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036 五輪橋橋詰めの塚

2023年11月20日

ページ番号:33854

桑津3丁目付近の駒川にかかる橋には、「五輪橋」と命名されています。 橋の名前にもなっているこの五輪塔は大坂夏の陣の際(1616年)、平野と共に奈良街道に沿った桑津も激しい戦場になり、ここで亡くなった二人の武将を供養したものです。
江戸城留守居役として動けなかった賤ケ岳(しずがたけ)の七本槍で有名な福島正則(注)に替わって、侍大将の柴田権十郎正俊が豊臣方に付き、徳川方に味方した蜂須賀九郎右衛門とこの地で闘い、九郎右衛門の首を討ち取るが、自らも重傷を負いこの地で自刃しました。
住民が二人の供養をし、二つの五輪塔を建立しましたが、一基(九郎右衛門の墓)は行方不明となっています。

五輪橋橋詰めの塚

(注)福島正則(永禄4年~寛永元年(1561年~1624年))
母が秀吉の叔母に当たる関係で幼い時から秀吉に仕え、山崎の合戦(明智光秀)や賤ヶ岳の合戦(柴田勝家)で突出した武功を示す。 文禄の役(韓国)では、文官の石田三成と対立し、秀吉の死後に加藤清正と共に、三成を襲撃し、徳川家康に取りなされます。 これが縁で、清正も正則も家康に付き、関ヶ原の合戦(清正は既に死去)では武功により、安藝(広島県)国(50万石)を与えられます。
しかし、豊臣秀頼に対する忠誠心が厚く、後に二代将軍秀忠により、些細なことを口実にして、息子・正利は3千石の旗本に移されます。
大坂夏の陣では、家康が正則の大坂方への寝返りを警戒し、江戸城留守居役として、正則の行動を封じ込めたので、柴田権十郎が身代わりとなって、秀頼に味方したと言われています。

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