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町名の由来

2019年1月8日

ページ番号:82

「生野」

舎利尊勝寺の鐘/写真

 生野の「いく」には、「生きる」という用法とは別に、生命力の強く盛んなことのほめ言葉としての用法があります。「いく野」とは生命力の強い野といった意味の言葉です。
 明治22年に國分村、舎利寺村、林寺村、林寺新家村、田島村が合併して「生野村」が成立しました。「生野村」の村名は舎利尊勝寺の鐘に刻まれている生野長者の伝説に由来しているといわれています。
 区の名称はその生野村の名称を継承したものですが、当時は、鶴橋区、大東区、勝山区、小路区などといった案もあったといわれています。しかし、生野長者の故事や生野中学校、生野高等女学校などの施設が既存していたことで、昭和17年12月18日の市議会で「生野区」と決定し、翌18年4月1日に東成区より分区して生野区が誕生しました。

「勝山」

御勝山古墳/写真

 勝山という町名の由来となった御勝山古墳は、中臣(藤原)氏の祖である大小橋命(おおおばせのみこと)の墓だといわれていますが、明らかではありません。
 この古墳は、もとは南北約112m、東西約55m、高さ約8mの前方後円墳で、古墳時代中期の5世紀前半に造られたと推定され、葺石、周濠も確認されており、埴輪も出土しています。
 江戸時代はじめまで「岡山」と呼ばれていましたが、大坂の陣で徳川秀忠の陣所となり、夏の陣で豊臣氏に勝利した際、戦勝の宴をおこなったことから御勝山と呼ばれるようになったといわれています。
 明治23年、現在の大阪府立大学農学部の前身である大阪府農学校の建設の際に、前方部が開墾され、現在では勝山通と勝山南公園に整備されており、後円部を残すのみとなっています。

「舎利寺」

舎利尊勝寺/写真

 舎利寺の由来となった「舎利尊勝寺」(舎利寺1丁目2番)の鐘には、大昔の物語が漢字で刻まれています。
 昔(約1400年前)、この辺りに住む『生野長者』と呼ばれる立派な人に、言葉の不自由な子が生まれました。 大変心配した両親は、その頃、四天王寺におられた聖徳太子におすがりしたところ、太子は子どもに向かって「前世であなたに預けた仏舎利を今すぐ返しなさい」といわれ、子どもは口から仏舎利3つをはきだし、言葉を話すようになりました。太子は2つを奈良の法隆寺と大阪の四天王寺に納め、残りの1つを生野長者に与えました。長者は大いに喜び、お堂を建て仏舎利をお奉りし「舎利寺」と名付けました。
 この鐘は、毎年大晦日の夜に除夜の鐘としてつくことができるそうです。
 また、「生野」でも紹介しましたが、生野の名称はこの生野長者に由来しています。

「小路」

清見原神社(旧小路神社)/写真

 小路の由来となった「小路村(おじむら)」は明治22年、中川、片江、大友、腹見の4か村が合併した際、この辺りの俗称の中小路(なかおじ)としようとしましたが、中の字が中川村の頭字だけを残すきらいがあるため「中」を取り「小路」としました。
 小路村の大字となったこれら4村の地名の由来にもそれぞれ言い伝えがあります。
 中川については平野川の分流である中ノ川という細流の周辺地域であることに由来。大友は大友皇子がこの地に在住したためとも、大伴金村の所領があったためともいわれ、片江は模江、傍江とも、葦のはえる沢であったため浜江ともいわれ、長瀬川と平野川が交わる江であったため交江に由来するともいわれています。腹見は、もとは原見と書かれていましたが、この地域では比較的高い地形に立地したことからとも、一説には秀吉が奈良見物の途中、立ち寄った民家で娘たちが踊りでもてなした時、着物が脱げ落ち、お腹が見えたことから腹見と改められたともいわれています。

「新今里」

昔の今里新地の風景/写真

 この辺りは昔「白鷺の里」といわれ、白鷺が群れ遊んだ景勝の地であったといわれています。旧大和川と平野川にはさまれ、葦などが茂る低湿地帯で入江に船着場があったことから、古くは片江(模江)、浜江と呼ばれていました。
 聖徳太子に破れた物部守屋の子孫が、没収された領地のひとつに模江があげられています。
 町名の由来ともなる「今里新地」は、区画整理事業がおこなわれるとともに、昭和4年に開業し、遊興街として発展しました。
 今里とは、その地が新たに開拓された所であることを意味し、さらに、新たに市街地化されたことで、新の冠称が付され「新今里」となりました。町名成立は意外に新しく、昭和13年になってからです。 昭和48年、新今里町1丁目から8丁目は新今里1丁目から7丁目と中川西1丁目の1部となりました。

「田島」

田島神社/写真

 「田島」の町名の由来は、「東成郡誌(第三編生野村)」によると「里人の説によれば此辺一帯に田区なりしが、漸次部落生じたり。依て此名ありと。」と記されています。これは、この地方に住んでいる人の説では、この辺りは田地であったが、次第に部落ができ、田の中の島、田島(たしま)になった、との意味のようです。
 読み方についても、郡誌に「大字田島(タシマ)」とルビを打ち、「但(ただし)島は『しま』と清音なり」と記され、地域の施設でも田島神社、田島小学校など、いずれも「たしま」とよばれています。
 ところが、現在の住居表示では「たじま」となっています。これは、大正14年の大阪市編入の際には東成区生野田島(たじま)町となっていたようです。
 よって、住所などの住居表示は「たじま」となり、地域の町の名前としては「たしま」と読むことになるようです。

