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生野区モノづくりの歴史

2016年4月8日

ページ番号:160822

生野区のモノづくりの歴史

(1) 農家の副業
• 生野区のモノづくりの歴史を振り返ると、江戸時代の農家の副業に行き当たる。片江の碁石、田島の眼鏡レンズ、大地の眼鏡枠などである。田島の眼鏡レンズは、丹波から村人が製造技術を習得し持ち帰ったことに起源がある。また、大地は「旧幕時代、淀藩稲葉家の領地であり、同藩士で内職に眼鏡製作をやっていた者が居た事が伝えられていることから、その連中に教えられてのであろう。」と推定されている(大坪元治『眼鏡の歴史』日本眼鏡卸組合連合会発行/1960 年)。

(2) 明治後期~昭和初期の工業発展
• 生野地域では明治後期から大正にかけて、大阪市内の卸問屋から発注を受ける形態で製造工場が創業される。鏡、メリヤス、染織、ボタン、洋傘骨、ブラシ、履物、塗料、セルロイド、ゴム、ガラス製品、機械金属などの業種である。昭和初期には耕地整理などが進展し、主要道路の開通により製造業の立地条件が整い、旧市内からの企業移転も相次ぐ。こうした中で、セルロイドは当時の新素材として、文具、眼鏡枠、万年筆、ブラシ、鏡といった品目と関連しながら地域の有力な産業として発展する。

• また、大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)における鉄鋼、材機、治金、金属加工、化学など諸分野での技術開発、職工育成の成果を受け、生野地域を始めとし東部大阪地域に、機械、機械部品、金属関連の産業集積が形成される。戦時期、この地域の製造業は軍需工場に指定されるなどの経過を経て戦後を迎える。

(3) 戦後・高度成長・現在
• 高度成長とともに、食品、衣服・繊維製品、化学、印刷、金属、機械などの製造業は業容を拡大し、モノづくりのまちとしてのピークを迎える。この時期、一部企業には製造・本社機能を地域外へ移転する動きも生じる。

• 生野区では、産業経済の構造転換、発展途上国とのコスト競争といった状況にあった、江戸、明治、大正、昭和の伝統を誇るモノづくり、IT、デザイン、福祉、環境などを切り口とした新たなものづくりが取り組まれている。近年、大阪商工会議所東成・生野支部が支援する異業種交流グループ「フォーラム・アイ」の新製品開発、「東成・生野モノづくりフェスティバル」の開催など、ものづくり振興に関する地域的な動きが活発化しつつある。

このページの作成者・問合せ先

生野区役所 市民協働課
電話: 06-6715-9017 ファックス: 06-6717-1163
住所: 〒544-8501 大阪市生野区勝山南3丁目1番19号(生野区役所4階)

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