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泉布観

2009年3月16日

ページ番号:997

  大阪の近代化は、東と西から始まったといわれます。江戸時代の大坂は三郷と称して上町・船場・島之内・天満などから成りましたが、慶応四年(一八六八)にその西端川口に位置した船手奉行所の番所跡に外国人の居住のために居留地が設けられました。現在その趣を伝えるものは残されていませんが、当時は整然と区画された宅地に、コロニアルスタイルと呼ばれる洋館が建ち並んでいました。
 一方、明治元年(一八六八)には三郷の東部天満川崎にあった旧幕府の材木蔵の跡地を利用して、新政府の手により造幣寮(現造幣局)の建設が始まりました。設計はイギリス人のお雇技師トーマス・J・ウォートルスで、彼は後に銀座煉瓦街やイギリス公使館なども手がけており、日本で本格的な西洋建築を最初に建設したといわれています。泉布観はこの造幣寮の応接所として建てられたものです。明治二年二月着工、同四年二月に完成し、同五年には明治天皇の行在所 (あんざいしょ)とされました。泉布観の名称はこのとき賜ったもので、「貨幣の館」を意味します。泉布観はその後も天皇や皇族、外国賓客などの宿所とされたほか、明治二十六年から二十八年には第四師団長の北白川宮能久親王の官舎にあてられていました。
 建物は、煉瓦造一部石造の二階建てで、平面はほぼ正方形をしており、一・二階ともに正面及び両側面の三方に吹き放ちの廊下をめぐらしています。さらに正面中央には車寄せ(二階は展望所)をつけて、典型的なコロニアルスタイルの外観を有しています。内部は一・二階ともに中央に通された廊下により左右に二分され、階下には左手に大広間、右手に御座所が配されています。室内にはそれぞれ外国製の壁付き暖炉やガス灯照明器具が備えられ、当時の趣をよく伝えています。
 なお、泉布観のすぐ横に建つ旧桜宮公会堂の玄関も、明治四年三月に完成した造幣寮鋳造所の正面玄関を移したものです。古代ローマ建築の様式であるトスカナ式石造円柱の上に、ぺディメントと呼ばれる三角形の切妻壁が載る古典主義的な意匠に特色がみられます。
 これらの建物は大阪の近代化の始まりを象徴する建築であり、ともに国の重要文化財に指定されています。
(住まいのミュージアム学芸員 新谷昭夫)

 

泉布観

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