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生野区内の神社・寺

2019年1月8日

ページ番号:29

※説明文については、それぞれの寺社から寄稿していただいた原稿をもとに、生野区役所で編集しています。

 

彌栄神社 | 御幸森天神宮 | 生野神社 | 生野八坂神社 | 田島神社 |
巽神社 | 清見原神社 | 難波寺 | 舎利寺 | 円徳寺 | 偏増寺 | 成恩寺 | 定願寺

 

◆彌栄(やえ)神社◆

場所生野区桃谷2丁目16番22号
交通…JR大阪環状線『桃谷』駅下車 北東へ10分
やえ神社の写真

 神祖素盞嗚命(すさのおのみこと)を文録年間に熊野巫神社(旧出雲国意宇郡)より分霊奉還したのがはじまりと旧記にあります。
 その当時は牛頭(ごず)天王社と呼ばれ、創立以来旧木野(この)村の鎮守として崇敬厚く宮座(みやざ)を設けて奉仕し、明治5(1872)年村社に列せられ、社号もこの時に彌栄神社と改められました。
 明治43(1910)年、氏子協議のうえ大字岡村(現勝山北4丁目)の御館(みたて)神社を合祀しました。その御館神社は、旧岡村の生土神(うぶすながみ)でいばらの神と呼ばれ、仁徳天皇の的殿(まとどの)の旧跡で、現在は彌栄神社の御旅所(おたびしょ)となっています。

 

◆御幸森(みゆきもり)天神宮◆

場所生野区桃谷3丁目10番 5号
交通…JR大阪環状線『桃谷』駅下車 東へ10分
みゆきの森天神宮の写真

 仁徳天皇・少彦名命(すくなひこなのみこと)・押坂彦命(おさかひこのみこと)を主祭神としています。江戸時代には『御幸宮』または『天皇天神社』と称していました。

 社頭に立てられた由来碑によると、仁徳天皇のとき百済野の北端にあった小丘に鷹を放って天皇がそれをご覧になったところから御幸森の名が起こったと刻まれています。
 また、境内にある5本のムクノキ(椋)の老樹は『まちの貴重な緑をみんなの力で守っていこう』との願いから、市の保存樹林に指定されています。

◆生野神社◆

場所生野区舎利寺1丁目2番27号
交通…市バス『生野消防署前』下車 西へ5分
生野神社の写真

 木瓜(もっこう)を神紋とする生野神社の古名は、牛頭(ごず)天王宮という神号を用い、明治5(1872)年村社、明治42(1909)年素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社を経て、戦後の昭和22(1947)年に生野神社と改称。 神社の鳥居は小振りながら宝永7(1710)年の刻銘があり、区内では最も古い貴重なもので、鳥居より背の高い大きな歌碑と榎・いちょうの古木が景観を添えています。
 また、拝殿前の一対の狛犬は天保4(1833)年のもので、お伊勢参りが大流行した江戸期の貴重な記念物です。これは村の氏神さんへの崇敬を疎かにしなかった証拠品となっています。

◆生野八坂神社◆

場所生野区生野東4丁目7番11号
交通…市バス『生野八坂神社前』すぐ
生野八坂神社の写真

 東成郡誌第三編、生野村第四神社の項に『素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社、大字林寺字林に鎮座せり…』とあり、その創祀は諸書に『元禄二巳(1689)年勧請』とありますが、他にも説があって定かではありません。
 東成郡林寺村(旧地名)の氏神様として崇敬されていましたが、明治41(1908)年に天王寺区の河堀稲生神社に合祀され、境内地も『河堀稲生神社御旅所(おたびしょ)』となりました。その後、氏子有志の熱誠なる努力によって復興造営が完成し、昭和30(1955)年御神霊の還御を仰ぎ『生野八坂神社』の認証を受け、『生野の祇園様』として今日に至っています。

 

◆田島(たじま)神社◆

場所生野区田島3丁目5番34号
交通…市バス『田島三』下車 東へ3分
田島神社の写真

 古い記録は洪水などで紛失していますが、残った石灯籠などに刻まれた文言によれば、少なくとも貞享元(1684)年にはすでに神社があったことがわかります。
 その頃、菅原大神(すがはらのおおかみ)を主神とし、事代主命(ことしろぬしのみこと)・八幡大神を相殿として天満宮といわれていました。
 寛政4(1792)年には、少彦名命(すくなひこなのみこと)を主神として天神社といわれ、明治42(1909)年に現社号の田島神社と改称しました。その後、平成2(1989)年に御大典記念として本殿を改築し、石鳥居や『天神さまの牛』が新設されました。

◆巽(たつみ)神社◆

場所生野区巽南3丁目17番19号
交通…地下鉄千日前線『南巽』駅下車 南東へ1分
たつみ神社の写真

 社伝によれば、巽神社は応神天皇を奉り旧河内国渋川郡大地(おおぢ)村にあり、八幡(はちまん)神社といわれていました。創建年代は明らかではありませんが、平安時代に編纂された和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)巻の六にも河内国澁川郡に邑智(おおち)とあるほか、竹淵(たかふち)、餘戸、跡部(あとべ)、賀美(かみ)、と集落があり、氏神を祀る風習から既に神社が祀られていたようです。
 明治40(1907)年4月、大地「横野神社」、伊賀ヶ字伊賀ヶ「天神社」、西足代字葭の内「天照皇大神社」、矢柄字宮の前「熊野神社」、四条字山小路「天神社」の五社を合祀、村の名をとって巽神社と改称しました。

