民生委員制度の歴史
2024年10月17日
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方面委員制度の創設
大正7年(1918年)、第一次世界大戦後の厳しい状況のなか、富山県で発生した米騒動が大阪にも波及し、生活は極めて厳しい状況でした。
そのような中で、救貧を目的とした方面委員制度が、林市蔵(はやしいちぞう)大阪府知事により創設されました。
方面委員の「方面」とは「地域」を表します。各委員には、それぞれが一定の区域を担当し、訪問調査を通じて世帯状況を常に把握し、生活困窮等で支援が必要な人は迅速に救済機関につなぐという役割を担いました。
この制度が全国に普及することとなり、現在においても民生委員活動の中心として引き継がれています。
夕刊売り母子の挿話
大正7年(1918年)秋の夕暮れ、現在の大阪市中央区にある理髪店で大阪府の林市蔵知事が散髪をしていました。鏡に写る街の風景を見るともなしに見ていた林知事は、ある一点に釘づけになります。それは、40歳くらいの母親と女の子が夕刊を売る姿でした。
散髪を終えた林知事は、その夕刊売りに近づき、夕刊を1部買って話かけた後、その足で近くの交番に立ち寄り、この夕刊売り母子の家庭状況の調査を依頼しました。
後日、巡査から次のような報告があります。街角で見かけた母親は、夫が病に倒れ、3人の子どもを抱え、夕刊売りでやっと生計を立てているとのこと。子どもたちは、学用品も買えず、学校にも通っていません。
そのことを聞いた林知事は、自らの幼い頃の貧しい生活を思い起こすと同時に、このような母子は他にもいるはずだと考え、救貧・防貧の制度の必要性を痛感したのでした。
中央区とのかかわり
中央区には、民生委員制度創設にゆかりのある方々の史跡があります。
林市蔵知事像
夕刊売り母子挿話の中にある理髪店があったとされる中央区北浜にあります。
所在地…(中央区北浜4丁目 淀屋橋南詰・大川町公園)
大正7年(1918年)に現在の民生委員制度の礎となる、方面委員制度を導入した大阪府第15代知事・林市蔵の功績をたたえて制作された記念像。「民生委員の父」とも呼ばれています。
理髪店から市蔵が見た貧しい母子が制度の出発点になったといわれ、像は和服で整髪中の姿です。
小河博士頌徳碑(おがわはくし しょうとくひ)
小河滋次郎(おがわしげじろう)氏は大阪府最高嘱託であり、林市蔵知事の協力者として制度創設に尽力されました。
所在地…(中央区中寺1丁目1番 大阪社会福祉指導センター向い)
小河滋次郎は、文久3年(1863年)長野県生まれ。
大正2年(1913年)、大久保利武(おおくぼとしたけ)大阪府知事に「小河室」と称する政策検討機関を知事室の隣に設け、迎え入れました。着任後、救済研究会を発足し、知事や社会事業家らと意見交換を行いました。小河博士は貧しい地域を何度も見て歩き、現状の認識を新たにしました。
そして大正7年(1918年)、林市蔵知事のもと「方面委員」制度を公布。現在の民生委員制度の礎を築きました。碑の題字は元総理大臣清浦奎吾(きようらけいご)のものです。
方面委員制度から民生委員制度へ
昭和12年(1937年)には日中戦争が始まり、昭和16年(1941年)には太平洋戦争が始まりました。戦時体制が進み、国民は厳しい生活を余儀なくされました。
そうした中にあっても、多くの方面委員は、父親が出征中の家族や戦死者遺族の生活支援など、地域の実情に合わせて、住民に寄り添った支援を続けていました。
終戦を迎え、国民の多くが生活困窮に陥るなか、国としても緊急の生活支援施策を講じる必要があることなどを背景に、生活保護法とともに、「民生委員令」が昭和21年(1946年)に公布されることになり、方面委員は民生委員へと改められました。
民生委員とすることで、児童や母子、高齢者などの福祉をはじめ、広く国民生活全般の相談に応じる役割を明確にしました。
さらに、戦後の窮乏生活のなか最も深刻な影響を受けていた子どもたちを救うため、昭和22年(1947年)には、児童福祉法が公布されました。
この児童福祉法において、児童委員制度が創設され、民生委員が児童委員を兼任することとされました。
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