令和3年度中学生被災地訪問事業を実施しました
2021年12月28日
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区内中学生が被災地を訪問しました
中学生9人が12月11日~12日の2日間で宮城県を訪問してきました。
元々は8月に訪問を予定していましたが、新型コロナウイルス感染症の影響で延期しての実施です。
東日本大震災当時の被害状況や復興の状況を見たり、被災者から被災体験や教訓を聞いたりし、貴重な経験になりました。
今後、新型コロナウイルス感染症の感染状況を注視しながら、可能であれば区内各地域で行われる防災行事等の場を借りて、地域の皆様に中学生から報告を行う予定です。
行程1日目 大阪~南三陸町
出発式
1日目の午前7時10分に、福島区役所一階ロビーで出発式を行いました。
小路副区長からのあいさつに引き続き、参加生徒代表が出発のあいさつを行いました。「勉強したことを福島区で役立てたい」という心強い言葉に訪問への意気込みが溢れています。
お見送りに来られた保護者の皆さま、先生方お疲れ様でした。
プログラム①【まち歩き&インタビュー】
まち歩き【南三陸町震災復興祈念公園】
宮城県に到着し、最初のプログラム「まち歩き&インタビュー」開始です。
「まち歩き」は、南三陸町志津川地域にある「南三陸町震災復興祈念公園」周辺を、佐藤さんと浅野さんのお二人に案内していただきました。写真はプログラム開始時に中学生がお二人にあいさつをしているところです。
「南三陸町震災復興祈念公園」は令和2年10月に全体が完成したばかりの新しい公園です。写真の奥に見えるのは「祈りの丘」と名付けられた避難築山で、頂上は海抜20mの高さがあり、一時的な避難場所にもなります。
もともと志津川地域は昭和35年のチリ地震の教訓から4~6mの高さの津波を想定した避難場所が約70か所もあり、日頃から防災訓練を繰り返していたうえに、写真のような「避難場所まで〇m」といった標識も数多く設置され、住民の防災意識は高かったそうです。しかし、東日本大震災で志津川地域を襲った津波は16.5mで、避難場所の半数は被災し、地域の6割が浸水するなど、想定外の被害を受けました。
案内をしていただいた佐藤さんは当時高校2年生で、部活動の合宿所で被災しました。合宿所がそのまま避難場所となり、大人も避難してきたものの、ショックや疲労で動けない方も多かったため、高校生である自分たちが避難場所を運営しなくてはならず、戸惑うことも多かったそうです。
写真は「祈りの丘」から海を眺めた風景です。中央に見える石造りのモニュメントは献花台も兼ねており、中央に掘られた溝は震源の方向を指しています。
祈りの丘で、各中学校から一人ずつが代表して献花の後、東日本大震災で亡くなられたみなさまへ哀悼の意を込めて黙祷を捧げました。
祈りの丘の頂上から津波の高さと同じ海抜16.5mにある「高さのみち」を経て、写真右奥に見える「旧防災対策庁舎」に向かいます。
写真は震災遺構「旧防災対策庁舎」です。東日本大震災当日、南三陸町職員が防災無線放送などを通じて最後まで住民へ避難を呼びかけて多くの命を助けたものの、チリ地震の津波高さを想定して建てられていたため、16.5mという想定外の大きな津波に襲われて、避難していた43人もの職員や住民が亡くなられました。
当施設は令和13年まで宮城県が管理しますが、その後は南三陸町に管理権限が戻る予定です。見るのがつらい、被害を伝えるために残すべき、といった様々な意見があるため、令和13年以降「引き続き保存するか」「撤去するか」「撤去した場合は代わりに何か設置するか」といったことが地域で話し合われているところだそうです。
インタビュー
会場を宿泊施設「まなびの里いりやど」に移して地域住民の方へのインタビューを実施しました。
今回インタビューに協力していただいたのは、震災当時の状況がそれぞれ違う3人の方です。
最初に司会進行役の浅野さんから3人全員に、①発災当日何をしていたか②発災後1週間ぐらいまでどうしていたか、という質問をし、その回答の後、各中学校毎に3グループに分かれ、お一人15分ずつインタビューさせていただきました。また、お話を聞いて印象に残った言葉などを小さな色紙に書いていく、という課題にも取り組みました。
