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源八橋(げんぱちばし)

2010年3月30日

ページ番号:953

 樋の口のほとりにあり天満源八町の濱より中野への舟わたしなるを以ってづくるなるべし 世に名高し
 摂津名所図会大成に紹介された源八渡しの紹介文である。源八橋が架かるこの界隈は江戸時代、右岸側には大坂城代配下の役人たちが住み、対岸はのどかな農村風景が広がっていた。大川の両岸は桜の名所として名高く、今と変わらぬ花見客でにぎわいを見せていた。渡しの東には「中野の梅林」があり、人々はこぞって観梅にでかけた。
 源八を わたりて梅の あるじかな
 毛馬村に生まれた蕪村が詠んだ句である。橋のかわりに大川の両岸を結ぶのは、渡し舟だったのである。源八の渡しは、天満川崎と対岸の中野に渡されていた。正確には源八町(現天満橋二丁目)と東成郡中野村(現都島区中野町四丁目)を行き来していた。この渡しは明治40年(1907)大阪市営となり、昭和 11年(1936)源八橋の架橋によって廃止されている。平成10年(1998)には歩道拡幅工事が完成。
 この橋はゲルバー式鋼板桁橋で、幅11メートル、橋長201.2メートルにおよぶ。大阪市の都市計画事業・天満友渕線の橋として架橋された。モータリゼーションの普及により交通渋滞の解消を目的に昭和46年(1971)には東側半分が北側へ15メートル拡幅された。この橋の東詰下流には、大阪営林局の貯木場があったが、現在は在阪各大学ボート部の漕艇庫が立ち並ぶ。源八橋を知らない方でも、大阪市民レガッタや桜杯レガッタで先陣を競う姿を目にしていよう。練習にはげむ彼らの姿は夕映えのなかで美しい。
 この橋名は、地元からの強い要望で源八町にちなんだものとなった。しかし、一方では中野橋という言い方も残る。名称は子ども命名と同じで悩みはつきない。
 近代上水道が敷設される以前の大阪は、飲料水に悩まされた都市であった。井戸水はほとんどが飲み水としては不適で、生活用水として用いられていた。飲み水のほとんどは水売りとよばれた人々が水船で市中各所へ運び、水桶で各家庭に届けていた。そうした水汲み場のひとつが源八橋上流にあったのである。飲み水が川から供給されるほど澄んでいたのである。
(大阪くらしの今昔館 学芸員 明珍健二)

 

源八橋

 

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