ページの先頭です
メニューの終端です。

区内の大阪市指定文化財

2021年5月10日

ページ番号:29598

区内の大阪市指定文化財

木造十一面観音菩薩立像(もくぞうじゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう)

木造十一面観音菩薩立像(もくぞうじゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう)の写真

 彫りが浅く穏やかな面相を持ち、檜の一木から彫りだした堂々とした量感のある像で、脚部には平安前期彫刻にみられる時代形式の一つである翻波式衣文(ほんばしきえもん)がみられる。
木造大日如来坐像と同じく、昔、このあたりにあった大寺院三宝寺の旧仏といわれ、制作年代は11世紀前半から中頃にさかのぼる。

指定年度:平成12年度
お問合せ:専念寺
所在地 :東淀川区小松3-5-15
電話番号:06-6320-1331

木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)

木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)の写真

 専念寺の本尊であり、小作りで柔和な面相や奥行きの浅い上半身などに特色がある。比較的早い時期の定朝様(じょうちょうよう)の特徴を示す、たくましい雰囲気をたたえた凛々しいところがみられる。制作年代は11世紀後半と考えられ、大阪市内に残る定朝様の平安彫刻の代表的なもののひとつであり、惠人僧都の作ともいわれている。

指定年度:平成12年度
お問合せ:専念寺
所在地 :東淀川区小松3-5-15
電話番号:06-6320-1331

木造大日如来坐像(もくぞうだいにちにょらいざぞう)

木造大日如来坐像(もくぞうだいにちにょらいざぞう)の写真

 昔、このあたりにあった大寺院三宝寺の本尊であると伝えられる。柔和な表情や穏やかな衣文(えもん)の表現に、平安時代後期の定朝様(じょうちょうよう)の特色を見せるとともに、目鼻立ちに抑揚が見られ、膝前が大きく張り出すなど、鎌倉時代の新しい息吹も感じさせる。
制作年代は、平安時代末から鎌倉時代初め、12世紀末頃と考えられる。

指定年度:平成12年度
お問合せ:専念寺
所在地 :東淀川区小松3-5-15
電話番号:06-6320-1331

専念寺についてはこちら

絹本著色日本血脈相承真影(けんぽんちゃくしょくにほんけちみゃくそうじょうしんえい)

崇禅寺文書(そうぜんじもんじょ)の写真

 もとは中世の淀川流域に勢力を持っていた真宗仏光寺派の門徒が所持していた掛け軸であったと思われるが、寛正4年(1463年)に本願寺派8世門主の蓮如が記した裏書を伴っている。
本願寺派の勢力が拡大し、仏光寺派から本願寺派に転じ、のちに中島衆と呼ばれる大きな勢力となった過程を考えるうえで非常に重要な史料である。

指定年度:平成12年度
お問合せ:萬福寺
所在地 :東淀川区柴島2-13-35
電話番号:06-6322-0582

萬福寺についてはこちら

崇禅寺文書(そうぜんじもんじょ)

崇禅寺文書(そうぜんじもんじょ)の写真

 崇禅寺は、嘉吉(かきつ)2年(1442年)に室町幕府の重鎮である細川持賢(ほそかわもちかた)が、第6代将軍足利義教(あしかがよしのり)を弔うために再興したもので、淀川流域の中島と呼ばれる地域の歴史を考えるうえで重要なお寺です。細川持賢は中島地域の所領を崇禅寺に寄進し、中島地域を支配するうえで中核となる拠点を築きました。
 崇禅寺に伝来する中世文書のうち、『細川持賢寄進状(ほそかわもちかたきしんじょう)※1』嘉吉2年(1442年)4月29日付は、足利義教の菩提のために崇禅寺を建立するものであることに加えて、領有する土地として乳牛牧(ちうしまき)および福島村の欠所を寄進することが書かれた、崇禅寺再興の始まりを示す文書です(創建は古く、天平年間の行基によるとされる)。

崇禅寺文書(そうぜんじもんじょ)の写真

 『細川勝元安堵状(ほそかわかつもとあんどじょう)※2』文安(ぶんあん)6年(1449年)3月30日付、『足利義政御教書(あしかがよしまさみぎょうしょ)※3』長禄(ちょうろく)2年(1458年)7月5日付、『細川勝元施行状(ほそかわかつもとせぎょうじょう)※4』長禄4年(1460年)3月20日付の3通は、中島地域に所在する寺の領地を安堵することが記されています。

崇禅寺文書の写真

 『中島崇禅寺寺領目録(なかしまそうぜんじじりょうもくろく)※5』寛正(かんしょう)2年(1461年)12月26日付は、中島地域に所在する寺領について、耕地一筆ごとに字地、反別、四至、石高、耕作人、課役などを書き記した寺領支配の台帳となる検注状です。乳牛牧、野田、福島、曽根崎、野里などに寺領は及び、当時の支配構造をうかがえるだけでなく、当時の集落や地名の記載も豊富で、中世の中島地域の地理的な様子を包括的に知ることができる貴重な資料です。
 『絹本著色(伝)細川持賢画像(けんぽんちゃくしょくでんほそかわもちかたがぞう)※6』は、開祖である細川持賢を描いたと伝えられ、その面影をうかがい知ることができる肖像としてはほかに類例のない貴重なものです。制作年代は、細川持賢の亡くなった応仁(おうにん)2年(1468年)までは遡(さかのぼ)らず、室町時代末から江戸時代と思われます。
 
