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令和4年度中学生被災地訪問事業を実施しました

2022年9月1日

ページ番号:575182

区内中学生が被災地を訪問しました

 中学生9人が8月3日~5日の3日間で岩手県を訪問してきました。

 新型コロナウイルス感染症の感染拡大が懸念される状況でしたが、感染防止策をしっかり行ったうえで実施しました。
 東日本大震災当時の被害状況や復興の状況を見たり、被災者から被災体験や教訓を聞いたりし、貴重な経験になりました。
 今後、新型コロナウイルス感染症の感染状況を注視しながら、可能であれば区内各地域で行われる防災行事等の場を借りて、地域の皆様に中学生から報告を行う予定です。

行程1日目 大阪~陸前高田市

出発式

福島区役所一階ロビーでの出発式

 1日目の午前9時10分に、福島区役所1階ロビーで出発式を行いました。
 深津区長からのあいさつに引き続き、参加生徒代表が出発のあいさつを行いました。「勉強したことを福島区で役立てたい」という強い意気込みが伝わってきました。
 お見送りに来られた保護者の皆さま、先生方お疲れ様でした。

プログラム①【3.11の追体験】

視察【米沢ビル】
最初のプログラム「米沢ビル」の視察

 岩手県に到着し、わんこそばの昼食を経て最初のプログラム「米沢ビル」の視察開始です。
 「米沢ビル」は、民間所有の震災遺構で、当施設には令和元年度の被災地訪問事業でも伺いました。写真は「米沢ビル」の近くの建物から撮影したものですが、令和元年度の訪問時とは違い、ビルが地面にめり込んでいるように見えます(参考:令和元年度の被災地訪問事業ホームページURL「https://www.city.osaka.lg.jp/fukushima/page/0000527894.html」)。これは、津波に強いまちづくりを実現するため、土を盛って地面を高くする、いわゆる「かさ上げ」をした結果、震災遺構として元々の地面の高さに残した「米沢ビル」が逆に地盤沈下したように見えるためです。ビル周辺の「かさ上げ」は約2~2.5mとのことでした。前回の訪問からの3年間で復興事業が進んだことがわかります。

「米沢ビル」一階入り口の様子

 ビルの所有者である米沢さんの案内でビルの内部を見学しながら、震災当日の様子をお聞きしました。「米沢ビル」は3階建てで、東日本大震災の前まで、1階は店舗として使っていました。
 震災直前、米沢さんは「米沢ビル」から100mほどの距離にある倉庫で、奥の棚にある商品を倉庫の入り口まで運ぶ作業を繰り返していたそうです。発災時、ちょうど倉庫の入り口付近にいたことを米沢さんは「ラッキーだった」と話されました。「もしも倉庫の奥にいた時に地震が来ていたら、直後に倒れた棚や商品の落下でその後避難できなかったかもしれない」からです。米沢さんは道路でしゃがんで約2分半ほどの間揺れがおさまるのを待ち、弟さんや従業員を心配してひとまず「米沢ビル」へ向かいます。途中で地域の人と声を掛け合いますが、この時には誰も津波の心配を口にはしなかったそうです。
 ビルに到着した米沢さんは、お客さんも含めて無事であったことから、弟さんや従業員と一緒に片づけを始めました。その時、自宅にいた両親も作業着に着替えて手助けに来てくれたそうです。そして、「あなたたちの家も大変だろうから、早く帰りなさい」と従業員を帰らせました。従業員は高地に住んでいたため結果的に助かりましたが、米沢さんは「あの時両親が帰宅を促してくれなければ、従業員も命を落としていたかもしれない」と両親に感謝しているそうです。ただ、昭和35年のチリ地震の津波を経験し、地域の方も亡くなっていたにもかかわらず、両親もこの時は特に津波を心配はしていなかったとのことでした。

