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天神橋(てんじんばし)

2010年3月30日

ページ番号:937

 江戸時代には公儀橋として架けられ、南詰は京橋六丁目、北詰は天満十丁目を結んでいた。現在は京橋三丁目と天神橋一丁目の間に架かっている。この橋をはさんで北端は池田町、南は天王寺区の西寺町良運院までを天神橋筋といい、それ以南を松屋町筋と呼び習わしていた。
 橋が架けられた時期は判然としない。伝承によれば、天満宮会所支配人で連歌所宗匠大村由己(おおむらゆうこ)が豊臣秀吉の御伽衆となって謡曲「吉野詣」を作り、その恩賞として大川に橋を架けることを許されたのが最初といわれる。はじめは新橋と呼ばれ、天満宮が管理するようになって天神橋と呼ばれるようになったと伝えるが、真偽のほどはわからない。
 橋の長さは浪花三大橋の中では最長。120間あったものが貞享3年(1686)の治水工事によって137間4尺まで長くなった。浪花の多くの橋の中で架け替えの時に「最其式厳(もっともそのしきおごそか)にして他橋になき一奇(いっき)」といわれたのが天神橋である。天満宮の神主によって祈祷が行われていたことが「摂津名所図会大成」にみることができる。一般的に公儀橋の架け替えは官費を充てるものだが、浪花では豪商・塚口屋七兵衛に請け負わせている。安永4年(1775)の天神橋架け替えの際には、この塚口屋が仮橋を設け通行人から銭を徴収する許可が町奉行所から出された。庶民が橋を渡るのも難儀なことだった。
 また、天保8年(1837)に起きた大塩の乱でこの天神橋が、浪花にとっていかに重要な位置づけがなされていたか知ることとなる。大塩隊の上町侵入を防ぐためにまず天神橋など三大橋が幕府側によって切断されるのである。さらに幕末には大塩平八郎捕縛に功のあった内山彦次郎が、賄賂をむさぼり政道を乱したということで、元治元年(1864)天神橋の橋上で暗殺された。偶然にしてはいかにもできすぎた話である。
 明治18年(1885)7月、淀川大洪水によって流失。同21年(1888)に3年の歳月をかけてドイツ製鉄橋として再生され、昭和9年(1934)5月、現在の3連の鉄製アーチで構成される橋長210メートルの天神橋となった。
(大阪くらしの今昔館 学芸員 明珍健二)

 

天神橋

 

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