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十三大橋(じゅうそうおおはし)

2010年3月30日

ページ番号:967

 大坂から神崎(現尼崎市)を経て西国街道へと至る道筋には、中津川にひとつの渡しがあった。「十三の渡し」がそれである。江戸時代には右岸の成小路村字十三と左岸の堀村を結んでいた。
 『太平記』巻三六の記述によれば、康安元年(1361)9月にはこの付近に橋が架かっていたことがうかがえる。渡辺橋を越え北進する楠木・和田の南朝方と神崎橋を南下した佐々木秀詮の北朝方が西成郡中島で合戦におよんだ。この時、北朝の白江源次六騎が「中津川ノ橋爪」で闘死した記述がみえ、14世紀にはここに橋が架かっていたと思われる。
 しかし、中世末期にはここに橋はなかったとされる。『信長公記』によれば、元亀元年(1570)9月23日に織田信長が野田・福島の砦を焼き払い「中島より江口通御越」とみえる。この様子を記録した『細川両家記』では「中津川船橋は四国衆より夜中に切流れたり。然ば船橋渡らんもなし。昔からの橋も無し。皆々かち渡にし給ふ也」と記されている。もともと中津川には長柄、十三、野里の3カ所の渡ししかなく、信長軍が勝ち渡ったのは、この十三の渡しとされる。
 江戸時代に入ると当地の南岸にあたる小島古堤新田村には脇本陣や旅籠ができ、小宿場町を形成していた。また、十三は焼餅屋が多かったようで『摂津名所図会大成』には「往還の人間断なし、名物として焼餅を売る家多し」とみえる。伝承によればこの焼餅は、享保15年(1730)十三渡し北詰で今里村(現東成区)住人であった久兵衛が始めて、評判をとり名物になったとされる。
 この渡しにはじめて橋が架けられたのは明治11年(1878)のことである。江戸時代には淀川・中津川にはまったく橋はなかったが、近代化の中で架橋運動がさかんになり、成小路村13人の共同経営の私設橋として竣工している。ただし私設橋は有料であった。
 大正時代に入り大阪市は、急激な人口増加による市域の拡大が起こり、第一次都市計画事業を策定。現在の十三大橋は府県道大阪池田線として拡大整備する中で、昭和7年(1932)に開通した。橋形式は支間64メートル鋼タイドアーチ5連、ゲルバー式鋼桁橋が採用されている。
(大阪くらしの今昔館 学芸員 明珍健二)

 

十三大橋

 

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