「米沢ビル」屋上の様子

 米沢さんは、両親と弟さんは片付けがひと段落したら避難所に指定されている近所の市民会館に避難すると聞いて、再び倉庫に戻ります。それが3人を見た最後になりました。今もその場面を夢に見るそうです。
 米沢さんが倉庫で片づけをしている時に、初めて防災無線に意識が向きました。「気仙川の防波堤を津波が越えたので避難」というのは聞こえたが、放送が途切れたため、急に不安になって避難をする気になったそうです。特にはっきりした理由はなかったものの、もう一度「米沢ビル」に行くと、誰もいなかったため、3人の家族は避難したのだと考えました。「米沢ビル」は海から遠かったため、2階、3階の様子を見るために階段を上がったそうです。2階の窓から黒い津波が見えたものの、2階までは上がって来ないだろうと思い、焦らず3階の様子を見るつもりで階段を上がって窓の外を見ると、もうすでに津波が2階に来ていたそうです。早足で3階に上がりました。「とにかく外に出ないと」と考えたものの、屋上へ出る扉がなかなか開かず、数十秒格闘してこじ開けると、扉の隙間から強い風と砂が舞い込み、パニック状態で扉の隙間から半身になって外に出ました。すでにビルは津波に囲まれており、とっさにビルの塔屋部分に上った時には、すぐ足元まで津波が来ていました。津波の水しぶきがかかる状況で、「もう助からないかもしれない。自分が最後に見た状況を残しておこう。」と思って、持っていたデジタルカメラで動画を撮影しました。その動画を見せていただきましたが、まさに絶体絶命という状況が伝わってきました。

「米沢ビル」の塔屋に上った様子

 その後、徐々に津波が引き始め、安心したものの、同じ3階建ての市民会館の青い屋根が津波に隠れて見えなかったため、「もう両親も弟も死んでいる」と覚悟したそうです。なお、陸前高田市では14人に1人が亡くなられたのに対し、「米沢ビル」周辺では避難所に指定されていた市民会館に逃げた方が多かったため、4人に1人が亡くなられたとのことでした。
 米沢さんは少しずつ寒さなどを自覚し始めます。震災翌日の夕方にはレスキュー隊に救助されますが、それまでの間に店舗の商品であるビニール袋を体にまとって寒さをしのいだり、レスキュー隊のヘリコプターに見つけてもらうためにビル屋上に積もった泥をかき分けることで「SOS外に出られない」と大きなメッセージを書いたりと、できることを必死にやったそうです。
 写真は屋上の塔屋部分に上った様子ですが、大人1人がやっと座れる程度の狭さで、実際登ってみると足元がおぼつかなく、かなり怖いと感じました。
 米沢さんは自身の被災体験を振り返り、「『避難所』が本当に安全かどうか確かめてほしい。そして自分で納得のいく『避難所』を見つけてほしい。」「防災の『意識』を持つことが大切。10秒、20秒といった一瞬の判断の遅れが命取りになる。万一に備えて、『今、災害が起きたらどう行動しよう』と考える習慣を身に着けてほしい。」「避難場所について家族で話し合って。」というアドバイスを下さいました。そして、避難生活では文句を言う人もいたがいろいろ対応をしてもらえたので日本に生まれてよかったと感じたこと、陸前高田市はまだ復興半ばであること、産業振興のためピーカンナッツを植えており、5~10年後には林になっているだろうから、ぜひまた陸前高田市に来て復興した姿をみてほしい、といったことを話してくださいました。

「高田松原津波復興祈念公園」の散策

 鬼気迫る被災体験をお聞きした後、少しバスで移動し、令和3年12月に全面供用されたばかりの「高田松原津波復興祈念公園」を散策しました。真夏にも関わらずひんやりとして気持ちのよい天気、見晴らしのいい景色で心が洗われました。

震災伝承施設「奇跡の一本松」見学の様子

 公園の敷地に設置されている震災伝承施設の一つ、「奇跡の一本松」の写真です。奥の建物は同じく震災伝承施設の「陸前高田ユースホステル」です。
 「奇跡の一本松」は、震災直後、海辺の松林で唯一耐え残った松として、地域の復興への希望の象徴となりました(「奇跡の一本松」が残れたのは、海側に建っている「陸前高田ユースホステル」のおかげで津波の直撃を免れたためともいわれています)。しかしその後枯死してしまったため、人工的に手を加え、モニュメントとして残されることになりました。
 ただ、モニュメントとして残すため、約1億5,000万円の費用をかけたことについては地元でも賛否両論があったそうです。

