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043 下高野街道

2022年2月25日

ページ番号:33858

律令制度の崩壊によって天皇家が奉祭する神道(しんとう)が衰退し、熊野詣がすたれると共に大衆仏教が興隆し、真言宗総本山の高野詣が京都の天皇や公家ばかりでなく武士や庶民にまで広がりました。 そこで、京都方面より大阪を通り高野山に行くには、淀川を舟で下って大坂(堺、天満、平野)に上陸し、その後に下記の3つの陸路での高野道が伝わっています。また京都から陸路のみで高野山に詣でる道として東高野街道があり、都合4つの高野街道があるのですが、その呼び名や認識に混乱があるようで、下記に整理します。
さらにこの街道は、大阪(天王寺、平野)や堺と、松原や狭山との間の村々を結ぶ生活道路としても発達したので、この街道はかなり曲がりくねっており、長距離の街道となったものと推察されます。
下高野街道
  • 高野街道について
    高野街道は狭山と高野山を結ぶ街道ですが、河内長野で東と西の高野街道に分かれ、さらに西高野街道は狭山より北に3つの街道に分かれており、それぞれは堺に向かって西高野街道、天王寺に向かって下高野街道、平野に向かって中高野街道(上高野街道)と呼ばれています。

大阪から高野山に詣でる3街道(登り方向に表示)

  1. 西高野街道
    堺旧市街から東進し、中百舌鳥、初芝、北野田、山本、岩室、今熊(狭山池西南・亀ノ甲付近)、茱萸木(クミノキ)(注1)とほぼ国道310号線に併行しており、北西から南東へと抜ける道です。平安末期から高野山詣での街道として、室町から江戸時代には旧堺港から高野山への貨物輸送で賑わった街道とされています。
    (注1)茱萸木(クミノキ)
    正しくは「グミノキ」ですが、鎌倉時代の太政官記録ではこの地名を久美丘(クミオカ)としていたので、古伝承を尊重して大阪狭山市の昭和45年(1970年)の議会で、「クミノキ」を正式な町名とされました。
  2. 下高野街道
    天王寺(大道)から矢田地区の中央を通り、下高野橋で大和川を渡って南下します。
    堺市北野田を経て、狭山の池尻から、池の西側である池之原を通り、今熊で西高野街道と合流します。
  3. 中高野街道(旧称「上高野街道」)
    平野(杭全神社西の泥堂口)から南進し、瓜破を経て大和川の高野大橋(江戸中期まで橋がなかった)を渡り、阿保の茶屋では、堺東を東に向かう長尾街道と交差し、岡で竹之内街道と交差し、東野(菅生神社付近)を南下し、狭山池尻から、池の東側を南進し、半田をほぼ北から南に縦断して、茱萸木で西高野街道と合流します。

京都から陸路のみで高野山に詣でる街道
東高野街道(京都から生駒山系の麓に沿って北麓から西麓を辿るコースです)
八幡(京都府八幡市)→洞ヶ峠→河内国田口村(大阪府枚方市)→郡津村(交野市)→中野村(四條畷市)→豊浦村(東大阪市)→楽音寺村(八尾市)→安堂村(柏原市)→国府村(藤井寺市)→誉田村(羽曳野市)→富田林村(富田林市)→長野村(河内長野市)、ここで西高野街道に合流します。

 

  • 東住吉区内の下高野街道について
    寺田町駅西側あたりで奈良街道から分岐する場所を基点とし南下、JR環状線、JR関西線、国道25号線(天王寺駅方面)と交差し、JR阪和線沿いに美章園駅にいたりますが、ここから東南へ約100メートルは消滅しています。しかし、榎神社の東で復活し北田辺小学校東側を通過、松虫通をこえて東西に走る庚申街道と交差します。その後、南下をつづけ現田辺一丁目の大念寺と安楽寺の間を抜け、南田辺村(現田辺一~四丁目)に入る。南田辺本通商店街を抜け山坂神社の鳥居を右に見ながら東へ折れ長居公園東筋を前に南へ湾曲しながら南港通りへ至ります。ただしこの間は区画整理により消滅しています。
    旧街道は南港通りの駒川あたりに出て、その後矢田二丁目で道筋が復活し、南進して大和川に至ります。その後、下高野大橋を越え、矢田七丁目に鎮座する阿麻美許曽神社の東を通過して松原市に入り、狭山に至ります。
    明治20年代(1887年~1896年)に当時の田邊村、矢田村の有志が道の普請をしたことが記録に残されています。矢田5丁目の戎温泉前にあった「下高野街道土木竣工」の碑は現在、下高野街道の約400m西にある公園南矢田3丁目の矢田冨田町墓地に設置されています。
    東住吉区内では、北田辺、旧中野村、矢田地区には、現在でも往時の雰囲気が残されており、歴史のロマンに浸ることができる街道です。

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