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039 五輪橋橋詰めの塚

2022年1月14日

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桑津3丁目付近の駒川にかかる橋には、「五輪橋」と命名されています。 橋の名前にもなっているこの五輪塔は大坂夏の陣の際(1616年)、平野と共に奈良街道に沿った桑津も激しい戦場になり、ここで亡くなった二人の武将を供養したものです。
江戸城留守居役として動けなかった賤ケ岳の七本槍で有名な福島正則(注)に替わって、侍大将の柴田権十郎正俊が豊臣方に付き、徳川方に味方した蜂須賀九郎右衛門とこの地で闘い、九郎右衛門の首を討ち取るが、自らも重傷を負いこの地で自刃しました。
住民が二人の供養をし、二つの五輪塔を建立しましたが、一基(九郎右衛門の墓)は行方不明となっています。
五輪橋橋詰めの塚
(注)福島正則(永禄4年~寛永元年(1561年~1624年))
母が秀吉の叔母に当たる関係で幼い時から秀吉に仕え、山崎の合戦(明智光秀)や賤ヶ岳の合戦(柴田勝家)で突出した武功を示す。 文禄の役(韓国)では、文官の石田三成と対立し、秀吉の死後に加藤清正と共に、三成を襲撃し、徳川家康に取りなされます。 これが縁で、清正も正則も家康に付き、関ヶ原の合戦(清正は既に死去)では武功により、安藝(広島県)国(50万石)を与えられます。
しかし、豊臣秀頼に対する忠誠心が厚く、後に二代将軍秀忠により、些細なことを口実にして、息子・正利は3千石の旗本に移されます。
大坂夏の陣では、家康が正則の大坂方への寝返りを警戒し、江戸城留守居役として、正則の行動を封じ込めたので、柴田権十郎が身代わりとなって、秀頼に味方したと言われています。

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