「高田松原津波復興祈念公園」の防潮堤からみた松林

 一方で、公園海側に立つ高い防潮堤から海を見ると、足元に若い松林が見えます。市民の強い要望で、津波でなくなってしまった松林を再び取り戻そうと種から育てた松です。今後30~50年かけて元の高さになるように育んでいく予定だそうです。

振り返りミーティング

振り返りミーティングの様子(1日目)

 夕食を挟み、中学生の司会進行による「振り返りミーティング」を実施しました。
 3中学校生徒混合の3グループに分かれ、最初に1日目のプログラム概要をプログラムの責任者となっていた生徒が発表しました。次に、「それぞれのプログラムで何を感じ、何を学んだか」「中学校や地域で報告する時に、効果的に伝えるにはどうすればよいか」といったことをグループごとで話し合い、発表し合いました。少し時間に余裕があったので、今日一日の感想を3人の生徒が発表し、「振り返りミーティング」を終了しました。
 その後、添乗員の宮城さんからプログラムの補足説明として「陸前高田市は津波が来ても高さは50cm程度だと言われていたが、実際は15mだった。何事も想定通りになるわけではない。想定外のことが起こる前提で、色々な災害のパターンを考えておくことが備えになる。また、日頃から防災意識を持つことについて、自分も祖父から『靴はそろえること』『あいさつをすること』『寝る時は枕元に着替えを置くこと』という3つのことを教えられた。いざという時にすぐに行動できること、また地域で助け合えるように人間関係を築くことが大切。」というお話をしていただきました。

行程2日目 陸前高田市~釜石市

陸前高田市の高地からの風景

 2日目は、まず陸前高田市が一望できる高地に移動し、添乗員の宮城さんからまちづくりの概要をお聞きしました。
 陸前高田市は「巨大な防潮堤を整備し、土地を『かさ上げ』してまちの中に意図的に凹凸を作ることで将来津波が来た時に、津波が市街地に到達するまで少しでも避難するための時間を稼ぐ」「家屋を高台に移転する」という考え方でまちづくりをしているそうです。
 ただ、震災でまちの人口の約1割の方が亡くなったため、土地所有者との交渉等が難航し、なかなか復興の工事が進まなかったそうです。
 また、震災前はあまり高層の建物はなかったが、家をなくした高齢者のために「復興公営住宅」というマンションが建てられたとのことでした。

高田松原津波復興祈念公園での黙祷と献花の様子(その1)

 2日目のプログラムを始める前に「高田松原津波復興祈念公園」において、東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福を祈って全員で黙とうの後、代表生徒3人から献花をしました。

高田松原復興祈念公園での黙祷と献花の様子(その2)

 献花の様子です。

プログラム②【津波災害の現実を知る】

視察【東日本大震災津波伝承館】
東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)の様子(その1)

 2日目最初のプログラムは「東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)」の視察です。
 当館は、「命を守り、海と大地と共に生きる~二度と東日本大震災津波の悲しみをくり返さないために~」というテーマのもと、被災した橋桁や消防車等の展示品の見学や、東日本大震災の概要を学ぶ映像の視聴などもできる施設です。

東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)の様子(その2)
別ウィンドウで開く

 展示資料の中に、2011年7月に内閣府、消防庁、気象庁が共同で被災者(岩手県391人、宮城県385人、福島県94人の計870人)に面接調査した結果がありました。調査結果として、「揺れがおさまってすぐに逃げた」人は57%、「用事を済ませた後に逃げた」人は31%、「津波が近づき切迫してから逃げた」人は11%、「高い土地などにいたので逃げる必要がなかった」人が1%だったそうです。すぐに逃げようとしない原因として、根拠なく「自分だけは大丈夫」と思ってしまう「正常化の偏見」という心の動きがあり、これを取り去る方法はないと書かれていました。ただ、そういった心の動きがあることを意識することで、「少しでも早く命を守る行動をとることが重要」と締めくくられていました。
 また、視察中に館内放送で「福島県方面を震源として大きな地震があった」ことが伝えられました。岩手県は震度3でしたが、館内ではあまり揺れを感じませんでした。駐車場にいたバスの運転手さんは「かなり揺れた」とおっしゃっていました。