写真の鈴木さんは震災当時、海の近くに住んでいました。発災直後、息子さんが入所している福祉施設に避難したそうです。しかし、ハザードマップでは安全となっていたはずの福祉施設は津波で被災し、佐藤さんと息子さんは奇跡的に助かった後、さらに高い場所にある志津川高校まで避難したそうです。避難先の高校で「障がいのある方だけで教室を1つ使ってください。」と言われて、とても救われた思いがしたとのことでした。
また、「『津波に襲われて海が嫌いになったのではないか』とよく聞かれるが、海の近くに住む人は、いつも海とともに生きることを考え、覚悟もできている。海の近くに住んでいる人の多くは津波が来る前に避難した。大きな被害を受けたのはハザードマップで安全だとされていた境界付近に住んでいた人。大丈夫だろうという油断もあったかもしれないし、建物が邪魔で海が見えず、避難が遅れてしまった。」「災害の時の避難行動は、どこに住んでいるかで変わる。身の回りの危険を知ることが大事。水害、土砂災害など、住んでいる土地の弱点を確認してください。」といったお話をしてくださいました。
写真の阿部さんは震災当時、中学生でした。発災時は翌日の卒業式の準備で体育館にいました。中学校が高台にあったため直接の被害は受けなかったものの、10ⅿ低いところにあった小学校が被災し、中学校が避難所になったそうです。ジャージ姿で割れた照明の掃除をし、とても寒かった記憶があるとのことでした。家族は無事だったけれど、家が津波で流されてしまい、地域集会所の大広間で4か月間過ごしたそうです。
また「乾パンなどはあまりおいしくないので、非常食として買う気が起きないかもしれないが、『飲むおにぎり』など、おいしい非常食も出ているので、そういったものを知り、購入するといいと思う。非常時の情報収集手段として、手動で聞けるラジオなども便利。いざという時はアナログなものが力を発揮すると思う。」「今回の訪問でたくさんの人からいろいろな経験談等を聞くと思うけれど、それぞれは1つの例と思ってほしい。でも、多くの例を知っていれば、震災時の行動の判断材料にはなる。自分たちに震災が起こった時に何ができるか考えることは今後の人生にも役立つと思うから、1つでも多く学んだことを持ち帰って活かしてほしい。」といったお話をしてくださいました。
写真の牧野さんには震災当時、生後数か月の赤ちゃんがいました。発災時は定期検診のため、南三陸町に隣接する石巻市の赤十字病院にいました。
そのまま病院で過ごしたものの、夜中にどんどん被災者が運び込まれ、翌日には小学校の避難所に移動しました。パニック状態になった人もたくさんいて、落ち着くことの大切さを感じたそうです。発災翌々日には歩いて自宅に帰ったものの家は津波で流されており、約3年半実家で過ごされたとのことでした。
また。「避難所で赤ちゃんが泣いてもうるさがられるということはなかった。逆に『おしめが濡れているんじゃない?』などと優しく声をかけてもらえた。」「避難生活で便利だったのは、石油ストーブやプロパンガス。環境面では問題があるかもしれないが、電気も水道も止まった中で、本当に助かった。逆に電気でしか動かないものは使用できず、便利なものは不便にもなると感じた。」といったお話をしてくださいました。
プログラム②【災害時シミュレーション】
引き続き、2番目のプログラム「災害時シミュレーション」です。
このプログラムでは、「こんな状況の時はどう行動するか」といった課題が提示され、グループで意見交換をします。出された意見を小さな色紙に書いて情報共有も図りました。
最初は「学校にいる時に災害が起きたが、どんな状況が想定されるか?そしてどう行動するか?」といった課題について、各学校ごとで話し合いました。
その後、学校混合の3グループにメンバーを入れ替えて「トピックカード」という、より具体的な課題が書かれたカードを使って、話し合いが行われました。
一か月間、中学校が避難所となる前提で、まずは「トイレがなくて一日で糞尿が溜りはじめたが、どうするか?」という3グループ共通の問題です。続いて「物資の分配が不公平という不満が出た」「セクハラに悩まされている女性がいる」「集団生活でストレスを感じている人が騒音に苦情を言ってきた」という3つ別々の問題についてグループごとに話し合い、意見を発表し合いました。
