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生野区内の史跡・旧跡

2019年6月10日

ページ番号:16

◆御勝山(おかちやま)古墳◆

場所生野区勝山北3丁目16番
交通…市バス『生野区役所』下車 東へ2分

おかちやま古墳の写真

 もとは岡山と呼ばれ、元和元(1615)年夏の陣の大坂落城のとき、徳川秀忠がここで戦勝の宴を催したことから御勝山の名で知られるようになりました。
 南北112m、東西55m、高さ約8mの前方後円墳で現在は前方部が道路(勝山通)と勝山南公園になっており、後円部を残すのみです。
 市内では、茶臼山古墳(天王寺区)と帝塚山古墳(住吉区)と並んで重要な史跡の一つです。中臣氏の祖『大小橋命(おおおはせのみこと)』の墓であるといわれていますが明らかではありません。

◆勝山遺跡◆

場所生野区勝山北3丁目16番
交通…市バス『生野区役所』下車 東へ2分

 大阪市域では、これまで縄文中期・後期(紀元前4千年ごろ)の森ノ宮遺跡(中央区)が最古とされていました。しかし、平成2(1990)年10月から11月にかけて御勝山古墳附近での調査の結果、縄文時代早期末から前期初頭(紀元前5千年ごろ)の土器片が発見され、この附近を『勝山遺跡』と名付けられました。

 出土した土器片の中には、二枚貝の先端を擦り付けて土器の表面を整え、半分に割った竹のようなものを縁取り部分に押しつけたC字形(割り竹の内側を押しつけたもの)やD字形(割り竹の外側を押しつけたもの)の爪形文のものや二枚貝で円弧を描いた条痕文のあるものがありました。C字形・D字形の爪形文は、粟津貝塚(滋賀県)で出土した粟津式と呼ばれているものと同種の爪形文で、大阪府内では初めて出土したものです。

 円弧を描いた条痕文のものは、東海地方の天神山土器との関連が考えられ、当時の人の交流がうかがえる貴重な資料として注目を集めています。

 

◆つるのはし史跡公園◆

場所生野区桃谷3丁目17番
交通…JR大阪環状線『桃谷』駅下車 東へ7分

つるのはし跡公園の写真

 むかし、このあたりに鶴が多数飛来したことから橋の名となったようです。一説には、西暦 323年に百済川に架設された橋で猪甘津橋の古跡ともいわれ、『日本書紀』仁徳天皇14年11月の条に『猪甘津に橋を為(わた)す。即ち、そのところを号(なず)けて小橋という』と記され、文献にでている橋ではわが国最古のものといわれています。『つるのはし』は、旧桃谷街道・鶴橋街道が旧平野川を渡る地点に架けられ、古くは河内・大和への交通の要所。新平野川の開削により、昭和15(1940)年に廃橋、石碑と当時の親柱4本を記念に保存し、平成9年4 月に『つるのはし跡公園』として再整備されました。

 

◆大阪府立農学校史跡碑◆

場所生野区勝山北3丁目13番30号生野区民センター敷地内
交通…市バス『生野区役所』すぐ

大阪府立農学校史跡碑の写真

 大阪府立農学校は、現在の大阪府立大学農学部の前身で、大阪府が全国に先がけて近代農業の指導者を養成するために明治21(1888)年創設されました。当初、堺市で開校し、2年後の明治23(1890)年11月に当地へ移転。優美な木造洋式建築の本館を擁し、敷地は約4万3千坪あり、現在の勝山北3丁目、勝山南3丁目がすっぽり入るほどの広さでしたが、市街化がすすむ大正15(1926)年、再び堺市に移転しました。いまでは、区役所、消防署勝山出張所、生野警察署や学校などの公的施設が集中する生野区の中枢地区となっています。

◆折口信夫(おりぐちしのぶ)文学碑◆

場所生野区勝山南3丁目3番御勝山南公園
交通…市バス『生野区役所』下車 東へ1分
おりぐちしのぶ文学碑の写真

 折口信夫(1887 ~ 1957)は、浪速区で生まれ、釈 迢空(しゃくちょうくう)の名で知られている歌人で、万葉学者であり文学博士であった。明治の末、天王寺中学校在籍の頃より、大阪近郊の名所旧跡の地理に詳しく、放課後や日曜日などには友人とよくこの辺を散歩していたそうです。
 なかでも、百済野を詠んだ作品をはじめ数多くの歌を残しています。
 この文学碑には、『小橋過ぎ 鶴橋生野来る道は古道と思ふ 見覚えのなき』と生野を詠んだ歌が彫られています。

 『百済野の 道はありし日さながらにあゝうばらさへ昔にかをる』…釈迢空

 

◆大阪慈恵(じけい)病院跡◆

場所生野区生野東2丁目3番66号生野工業高等学校内
交通…市バス『生野工高前』下車すぐ
大阪じけい病院跡の写真

 多くの篤志家によって、恵まれない人々の医療施設として開設された病院として世に知られています。
 この病院は、明治21(1888)年6月、高橋正純、緒方惟準らの医師が創設したもので、現在の中央区唐物町にあった円光寺で診察がはじめられ、移転を重ねながら拡張。大正2(1913)年に弘済会に引き継がれ、大正13(1924)年に現在の市立生野工業高等学校の地に移されました。
 その後、昭和19(1944)年に大阪市に移管されましたが昭和20(1945)年の戦災で焼失し、いまは吹田市古江台の市立弘済院付属病院となっています。

