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桜宮橋(さくらのみやばし)

2010年3月30日

ページ番号:959

 北区と都島区を結ぶ橋である。銀橋ともいう。これは橋全体が銀色に塗られているためであり、大阪人にはこの愛称の方が馴染んでいる。はじめて橋が架かったのは昭和5年(1930)9月。第一次都市計画事業・天満蒲生線の附属橋梁として完成したこの橋は、戦前では国内最大のアーチ橋であった。橋長187.8 メートル、幅員22メートルを誇る鋼アーチ形式。当時としては破格の128万円の工費と3年の工期がかけられた。今は、この橋上を国道1号線が走る。意匠指導は武田五一、橋の両たもとにロマネスク風の昇降口が設けられている。風情があり、橋の景観を高めている。一度訪ねてみてはいかがだろう。桜宮橋が成立する以前、少し上流に澱川橋(淀川橋ともいう)が架かっていた。明治35年(1902)10月に架けられたが、桜宮橋の完成とともに姿を消した。
 さて、橋名ともなった桜宮。もともとこの付近の堤防は桜の名所で、『摂津名所図会大成』に「西の岸ハ川崎の堤より北につづきて木村づつみ・堀川の樋の口・長柄の辺まで」桜並木が続き、花の時期には「都下の貴賎陸路をあゆみ船にて通ひ諷ふあり舞ふありて終日遊宴す。げに浪花において花見第一の勝地といふべし」と勝されている。また、花見時には、桜宮社頭から対岸へ船渡しがあり「桜の渡し」と呼ばれていた。こうした花見客を相手に農家が酒肴を出すようになり、『淀川両岸一覧』には「その塩梅鄙に似ずとて遊客しばしば賞翫す。なかんずく泥鰌(どじょう)汁をもって名物とせり」と紹介された。桜宮境内の料亭では、夏だけ出された荷葉(はす)飯も名物とされた。
 桜宮堤下には「青湾」と呼ばれた小湾があった。水が清淡で茶の湯に最適なもので、豊臣秀吉も好んで用い、隠元、売茶翁、田能村竹田など雅人も愛用した。それほど清らかな流れであったのだろう。明治初年にはこの付近の水が飲料水として大阪市中に販売されており、明治28年(1895)になって大阪市で最初の、国内でも4番目となる上水道水源地・桜宮水源地が設けられた。その給水能力は61万人分もあった。市域拡大に伴い柴島上水道が完成すると大正9年 (1920)その役目を終えた。
(大阪くらしの今昔館 学芸員 明珍健二)

 

桜宮橋

 

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