写真の奥の色紙は、前の話し合いで出された意見が一枚一枚書かれています。プログラムの講師から「こんなに活発な意見交換ができるなんて素晴らしい!」とお褒めの言葉をいただきました。
中学生同士で避難所生活の課題について意見交換をした後、「一般社団法人南三陸研修センター」代表の阿部さんから、実際の避難所生活のお話を伺いました。
スライドを見ながら、いろいろな苦労話をお聞きしました。一方で、「震災で卒業式ができなかった子ども達のために、避難者が一日がかりで避難所を掃除して卒業式をやってくれた時は感動した。そんな時、避難者は『災害ユートピア』とも呼ばれる強い連帯感で結ばれて充実していた。」というエピソードも教えていただきました。
写真は救援物資の山です。発災後、1~2週間経つと、全国から一斉に救援物資が届き始め、整理が追いつかなくなったそうです。民間の宅配事業者に整理を委託したところ、あっという間にきれいになり、大変助かったとのことでした。
振り返りミーティング
夕食を挟み、中学生の司会進行による「振り返りミーティング」を実施しました。
3中学校生徒混合の3グループに分かれ、最初に、一日目のプログラム概要を各プログラムの責任者となっていた生徒が発表しました。次に、「それぞれのプログラムで何を感じ、何を学んだか」「中学校や地域で報告する時に、効果的に伝えるにはどうすればよいか」といったことをグループごとで話し合い、発表し合いました。
その他、今日一日の感想や、3人の方にご協力いただいたインタビューの中で一番印象に残ったお話は何だったか、などを発表しました。
今回添乗員を務めていただいた宮城さんはご自身も岩手県で被災現場を目の当たりにした経験をお持ちですが「みなさん『冷静になることが大事』というご意見が多かったですが、実際には家族の安否がわからなかったり、家族が亡くなってしまったり、自分自身が怪我をしたりと、なかなか平常心を保つのが難しい状況もあり得ますから、そういったことも想定しておいてください。」というコメントをいただきました。「想定外を想定する」ことの難しさを考えさせられる一言でした。
行程2日目 南三陸町~石巻市~大阪
プログラム③【石巻市震災遺構大川小学校見学】
2日目の最初のプログラムは「石巻市震災遺構大川小学校」の見学です。
大川小学校は、児童74名、教員10名が亡くなられた、東日本大震災で最も大きな人的被害を被った学校です。児童74名のうち4名は行方不明のままで、今も親が探し続けているとお聞きしました。
当小学校は令和3年7月から震災遺構として一般公開されています。
敷地に入って間もなく、献花台が設置されています。プログラムに入る前に、亡くなられた方々のご冥福を願って献花の後、黙祷を捧げました。
施設を案内していただいた「大川伝承の会」の佐藤さんは、発災当時大川小学校に在学していた6年生の娘さんを亡くされています。ご自身は石巻市に隣接する女川町の中学校の教員でした。
佐藤さんが手に持っているのは拡大されたカラー写真で、震災前や、震災当時の様子を交えてお話をしてくださいました。
「あの日(東日本大震災発災当日)のことも伝えたいし、あの日以降のことも伝えたい。でも、あの日以前のことも私は伝えたい。大川小学校を見学に来た人から『どうしてこんな寂しいところに小学校があるのか』とよく聞かれます。でも、昔からこんな状況ではありませんでした。震災前は小学校のまわりには住宅が並び、病院があり、郵便局もあり、普通のまちなみが広がっていました。みなさんが立っているこの場所で子どもたちが走り回り、運動会もやれば、春には花見をしながら給食を食べたりと、のどかで楽しい場所だったのです。震災遺構として悲しい話ばかりに注目が集まりますが、ここは卒業生にとっては今も楽しかった思い出の残る母校です。建物一つ一つに子ども時代の楽しい思い出が刻まれているのです。」と震災前の、賑わう学校の様子を話してくださいました。