プログラム③【漁村集落の復興の軌跡から学ぶ】

演習【ワークショップ「クロスロード」】
長洞元気村でのワークショップの様子

 バスで陸前高田市内を移動し、「長洞(ながほら)元気村」で「クロスロード」というゲーム形式の演習をしました。
 最初に講師の村上さんから津波の時の避難についてのお話がありました。村上さん自身も「津波てんでんこ(津波の時は一人一人がとにかくすぐに避難する)」と言われて育ったそうです。また、群馬大学の片田教授が提唱する「津波避難三原則」について説明していただきました。それは「最善を尽くせ(高い所に逃げろ)」「想定に囚われるな(被害者の多くは海辺以外の『安全』と言われていた土地に住んでいた方)」「率先避難者になれ(すぐに行動できる人は少ない)」の3つです。特に地域防災力の向上には率先者がいることが重要で、東日本大震災でも子どもが高齢者を説得して避難することで命が助かった例もあったそうです。
 次に「長洞元気村」について説明がありありました。「長洞元気村」は、岩手県陸前高田市広田町の長洞地区にあり、60世帯、約200人が住む小さな漁村集落です。震災当時はあっという間に津波に囲まれ、道路も壊れてしまったため「陸の孤島」状態で避難生活をすることになったそうです。まちの成人男性はほとんどが消防団員で、発災後、3日間で行方不明者の捜索活動を行い、その後は捜索活動は終了しました。3日間のうちに家族が見つからず、捜索活動に感謝しながらも泣き崩れる方もいたとのことです。
 そのほか、食料の確保にも注力しました。60世帯中、32世帯の住宅が残ったため、米を自治会に提供してもらい、山の井戸水やプロパンガスで調理もできることから、ひとまず1か月分の食料は確保できたそうです。発災翌日からは毎日、集落で全員集会を行い、食糧が確保できたことを伝えるとみんな安心したとのことでした。

「クロスロード」の様子

 次に「クロスロード」の説明をしていただきました。生徒9人に引率していただいた先生3人も含めて、12人で3グループに分かれ、出された質問に「YES」「NO」のどちらかのカードをテーブルに伏せて、みんなで一斉にカードを表に向けます。質問には正解も間違いもありませんが、どうして「YES」(もしくは「NO」)を選んだのか、という理由をグループ内で話し合うことで考えを深め、また、考えたことを分かりやすく伝えることを学ぶための演習です。

「クロスロード」のご褒美のシール

 また、4人グループで、一人だけが「YES」(もしくは「NO」)を選んだ場合は、「少数意見を選んだ」ご褒美として写真のようなシールをもらえます(色々なデザインがあります)。

「クロスロード」の質問のうちの一つ

 演習ではいくつかの質問がありましたが、長洞元気村で実際に起こった問題が写真の内容です。みんなで集めた米について、集落で1世帯だけ自治会に入っていなかったため、「そんな人に折角自治会で集めた米を配らなくてもいいのではないか?」という意見が出ました。さて、配るか、配らないか?
 今回の参加者でも「YES」「NO」どちらもあり、いろいろな意見が出ました。村上さんのお話では、この質問では「配る」と答える方が多いそうです。ただ、以前同じ演習をしたアメリカから来た学生は、12人中10人が「配らない」と答えたそうです。主な理由は「自治会は地域で助け合う制度である。その制度を否定する人にまで米を配ると団体の存在意義がなくなる」というものでした。一方で、別のアメリカ人の大学教授にその話をしたところ、「その考え方は悲しい」とおっしゃったそうです。同じ国でも考え方は人それぞれということでしょう。
 では、長洞元気村ではどうしたのか?村上さんは「『村八分』という言葉がある。たとえ集団で絶交する場合でも、『火事』と『葬式』だけは仲間扱いをする。津波は『火事』と同じような災害だから配ってはどうか?」と提案したそうです。そして自治会長は最終的に「配る」と判断しました。批判を恐れず決断をしたリーダーは立派だと感じたそうです。また、「自治会に入っていない人には米を配らなくてもよいのではないか」という意見が出る一方で、元々地域に住んでいない、自治会に関係のない避難者には誰も疑問を持たずに米を配っていたことも印象に残っているとのことでした。