「巽」

万葉歌碑/写真

 巽は古くは河内国渋川郡に属し、明治22年4月1日の町村制施行の際、当時あった大地、四条、伊賀ヶ、矢柄、西足代の五つの村が合併して一つの村となりました。
 村名については、この地域が大阪城からみて辰巳(南東)の方角に位置するため、「巽」の字をあて「巽村」になったとの説が一般的なようです。旧村名はそれぞれ巽村の大字となりました。
 明治29年に渋川郡は中河内郡と改められ、昭和23年の町制施行により中河内郡巽町となり、昭和30年、大阪市に編入され、生野区となりました。
 この辺りは、成り立ちが古く「横野」という名で「日本書紀」や「万葉集」にも出てきます。「万葉集」では「紫草の根延ふ横野の春野には君を懸けつつ鶯鳴くも(詠み人知らず)」と詠まれ、その歌碑が横野神社跡(巽西3丁目9番)に建てられています。

「鶴橋」

つるの橋跡/写真

 鶴橋の町名の由来となる「つるの橋」は、往時この辺りに鶴が多く集まったところから橋の号となったようです。
 「日本書紀」の仁徳天皇14年11月の条に「猪甘津(いかいのつ)に橋為(わた)す。即(すなわ)ち其の處(ところ)を號(なづ)けて小橋(をばし)と日う」と記されている「猪甘津(いかいつ)の橋」がつるの橋であったのではないかといわれています。
 猪甘津橋は百済川(旧平野川)に架けられた橋で、文献に出ている橋では日本最古のものといわれています。
 つるの橋は、旧桃谷街道・鶴橋街道が旧平野川に渡る地点に架けられ、古くは河内・大和への交通の要所だったようです。現在の平野川の開削によって、昭和15年に廃橋となりました。
 橋のあった場所(桃谷3丁目17番街区)には、昭和27年に記念碑が建てられ、碑の周りにある4本の石柱は、当時の石橋の親柱を保存したものです。

「中川」

釋翠岩墓所/写真

 中川の町名の由来となる東成郡中川村は、平野川の分流である中ノ川という細流の周辺地域であったためこの名がついたといわれています。中川村は明治22年に片江、大友、腹見の3か村と合併し、小路村の大字となりました。
 中川村というと翠岩(俗名を住吉屋太郎右衛門)さんが有名で、今から310年ほど前に生まれ「郷土のほまれ すいがんの気高い心 受けついで ま心こめて 学ぶのだ」と東中川小学校の校歌にも歌われています。
 昔からこのあたりは土地が低く、大雨が降ると田畑の作物や家が、水につかり流されたりしていました。翠岩さんは、自分の財産を投げ出し、道路や川の工事をしたり、橋を11も架けられたりしました。今から250年ほど前に、財産を中川村へ寄付すると遺言を残されて、62歳で亡くなられました。
 翠岩さんの墓所(中川東2丁目7番)の傍らに、その功績をたたえて頌徳碑が祀られています。

「林寺」

光明寺/写真

 林寺の町名の由来は「東成郡誌(第三編生野村)」では、この一帯に林があり、加えて光明寺(現 生野東4丁目6番)があったとし、「大阪府全志」では、同名の寺院(現存せず)があったためといわれています。
よく言われるのが、読み方が「林でら」なのか「林じ」なのかですが、「東成郡誌」では、大字の林寺と林寺新家にそれぞれ「林寺(ハヤシデラ)」と「林寺新家(ハヤシジシンケ)」とルビを打っています。
 一方、古くには秀吉の正室北政所(高台院)に与えた所領として、天正20年(1592年)の文書には「はやし寺」、文禄4年(1595年)に「林寺」、慶長9年(1604年)に「はやしじむら」と記載されており、古くには「林じ」といわれていたようです。
 また、現在の住居表示でも「林じ」となっています。
 なお、地域の施設では林寺小学校が「林でら」とよばれています。

「桃谷」

猪飼野新橋/写真

 桃谷の町名の由来は、かつて、玉造から四天王寺にかけての上町台地東斜面一帯が、一面の桃畑で桃山といわれていましたが、桃畑の広がりが長い距離にわたる割に幅が狭いので、美称として「谷」を用い、桃谷になったといわれています。
現在のJR大阪環状線は明治28年の開業当時、大阪鉄道城東線(天王寺~玉造間)といわれ、桃山駅がありました。しかし、奈良線にも桃山駅があり、混同するといけないので、明治38年に改称され桃谷駅となりました。
 桃谷は、昭和48年の住居表示変更前は、猪飼野中、猪飼野西、鶴橋北之町、鶴橋南之町、東桃谷町の各一部でした。
 猪飼野という地名は、猪(豚)を飼育する人たちの地という意味で、今では、平野川に架けられている「猪飼野新橋」、市バスの「猪飼野橋」停留所、桃谷3丁目にある「猪飼野保存会館」にその名を残すのみとなっています。

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