敷地の奥に進んでいきます。正面に見えているのは、児童が学んでいた校舎です。校舎の壁がないのは地震や津波で壊れたのではなく、がれき等を撤去するために震災後に壊した結果です。地域の方や訪れたボランティアの方が清掃してくださるおかげで、いつも校舎はきれいな状態を保っているそうです。
写真の左側に斜めになって見える橋脚は、元はガラス張りの渡り廊下でした。津波の引き波の強い力で海側に倒されています。
震災当日、児童も教員も一旦校庭に集合しました。そしてそこで50分近く待機を続けました。昔から津波の恐ろしさを知っている地域だったので、走って逃げようとしたものの、先生から「戻れ」と言われて校庭に戻った子もいたそうです。
校庭を見回して、山側に目を向けます。少しわかりづらいかもしれませんが、右側の中央あたりに小さな白い「点」が見えます。
前の写真を少し拡大すると、白い「点」は立て札と、線であることがわかります。これはこの場所の「津波が到達した高さ」を示しています。
先ほどの写真と見比べると、山を囲むコンクリート壁の高さから津波がどれぐらいの高さだったか大まかにイメージが出来るかと思います。もちろん大人の身長よりは高いですが、はるかに高いところ、という感じではありません。
また、写真左下にメッセージが書かれたプレートが立てられています。
プレートは学校の敷地内にいくつも立てられています。この写真のプレートは敷地の入口近くに立っているものです。文面は地域の方が話し合って決めたそうです。
文面について佐藤さんは「いっぱい思いは詰まっているけど、最終的にはふわっとした表現だったり、シンプルな言葉になった。でも、その行間を読み取ってほしい。」とおっしゃっていました。
佐藤さんは泥にまみれた色とりどりのランドセルの写真を見せながら震災当時のことを話してくださいました。「この写真では、ランドセルはきれいに並べられていますが、私が発災後に初めて大川小学校に来た時はまだ山積みになっていました。そして山積みのランドセルの前には、泥にまみれた子ども達の遺体がブルーシートに覆われて並んでいました。身元確認の手続きが終わるまで遺体を引き取れなかったのです。田舎なので、みんなが顔見知りで、知っている子ばかりでした。忘れてはいけない光景だと思いました。私の娘もその中にいました。私の娘は津波の漂流物が頭にあたり即死だったようで、被っていたヘルメットが割れていました。津波の水を飲まなかったので、体がやわらかく、まるで生きているように見えました。娘の名前を呼び掛けると涙が流れました。『なして、お前はこげなところにいるんだ。』と我が子の遺体に話しかけている人もいました。津波にのまれた時に意識があった子は、最後まで生き残ろうともがいて、大量の水を飲み、腕をのばしたままの姿勢で硬直していました。どんなに怖かっただろう、苦しかっただろうと思います。」
学校の敷地を出て、裏山への避難経路を歩きます。山の中にも津波の到達点を示す立て札と線が設置されていました。校庭からわずか数分で到着する距離でした。実際、震災前に子ども達は日常的にこの山に登って遊んでいたそうです。
佐藤さんの話は続きます。「近隣に住んでいる保護者が我が子を迎えに学校に来て『津波がくると放送されています。早く逃げてください。』と先生に伝えていった。また、発災当時、バスがあり、移動手段もあった。すぐ近くに山もあった。時間も十分あった。だから保護者はみんな当然子ども達は助かっているものだと思っていた。でも助からなかった。しかし、これだけは言っておきたい。先生は絶対に子ども達を助けたいと思っていたはずです。多分必死だったろうと思います。では、先生も頑張ったんだから仕方ないかといえば、仕方なくはないと思います。簡単に助けられる命だったと思います。学校にも言い分はあると思いますが、遺族にも想いがあります。この10年間、嫌な話もたくさんありました。でも私はその中間地点に立って考えたい。」
裏山から学校を振り返った光景です。すぐ目の前に学校が見えます。また、この山は震災前に山崩れをおこさないように工事されており、それは学校も知っていたそうです。