 

◆清見原(きよみはら)神社◆

場所生野区小路2丁目24番35号
交通…地下鉄千日前線『小路』駅下車 南東へ5分
清見原神社の写真

 現在の宮地には旧大友村の氏神、天武天皇宮(のちの清見原宮)がありました。
 創建年代は不詳ですが、天武天皇が難波に行幸された際、この地に暫く憩われた由縁によって創建されたと言い伝えられています。
 神社合祀令により、明治42(1909)年に片江村の素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社・中川村の松尾神社・腹見村の木守勝手(こもりかって)神社・大瀬村の八劔(やつるぎ)神社の五社を五ヶ村のほぼ中央にあたる大友村の宮地に合祀し、五ヶ村合併後の小路村の名に因んで『小路神社』と命名。のち、紀元 2600年の記念事業(神社の増改築竣工)を機に、昭和17(1942)年現社号『清見原神社』に復しました。

◆難波(なにわ)寺◆

場所生野区巽北1丁目7番18号
交通…市バス『巽北一』下車すぐ
難波(なにわ)寺の写真

 大坂三十三所観音霊場第十三番の札所で、本尊の十一面観音菩薩は、平景清の念持仏と伝えられています。もとは東高津に在り、「野中の観音」と呼ばれ親しまれていましたが、大正13(1924)年この地に移転してきました。

 西門を入った所に弘法大師作の「墨かけ地蔵さん」があります。習字が上達するようにお願いして、墨汁をあびせるので黒く光ったお地蔵さんです。

 

◆舎利尊勝寺◆

場所生野区舎利寺1丁目2番36号
交通…市バス『生野消防署前』下車 西へ5分
舎利寺尊勝寺の写真

 正しくは、南岳山舎利尊勝寺と呼ばれ禅宗の一派に属し、本尊は釈迦如来です。約1400年前、用明天皇のころ、生野長者と呼ばれる長者に言葉の不自由な子が生まれました。長者が、四天王寺伽藍を設立するために来ていた聖徳太子にすがると、太子はその子に向かい「わたしが前世に預けた3つの仏舎利を返しなさい」といいました。すると3つの仏舎利を吐き出し、それからは普通に話せるようになりました。太子はそのうち、ひとつを法隆寺に、ひとつを四天王寺に、残った一つを長者に渡しました。長者が、お堂を建てて、この仏舎利を奉ったのが、舎利寺の起源と言われています。

 

◆圓徳寺◆

場所生野区巽中4丁目8番26号
交通…地下鉄千日前線『南巽』駅下車 西へ3分
圓徳寺の写真

 室町時代この地の郷士・上場又三郎正欽という人が、足利義尚の麾下に属し、江州坂本において佐々木高頼と戦ったが、後に感ずるところあって本願寺蓮如上人に帰依して僧になり、長享2年(1488)その邸宅を道場としたものがこの寺の始まりとのことです。
 当寺には井原西鶴文学の「椀久一世の物語」に出てくる椀屋久右衛門の過去帳と彼が寄進した椀家具一式が残されています。

 

◆偏増寺◆

場所生野区小路1丁目7番14号
交通…地下鉄千日前線『小路』駅下車 西へ5分
偏増寺の写真

 永正10年(1513)年に圓如上人が阿弥陀如来をおまつりして建てられた古いお寺です。慈恩大師の西方要決文中の「利物偏増」の字から利物山偏増寺とつけられたと伝えられています。祖父にあたる石山本願寺八代の蓮如上人の名にある蓮の字から、蓮を好まれて、裏にあった池に蓮の花を育てて楽しまれたことから「蓮の寺」とも呼ばれていました。五本の白い線のある塀の壁は、本願寺より特に許された格式の高いお寺をあらわしているそうです。

 

◆成恩寺◆

場所生野区林寺3丁目10番16号
交通…市バス『林寺三丁目』下車 西へ1分
成恩寺の写真

 関白一条実経公が弘安2年(1278)山崎邑に創建し、臨済宗東福寺開山聖一国師の弟子奇山円然禅師を招して開山とし、宝興山成恩寺と名づけられました。
 その後梅田に移築しましたが、大阪駅の拡張により、現在の林寺の地に移転、東福寺大阪別院と改名し、また、昭和61(1986)年6月本山の命により元の寺号である宝興山成恩寺となりました。東福寺派の準別格として高い寺格をもっています。
 境内には福徳弁財天像・生野天神・釈迦涅槃石像・延命地蔵尊・相撲力士墓があり、大阪場所ごとに北の湖部屋の宿舎となっています。

 

◆定願寺◆

場所生野区巽南1丁目10番10号
交通…地下鉄千日前線『南巽』駅下車 西へ10分
定願寺の写真

 小丘山桑原院定願寺と号し、阿弥陀仏を本尊とし応永19(1412)年創建の寺です。もとは旧河内国渋川郡桑原庄西四条村にありましたが、明治14(1881)年現在の地へ移転しました。
 寺伝によれば、開基楠正長は南北朝時代の武将楠正成の孫にあたる人で、字山小路(現巽南1丁目1番)に住み、そこに祖父正成や伯父正行、父正儀の廟所をかまえて一族の霊を弔いました。また、開基伝にある山小路の堤が日本書紀で仁徳天皇13年に築かれた「横野堤」であるといわれています。
 寺には楠正長の木像があります。

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