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毛馬橋(けまばし)

2010年3月30日

ページ番号:946

 与謝蕪村。天明期の俳壇革新者として、あるいは南宋画の開拓者として知られている彼は、享保元年(1716)毛馬村の農家に生まれた。本姓を谷口といった。18歳で江戸に出て俳諧を学び、のちに下総を拠点に関東・東北を巡って俳諧と画技を磨いた。次いで丹後与謝地方に4年余りを過ごし、京へもどり画業に専念している。
 安永6年(1777)に編まれた長篇誌『春風馬堤曲』は、次のような句で始まっている。
 やぶ入や 浪花を出て 長柄川 
 春風や 堤長うして 家遠し
 薮入りで一人の女性が毛馬堤を急ぐ情景を彼女に成り代わるという設定で、蕪村自身の望郷の念を綴ったものである。彼は門人へ送った手紙の中で次のように吐露している。「馬堤は毛馬堤也、則余が故園也、幼童之時、春色清和の日ニ、心友どちと此堤ニのぼりて遊候。水ニは上下の船アリ、堤ニは往来の客あり(中略)実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情にて候」
 さて、この蕪村の故郷である毛馬村。淀川が中津川を分岐して南へ大きく湾曲する所の左岸に位置している。対岸の北長柄村へは、長さ190間におよぶ毛馬渡しがあった。365メートル余の渡しである。蕪村が「堤ニ往来アリ」と回顧したのは、この渡し船に急ぐ人々の姿であった。また、蕪村が「水ニは上下の船アリ」と書いた光景は、淀川上り船・下り船の行き交う情景そのままであった。淀川上り船は、天満川崎で水主が陸へ上がり、中津川分岐点の三ツ頭まで船を引上ったあと、対岸の毛馬村へ渡って赤川村へ、さらに右岸の柴島から江口まで引上った。一方、伏見からの下り船には飯・汁・酒・餅・田楽を売る煮売り船があり、人々の空腹を満たしていたのである。
 この地にはじめて橋が架けられたのは大正3年(1914)。地元からの熱心な架橋運動が実り、長さ155メートル、幅3.6メートルの木橋が完成した。毛馬橋の最初である。昭和12年(1937)第3次都市計画の策定によって新毛馬橋の設計が進められたが、資金不足で実現しなかった。現在の姿になったのは昭和36年(1961)。幅8メートルの連続合成桁という最新の設計施行が施された。
(大阪くらしの今昔館 学芸員 明珍健二)

 

毛馬橋

 

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