長洞元気村の活動内容について

 「クロスロード」の演習後に、「長洞元気村」の復興活動についてお話を聞きました。電気もなく閉じ込められた状況で、子ども達の学習する機会を確保しようと元校長先生の家の縁側と座敷を使って「長洞元気学校」という学校を開いたそうです。教員免許を持つ人や保護者が協力して、35人の子どものほか、10人の高齢者も参加したそうです。高齢者は家を失い、「自分が生き残って申し訳ない」と絶望していたが、毎日子ども達を見ることで「未来がある」と思えるようになり、子ども達に生きる力を与えられたと感じたとのことでした。
 その後、仮設住宅の設置や、仮設住宅でのコミュニティ育成、「笑顔の集まる土曜市」等コミュニティ・ビジネスにも取り組むなど「高齢者と子どもの笑顔のあるまち長洞」を目標に、前向きに地域づくりを進めているそうです。
 最後に「『クロスロード』は『多数が正義ではない』ということを学ぶ機会でもある。少数意見が尊重されるべきこともあることを覚えておいてほしい」とお話を締めくくられました。

演習【炊き出し体験&バーベキュー】
お釜でご飯を炊いている様子

 続く演習は昼食を兼ねての「炊き出し体験&バーベキュー」です。お釜でご飯を炊き、各自でおにぎりを握りました。烏賊、蛸、牡蠣やつぶ貝のバーベキュー、刻み野菜を散らしたそうめんに「がんづき(蒸しパン)」のデザートまでお腹いっぱいいただきました。

塩蔵わかめの茎と葉を切り分けている様子

 お土産に「塩蔵わかめ」を一袋ずついただいたのですが、わかめの茎と葉を切り分ける作業は、地域の方に教えていただきながら全員が挑戦しました。わかめの茎と葉の見分けが難しかったです。

プログラム④【復興まちづくりのいまをとらえる】

演習【震災伝承 防災サイクリング】
防災サイクリングの準備時点の様子

 午後は演習「防災サイクリング」です。
 サイクリングをしながらまちの様子を見学し、途中で復興に向けた活動をしている地域の方のお話などを聞く演習ですが、生徒の皆さんのサイクリング技術は様々なので、まずは講師の大森さんからサイクリングの注意事項を聞き、少し練習をした後に出発しました。

防災サイクリング出発の様子

 サイクリングの練習を終えていざ出発です。先生や区役所職員の分まで自転車の台数がないため、大人はバスで移動します。

防災サイクリング最初のインタビューの様子

 サイクリングの最初のインタビューです。
 インタビュイーは「桜ライン311」という活動で事務局長をされている佐々木さんです。
 この活動は津波到達点に枝垂桜、江戸彼岸桜、大山桜など、比較的樹齢の長い桜を植えて、桜を楽しみながら、津波の悲惨さも忘れずに語り継ぎ、将来の被害を少しでも減らすことが目的です。陸前高田市の沿岸の長さである170kmの距離に対し、10m間隔で桜を植えるため、17,000本の桜が必要になります。運営費用は企業などの寄附金でまかなっており、桜を植える時は土地の所有者の了解を得ることが必要なため、大変な労力を要します。現時点で1,974本の桜を植えており、先は長いですが、たくさんの方に植樹に参加しもらうことで、津波の高さを実感してほしいとおっしゃっていました。