◆横野神社跡◆

場所生野区巽西3丁目9番
交通…地下鉄千日前線『南巽』駅下車 北西へ10分
横野神社跡の写真

 当社は、平安時代に記された延喜式内社の神社でもとは印色宮(いんじのみや)と呼ばれ、明治40(1907)年巽神社に合祀されるまでこの地に在りました。
 『日本書紀』によれば、仁徳天皇は仁徳天皇11年に難波高津宮の北に堀江を掘り、旧大和川の水を西へ流す治水や淀川に茨田堤を築くなどして耕地を増やし、大きな功績を挙げたことを伝えています。
 また、仁徳天皇13年にはおそらくこの辺り一帯にあったと思われる『横野堤』を築き、翌年には『つるのはし』を架けたと伝えられ、この横野堤の守護神が横野神社であったといわれています。

 

◆楠正長(くすのきまさなが)史跡公園◆

場所生野区巽南4丁目2番
交通…地下鉄千日前線『南巽』駅下車 南へ2分

楠まさなが史跡公園の写真

 この碑のあるところは、室町時代の中頃、楠正長が隠栖(居住)した天神社のあったところといわれています。

 楠正長は、楠正成(まさしげ)の孫にあたり、文中元(1372)年に隣村の正覚寺村で左馬頭正儀(さまのかみまさのり・正成の三男)の三男として生まれました。壮年のころ、天神社において四条居士と称し、北朝よりの招請を拒み、楠氏一族の慰霊に専念していました。
 その後、本願寺の巧如上人に帰依して名を定願と改め、法名にちなんで定願寺を現在の巽南1丁目10番10号に建立しました。定願寺には、楠正長の木像が残されています。

◆釈翠岩墓所(しゃくすいがんぼしょ)◆

場所生野区中川東2丁目7番
交通…地下鉄千日前線『小路』駅下車 西へ6分
しゃくすいがん墓所の写真

 約300年前、旧中川村に生まれ地域の福祉増進にと私財を投じた住吉屋太郎右衛門の墓です。
 住吉屋太郎右衛門は、後に剃髪して翠岩と号しましたが生来慈善心に富み、公共心が強く、近郷の橋11ヶ所の架設や道路修理、社寺への寄金、村民への施米資金の寄付など、その功績は数えきれません。
 また、当時寄付された土地は現在も中川町財産区として管理運営されており、福祉や地域振興に恩恵を与え続けています。墓所の入口には、翠岩さんが架けた石橋の一部が記念石として置かれ、遺徳が偲ばれます。

 

◆巽村役場跡◆

場所生野区巽中3丁目18番
交通…市バス『巽公設市場前』下車 東へ3分
巽村役場跡の写真

 巽小学校の正門の東向いに、児童公園があります。昼間は子どもたちで賑わう公園ですが、実はここに旧巽村役場がありました。
 明治22(1889)年に町村制が施行されたとき、矢柄村・伊賀ヶ村・西足代村・四条村・大地村の5つの村が合併し、大阪城から見て、巽(東南)の方角に当たるところから「巽村」となりました。

 村役場は初め、小学校とともに大地集落にありましたが、大正7(1918)年にこの碑のある場所に移転しました。以来、昭和23(1948)年まで中河内郡巽村役場として、昭和30(1955)年まで巽町役場として地域住民に親しまれてきましたが、1955年に巽町が大阪市に合併されて、町役場も廃止されました。
 現在では、地下鉄千日前線が内環状線の地下を走り、マンションや住宅などが建ち並んでいますが、50年ほど前までは、東は生駒山から西は六甲山まで見渡せるのどかな田園風景が広がっていました。

 

◆小路村役場跡◆

場所生野区小路1丁目20番
交通…地下鉄千日前線『小路』駅下車 西へ3分
小路村役場跡の写真

 河内平野西部の一角にあった小路村は、西北部に片江、西南部に中川、中央部に大友、東北部に腹見の四大字に分かれており、小路の地名は、腹見(原見)にあった天武天皇が通ったとされる小路に起因していると思われます。
 その後、大正14(1925)年に大阪市に編入されるまでここに小路村役場がありました。現在は役場あとの碑はありませんが、小路耕地整理の記念碑、片江村の宮跡碑、春高稲荷社蹟碑が建てられています。

 

◆松尾神社跡◆

場所生野区中川東2丁目8番
交通…地下鉄千日前線『小路』駅下車 西へ6分
松尾神社跡の写真

 この辺りは合併によって小路村となる以前は「中川村」と呼ばれ、かつてこの場所に「松尾神社」があったとされていますが、明治42(1909)年4月10日に村社小路神社に合祀されました。小路神社は昭和17(1942)年、紀元2600年記念事業を機に現社号清見原神社に復しました。

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