指定年度:平成15年度
所在地 :東淀川区東中島5-27-44

崇禅寺についてはこちら

雪鯨橋


別ウィンドウで開く

『東海道中膝栗毛』の淀川川下りの場面で鯨の煮付けが登場するなど、17世紀後半の網取法の普及以降、大阪は鯨肉の主要な消費地であり、明和3年(1766)には大鯨の見世物が法善寺で行われるなど、市中の人々の関心も高かった。
 瑞光寺の雪鯨橋は、鯨漁とは直接関連しない都市部に存在するという点で全国的にも稀有な、鯨供養に関連する遺構である。
 橋の本体は花崗岩切石を積んだアーチ橋であり、欄干の手すり部分は鯨の顎骨を用い、片側に4本の束柱を立て、その間に鯨の肩甲骨をはめこんでいる。
 建立は宝暦年間(1751~1761)のことと伝え、これまでに文政12年(1829)以降、令和元年(2019)まで、6回にわたって欄干の骨の部材が取り替えられてきた。
 紀州熊野浦の漁民に支えられ、修復の時期に鯨の骨を取り替えて、雪鯨橋を修復するという習俗が周期的に行われている。
 紀州の漁民と鯨の消費地であった大阪に所在する寺院の繋がりを示す象徴的な存在である。

指定年度:平成21年度
お問合せ:瑞光寺
所在地:東淀川区瑞光2

瑞光寺についてはこちら

円乗寺真宗関係史料 一括(5点)

円乗寺真宗関係史料のうち方便法身阿弥陀如来画像
別ウィンドウで開く

円乗寺は大桐に所在する真宗寺院である。周辺は、古代には乳牛牧(ちちうしのまき)が置かれ、中世には三宝寺という大寺院があった。また、本願寺教団の有力門徒中嶋衆の拠点の一つである、三番の東域にあたる。この地の土豪である澤田氏の一族が真宗に帰依して開いた寺院と伝え、永正14年(1517)に実如が下付したと考えられる方便法身阿弥陀如来画像を含む、真宗関係史料が伝来している。

指定年度:平成28年度
お問合せ:円乗寺
所在地:東淀川区大桐三丁目

円乗寺についてはこちら

菅原天満宮の砂持ち神事

菅原天満宮に伝わる砂持ち神事の様子
別ウィンドウで開く

寛永年間(1624~44)に勧請されたと伝える菅原天満宮に伝わる砂持ち神事は、宮司による祓の後、清められた砂を天秤で担ぎ、一段高くなっている神社の境内に運ぶ神事である。現在は、砂の運び手は、隣地の幼稚園児がつとめている。堤防の維持と安定を祈願して、天保年間(1830~44)以来、村人が参加して毎年9月9日に行われていたが、現在は10月25日に園児が行うかたちとなって継続している。江戸時代には、神社の造営などの機会に町人たちにより、遊興的な様子を持った砂持ちがよく行われていたが、定期的な祭礼として行われる砂持ちは類例がなく、貴重な民俗文化財である。

指定年度:平成28年度
お問合せ:菅原天満宮
所在地:東淀川区菅原二丁目

菅原天満宮についてはこちら

法正寺真宗関係史料 一括(20点)

法正寺真宗関係史料のうち九字名号
別ウィンドウで開く

法正寺は、東淀川区豊里に所在する本願寺派の真宗寺院である。寺地は『天文(てんぶん)日記』に登場する「三番」の地で、中世には中嶋と呼ばれた淀川流域における、本願寺門徒の有力な拠点であった。廃寺となった上福島の正念寺の旧蔵史料もあわせて伝来する。本願寺教団から下付された室町時代に製作年代がさかのぼる六字・十字の名号本尊(みょうごうほんぞん)に加え、本願寺教団の勢力浸透以前の真宗の本尊である九字・十字名号などの中世史料を含む、市内有数の真宗関係史料を伝えている。

指定年度:平成28年度
お問合せ:法正寺
所在地:東淀川区豊里六丁目

法正寺についてはこちら

木造菩薩立像(瑞光寺) 1躯


別ウィンドウで開く

瑞光寺は、東淀川区東部一帯に寺地を占めたという中世寺院三宝寺の旧地に結ばれた庵室を端緒とすると伝えられる。
 本像は本尊で三宝寺旧仏の可能性があり、聖徳太子作と伝承される。現状は素地を呈する。通規の像容の聖観音像である。両肩先を含めて頭体ともに一木から彫出し、内刳りはなく、古様な構造を示す。前膊から先と膝先は後補で別像を転用しており、当初の尊名は不明である。彫眼像で、幅広の面相、広い肩幅、肉厚の耳が特徴的である。体奥はやや浅いが、一木造特有の量感を示す。
 制作年代は平安時代、11世紀代と考えられる。

指定年度:平成28年度
お問合せ:瑞光寺
所在地:東淀川区瑞光2

瑞光寺についてはこちら
その他の大阪市指定文化財についてはこちら

探している情報が見つからない