仮設住宅の見学の様子

 サイクリング2番目のインタビューは「陸前高田グローバルキャンパス」という交流活動拠点として活用されている「米崎中学校」の跡地で実施しました。話し手は当施設スタッフの千田さんと、プログラムの講師である大森さんです。
 こちらの運動場には実際に被災者が生活する仮設住宅が設置されていましたが、撤去後も展示及び宿泊用に一部が残されているため、その内部を見学しつつ、当時の避難所生活についてお聞きしました。
 展示用の仮設住宅は、実際に生活していた当時よりも立派なつくりとのことでしたが、元々陸前高田市の家屋は大きいため、仮設住宅の狭い空間は避難者にとって大きなストレスだったそうです。また、「長洞元気村」では仮設住宅を設置した際の部屋割りを、元の住戸の並びに合わせて行ったため地域コミュニティがスムーズに復活したのに対し、多くの仮設住宅ではそういった配慮が及ばなかったため、住人の孤立も課題でした。
 その他、防潮堤の築造や東京オリンピックといった大型の公共工事を優先して人手や建材が使用されたため、被災地の個人家屋はもちろん、学校の建設等もなかなか進まなかったというお話もしていただきました。

陸前高田市のまちづくりについてのインタビューの様子

 防災サイクリング最後のインタビュイーは、元陸前高田市役所の職員で、まちの復興事業にも携わった熊谷さんです。
 震災当日は市民も誘導して市役所の屋上に避難したそうですが、避難者で一人、いびきをかいて眠る人がいたのには驚いたといったエピソードもお聞きしました。
 現在のまちづくりの課題を質問したところ、「土地の活用」とのことでした。せっかく「かさ上げ」をして市の防災機能を向上したものの、工事に時間がかかったこともあり、元の土地所有者が高台に移転して戻る方が減ってしまうなど、にぎわいづくりが困難になっているそうです。
 また、大阪で防災意識を向上してもらうために何に注力して事業報告するのがよいかお聞きしたところ、「『自分事』として考えてもらえる工夫」とのことでした。地震、津波だけでなく、日本中で被害を出している豪雨などでもよいので、「自分で自分の命を守る」ことを考えてもらうことが大事とおっしゃっていました。

防災サイクリングのまとめのお話を聞いている様子

 無事サイクリングを終えて、駐輪場で大森さんから締めくくりのお話をお聞きしました。
 大森さんご自身は元々東京で編集者として働いていたものの、震災後、陸前高田市で「防災」「安全」を伝えることに意義を感じ、現在のお仕事をされているとのことでした。
 「東日本大震災の被害を1,000年先も伝えられるように成功も失敗も伝えたい。使いやすいまちづくりも伝承のひとつのかたちだと思う。自分自身に伝えるためにも今回の訪問を見返してほしい」とおっしゃっていました。

振り返りミーティング

振り返りミーティングの様子(2日目)

 釜石市へ移動後夕食を挟み、中学生の司会進行による2日目の「振り返りミーティング」を実施しました。
 ミーティングの流れは1日目と同じですが、2日目はプログラムが盛り沢山であり、また、参加生徒同士も仲よくなっていたため、より活発な意見交換ができました。
 その後、添乗員の宮城さんからプログラムの補足説明として「今日は『東日本大震災津波伝承館』を見学してもらったが、死亡者、家屋の被害等数字でとらえてほしくない。18,000人が亡くなった震災が1件あった、という考え方ではなく、一人一人が亡くなったということが18,000件あったと考えてほしい。また、『クロスロード』は判断に迷ったと思うが、実際の状況でも各人の判断が揃うということはない。家族などでも、日頃から決め事をしたうえで、決め事通りにいかなかった時に家族がどう行動するか、考え方を共有した方がよい。そして、率先避難できるリーダーシップを身につけられる人になってほしい。そのために周囲を見回し、いつもと違う状況にいち早く気付ける感性を持ち、自分が進んで何かをできるように心がけてほしい。」というお話をしていただきました。

