色をあらわし」とあることにもとづく。

土佐堀(とさぼり)

町域が大川の分流である土佐堀川左岸に沿って位置することに由来する。『大阪市史』によると、この付近は豊臣期に土佐商人の群居した土佐座の地といわれ、これによって河川名を土佐堀川と名づけたと伝えられている。

西本町(にしほんまち)

昭和52年から現在の町名となった。東区(現中央区)本町の西に位置するところからの命名だと思われる。旧阿波座北通・旧阿波堀通と旧阿波座上通1~4丁目・旧靱本町1~4丁目の各一部から形成されている。

本田(ほんでん)

新田に対する元来の田地の意味を具えた地域であることに由来する。


参考文献:「角川日本地名大辞典-大阪府-」「大阪の地名由来辞典」ほか
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沿革・歴史

明治2年(1869年)、大阪市街地は東・西・南・北の4大組に分けられ、現在の西区域の大部分は西大組に組み入れられました。明治12年(1879年)の郡区町村編成法により、当区域は大阪府西区(一部北区)と大阪府西成郡になり、明治22年(1889年)の市制・町村制施行にともない大阪市西区という現在の名称になりました。

大阪府庁は、もと東区本町の大坂西町奉行所跡に置かれていましたが、明治7年(1874年)、西区の江之子島(川口居留地の木津川を隔てた対岸)に新庁舎が完成・移転し、市制施行後の明治32年(1899年)には、市役所が府庁の北東に完成しました。

そして、明治36年(1903年)、花園橋(九条新道)~築港間に大阪初の市電が開通しました。

近代産業が進展し、人口が爆発的に増加していった大阪市では、市街地の先行的な整備を図るため、大正14年(1925年)、東成・西成両郡を大阪市に編入する市域拡張を行いました。市域拡張にともない、旧市域の4区を8区に分区し、編入市域の5区を加えて、市は13区制となりました。この時に、西区は分割され、その一部が新設された港区に編入されました。その後も市は区界変更・市域拡張などを行い、現在の西区域は昭和18年(1943年)の行政区画の変更によって確定しました。

明治期に開設された松島の盛り場と川口波止場の開港は、後背地の九条が「西の心斎橋」と称されるほどの賑わいをもたらし、木津川に架かる千代崎橋から、九条新道商店街を抜けて安治川を渡る「源平衛渡し」まで、一日中人通りが絶えなかったといいます。

新旧の港、川口・九条と築港を結ぶみなと通は、多くの人と情報が集まるビジネス拠点となり、大正から昭和初期にかけて船会社、倉庫会社、銀行等が競うようにビルディングを建設し、九条地区のメインストリートとなりました。

第二次世界大戦で西区内の80%にわたる地域が戦災をうけました。しかし、終戦直後から市街地の復興がいち早く始まり、昭和21年(1946年)には「復興都市計画」が決定し、当区域内には、なにわ筋(加島天下茶屋線)と新なにわ筋(尼崎堺線)の南北軸、中央大通(築港深江線)の東西軸といった幹線道路が建設されることになります。

うつぼ公園

また、空襲で焼け野原になった地域では、道路・公園・下水道などの整備や改善をめざす戦災復興土地区画整理事業が実施されました。この事業によって、従来の不規則な街区が整理され、広幅員の幹線道路やその他の都市計画道路が建設されていきました。9万2000平方メートルという区内最大の公園である靱公園も、緑豊かな大公園に整備されて昭和30年(1955年)から一般利用を開始しました。

本格的な自動車交通時代が到来したことにより、水上交通機能の存在意義が小さくなった堀川は、昭和40年代までにそのほとんどが埋め立てられました。また、地下鉄とバスの路線拡充により、利用者が減少した市電も昭和44年(1969年)には全面的に廃止されました。区内の堀川と市電は姿を消しましたが、堀川埋立地の大部分は道路用地となり、市電路線網は、四ツ橋筋・本町通・あみだ池筋・みなと通(国道172 号)・長堀通など現在も主要幹線道路となっています。

公共交通の主役となった地下鉄は、昭和39年(1964年)中央線の開通に続いて、昭和40年代に四つ橋線と千日前線が完成、平成9年(1997年)には長堀鶴見緑地線の延伸区間(心斎橋~大正間)も開通して、区内には4本の地下鉄路線と11の地下鉄駅を抱える交通網の充実した区となりました。

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西区の花

平成2年4月1日~9月30日まで開催された「国際花と緑の博覧会」に向けて、花と緑あふれる豊な町づくりをめざし、広く区民の皆さんから「区の花」を募集しました。皆さんの多数の意見をもとに、昭和63年10月、次の花が選ばれました。

区民相互の連帯感やわがまち意識の高揚を図り、区民に親しまれる区のシンボルとして「区の花」を制定し普及に努めています。


サクラ

西区の花(さくら)

土佐稲荷神社など名所が多数あり、歴史的にも西区と深いかかわりがあります。


バラ

西区の花(ばら)

情熱的で美しく、品種も多く、靱公園のバラは、西区を象徴しています。


パンジー

西区の花(パンジー)

明るくかわいらしく、観賞期間が長く家庭や職場で手軽に育てられます。


コスモス

西区の花(コスモス)

清そで優しくて、ふるさとのイメージがします。西区にふさわしい花です。

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〒550-8501 大阪市西区新町4丁目5番14号(西区役所5階)

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