佐藤さんは「山が命を助けてくれるわけではない。災害で命を守るには人間が『山に登る』という判断をして、それを実際に行動に移さないといけない。防災に必要なのは判断力と行動力です。どんなにきちんとした防災マニュアルを作っても、それだけでは防災とは言えません。」「大川小学校では津波が到達する1分前まで避難するかしないか迷い続けた。助かった学校は、迷ってなんかいなかった。すぐに逃げた学校は助かった。大川小学校は、やっと避難することを決めたのに、山に逃げずに津波が来る川へ向かった。6年生から避難を始めたが、狭い道を選んで、行き止まりで立ち往生した。先回りした先生の視界に川が入り、津波を目にした時、顔面蒼白だったと思う。私の娘はその時どうしてたんだろうと考えます。50分も待機して寒かったんじゃないか、避難した時怖くて泣いていたんじゃないかと思います。津波にのまれる時、先生はきっと、その場で子ども達を守ろうと抱きしめたんじゃないかと思います。」「でも恐怖を煽るのが防災ではありません。想像力を働かせて、最後のハッピーエンドまで想定しきるのが防災です。」と話を締めくくられました。
大川小学校の校歌には「未来を拓く」というテーマがあったそうです。写真は卒業制作の壁面画で、「未来を拓く」という文字が見ます。佐藤さんは「大川小学校のことを聞いた人は『かわいそう』『悲劇的』と言います。でも私は大川小学校は『未来を拓く』場所だと伝えていきたい。みなさんにも伝えていって欲しい。もしも友達から『どうして大川小学校が未来を拓く場所なのか?』と聞かれたら、『大川小学校を案内してくれた佐藤さんからそう伝えるように頼まれたから』と言ってくれたらいいから。」とおっしゃっていました。大川小学校で起こったことを聞いた私たちがその教訓を学び、未来に起こる災害で一人でも多く犠牲者を減らすことができたなら、それは「未来を拓く」ことにつながるのかもしれません。
プログラム④【決断のワークショップ「クロスロード」】
いよいよ最後のプログラム「決断のワークショップ『クロスロード』」です。
講師をしていただいた「一般社団法人雄勝花物語」共同代表の徳水さんは震災時、小学校の教員をされていました。
東日本大震災で亡くなった宮城県内の小学生~高校生は353名にものぼり、大川小学校の児童74名を除く279名は地域で亡くなっていることから、「大人がいなくても子どもが自分で命を守れる訓練が必要」とお話されました。
スライドを見ながら大川小学校の被害が大きくなった要因などを客観的に説明していただきました。
また、東日本大震災後の平成25年3月に気象庁がホームページで発表した「『予想される津波の高さ』の予想精度は1/2~2倍程度」という点に触れ、震災当時に出された「宮城県大津波警報10ⅿ」をこれに当てはめると、津波の高さは5ⅿ~20ⅿということを意味していたというお話は衝撃的でした。徳水さんは「地形で変化する津波」について新しく学ぶことの重要性を話されます。山に囲まれた地域では川や道路に水勢が集中し、津波はより速く、より高く変化しますが、これはビルが林立する都会にも当てはまるので、ハザードマップをうのみにするのは危険だということです。
続いて、「地域特性を踏まえた危険」についてお話を聞きました。福島区であれば、発災後、約3時間で大阪港の石油タンクが押し流され重油が流出し、それにより津波火災が発生する恐れがあると想定されていることなどを教えていただきました。
最後に、震災時の状況を想定し、行動を選択、議論する「クロスロードゲーム」をしました。「自分が海辺の中学校の2年生で、3階建ての校舎に先生と友達120人でいる前提で、10メートルの大津波警報が出た時に、母親が『もっと高いところへ避難したい』と迎えに来た時にどう行動するか」という課題について、「母親と一緒に逃げる」「逃げない」という2つの立場に分かれて、その理由も考えて意見交換しました。
この後、バスで仙台国際空港に移動し、大阪に向かいました。
帰阪式
無事に大阪に帰ってきました。
福島区役所一階のロビーで参加生徒代表が帰阪の報告をし、小路副区長から労いのあいさつを受けました。
最後に参加中学生と小路副区長、引率者(教員・区役所職員)全員揃って記念撮影をしました。
皆さま、お疲れ様でした!
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