行程3日目 釜石市~大阪

プログラム⑤【自分にできることを考える】

演習【鵜住居地区で避難体験・防災ワークショップ】
「釜石鵜住居復興スタジアム」で震災当日のお話等を聞いている様子

 いよいよ最終日、3日目のプログラムのテーマは「自分にできることを考える」です。
 1日目、2日目は雲が多く、涼しく快適に過ごせましたが、この日は真夏らしい、強い日差しが照りつけました。
 写真の「釜石鵜住居復興スタジアム」は、講師の菊池さんが震災時に通学していた「釜石市立釜石東中学校」の跡地に建設され、ラグビーワールドカップ2019の会場の一つとしても使用されました。「かさ上げ」された土地に建設されたため、写真で座っている位置は、震災前で言うと校舎の3階にあたるそうです。
 菊池さんは震災当日の放課後、卒業式で歌う歌の練習を終えて帰り支度をしていたそうです。家が遠いため、先に電話すると祖父が取り、母親に代わるまでの間にテレビの地震速報が聞こえたとのことでした。急に「ゴォー」という大きな山鳴りがして、近くの友人の声さえ聞き取れなくなり、立っていられないくらい激しい揺れに襲われ、10ⅿを超える大きな木が振り子のように地面につきそうなほど揺れていたそうです。震度5強で、3分半ほど揺れたとのことでした。
 菊池さんは「明治時代に震度2の地震が5分以上続いた時にも15mの津波が来た」ことを授業で習ったことを覚えていたため、すぐに津波が来ると思い、避難が必要だと考えたものの、揺れが強くてなかなか動けなかったそうです。
 また、いつもの避難訓練のとおりサッカー部員たちが運動場で点呼を始めたところ、先生から「点呼している場合じゃない、走れ」と言われ、すぐに避難したそうです。

避難経路をたどっている様子

 震災前から「学校の裏山への避難道があれば、地震の時にもすぐに避難できるのに」という不満が生徒にも地域にもあったそうですが、「お金がかかる」という理由で聞き入れられなかったため、津波が遡る危険がある川沿いの道を約1.6kmにも渡って避難したそうです。
 写真は当時の避難経路をたどっているところです。
 また、中学校の横には小学校が建っており、菊池さんたちが避難を始めた時には、まだ小学生たちは校舎にいました。避難訓練時は小学生と一緒に避難していたため少し迷ったものの、菊池さんたちは口々に大声で逃げるように言いながら小学校の横を通り過ぎ、ようやく小学生たちも避難を始めました。途中で保育園も避難に合流しました。
 避難所とされていた場所に到着し、初めて点呼をしました。しかし何度も余震が続き、大きな落石なども目にして、副校長先生がもっと高い所へ移動するように指示しました。また併せて、中学生は小学生の手を握るように言われたそうです。菊池さんはそれまでただただ「早く高い所に避難したい」と思っていたのが、小学生の手を握ることで「命を預けられた」と感じ、気持ちが引き締まったそうです。

避難した場所から釜石市を見渡した様子

 写真はその時副校長先生の指示した避難場所です。到着して振り返ると、津波が水の塊となり、箱のかたちをした水が市街に押し寄せる光景が目に入ったそうです。「死にたくない」と強く思い、さらに高い所に避難しましたが、「これで助からなければもう終わりだ。」と動けなくなったとのことでした。小学生がさらに高い所へ走ろうとしましたが、菊池さんたちはがけ崩れの様子も見ていたため、「上に行き過ぎないで」と声をかけ、山の中腹にとどまりました。
 菊池さんたちは幸い助かりましたが、多くの方が亡くなり、まちの風景もすっかり変わってしまっていたそうです。

「釜石祈りのパーク」での様子

 避難体験の後、「釜石祈りのパーク」に移動しました。令和元年の訪問時にはここで献花をしています。
 写真の階段を上がったところには「釜石市防災市民憲章」として、命を守るために「備える」「逃げる」「戻らない」「語り継ぐ」ことが刻まれており、将来の市民が災害の犠牲にならないように、短く分かりやすい言葉で、できるだけ長く記憶してもらえるように必要最小限の事を伝えています。

「鵜住居防災センター」跡地を見学している様子

 この場所は元々「鵜住居防災センター」だったところで、発災直後に避難所ではないことを知らずに、もしくは避難所ではないことを知っていながら「近い」ことを理由に避難してきた方もいたそうです。しかし、避難してきた200人のうち約8割の方が亡くなりました。震災後、この建物を残すかどうか議論になったそうですが、「遺構を残すよりも、防災教育に力を注ごう」という方針のもと、「鵜住居防災センター」は撤去することになりました。ただ、全くなくしてしまうのではなく、遺族の方にだけはわかるように、建物の一部を写真のようなかたちで残しています。

「いのちをつなぐ未来館」の様子

 防災ワークショップを始める前に、同じ敷地内にある「いのちをつなぐ未来館」を各自で見学しました。写真の「『ハザードマップ』は『安心マップ』ではない」という言葉は、実際に災害が起こった時につい油断してしまう気持ちを戒めています。

防災ワークショップの様子(その1)

 「防災ワークショップ」演習を実施しました。先生も含めて各中学校でグループを作り、まずは思いつく「災害」の種類を考え、発表しました。次に、その災害の中から一つを選び、「明朝9時、雨天で、みんなが学校にいる時にその災害が起こったら」という想定で、「発災直後、30分後、1時間後、2時間後、半日後、1日後」に「どんな状況になっているか」を考えてピンク色の紙に書き込み、模造紙に貼り付けました。その後、考えた状況に対して「対応(その場でできること)」「備え(事前に準備できること)」をそれぞれ考えて「対応」を黄色の紙に、「備え」を緑色の紙に書き込んで、同じ模造紙に貼り付けていきました。
 講師の菊池さんから「みんな『自分が怪我をする』という想定をしていませんが、その可能性も含めて考えてください」「雨なので、着替えが必要かもしれません」「地域の方が学校に集まるかもしれません」といった様々な想定の提案がありました。やはり実際の災害を想像するのは難しいと感じました。

防災ワークショップの様子(その2)

 一人でできる備えには、非常食の準備や家具の固定などがあります。「避難所に十分な非常食の確保は無理です」と明確にしておけば、自分で持ってくる人も増えます。こういったことも地域で考えておく必要があるもしれません。

防災ワークショップの様子(その3)

 今回の防災ワークショップは、「映像や資料を見てわかったつもりになっていないか」を知ることもねらいのひとつ、とのことでした。「岩手県と福島区は状況も違うので、自分のまちのこととして考える、そのために自分のまちを知ることも大切」というアドバイスをいただきました。菊池さんが中学2年生の時に同じ作業をやった時は「直後に地震、30分後に津波」ぐらいしか書けなかったそうです。

防災ワークショップの様子(その4)

 「たくさん考えて、失敗して、反省して、話し合ってほしい。家族、先生、地域の人とも。自分のまちで、自分ができることを考えてほしい。」と防災ワークショップを締めくくられました。

昼食後の休憩

3日目昼食後の休憩時間の様子

 令和元年度ではインタビューにもご協力いただいた「宝来館」で昼食をいただきました。
 津波被害を抑えるために高い防潮堤を作る地域が多い中、こちらでは「災害時は避難を徹底する」前提で海が見える景色を残すことにしたそうです。
 風が強く、波が高い浜辺で休憩時間のひと時を過ごしました。
 花巻空港まで移動するバスの中で、東日本大震災のDVDを視聴した後、生徒一人一人が今回の訪問で学んだことを発表し合いました。
 最後に添乗員の宮城さんから「『伝える』ことと『伝わる』ことは別。『伝わるように伝える』ことは難しいけれど、伝える役割をぜひ考えてほしい。また、防災・減災に正解はないので、『本当にこれでよいのか』『伝わっているのか』という『問うこと』を続けてほしい。防災だけでなく、よりよい人生を送るために簡単に答えを出そうとしないでほしい。自分や周りの命を守れるように」といったお話をお聞きしました。まもなく岩手県を後にします。

帰阪式

帰阪式の様子

 無事に大阪に帰ってきました。
 福島区役所1階のロビーで参加生徒代表が帰阪の報告をし、深津区長から労いのあいさつを受けました。

記念撮影

 最後に参加中学生と深津区長、引率者で揃って記念撮影をしました。
 皆さま、お疲れ様でした!

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