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天王寺区の歴史

2023年12月1日

ページ番号:610664

天王寺区は、大阪市のほぼ中央に位置し、地勢は西高東低で南北にのびる帯状の上町丘陵と呼ばれる台地にあります。

この起伏の多い地勢は現在の上町台地が遠い昔は大阪湾に突き出るように伸びた帯状の岬であった頃の海岸線の面影を残すもので、人々が縄文弥生の時代からここに定住し、大阪聚落の最も古い発生地でありました。また、わが国の古代国家が形成されたその昔から瀬戸内海を通じて流入する外国文化の玄関口として発展し、人々が行き交う政治経済の要衝の地でもありました。

都が大和から京都に移るに至って、その地理的位置の変化とともに、一時の盛時を失ったが、信仰の地としての繁栄はなお多くの人々を迎えました。しかし、北条・足利の時代より戦国にかけて、上町の交通路がたびたび軍馬の往来に荒らされることになり、浪速は非常にさびれ、蓮如が石山に本願寺を築く頃は、まさにその衰退の極みにありました。

一方、この頃船場・島の内の低地帯の陸地化がほぼ完成し、蓮如による台地の門前町も、秀吉の大坂城築城によって、商業活動の中心は上町台地より離れて、低地に聚落が移行することになりました。その後、松平忠明は、さらにその姿を明確にし、当区は大坂三郷の市街地外として神社・仏閣が競う観光信仰地となりました。徳川期よりは、僅かに門前の賑わいはあったが、ほとんどの地域は、近郊農村化するに至りました。

このような状態は、ほぼ明治20年頃まで続きましたが、近代交通機関の発達は地理的条件を改め、都市内の雑踏と塵埃をさけて、しかも市の中心部から近距離であり、市内を一望におさめる風景地であるところから、続々として学校・住宅・病院などが建設され、明治時代を終えるまでに、ほぼ教育文化区としての性格を築き上げるに至りました。

大正時代に市電網も完成し、上六・阿部野橋にターミナルが出現しました。

大正14(1925)年4月1日現在の区域
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大正14年4月1日に大阪市が周辺の東成・西成両郡の44カ町村を編入する、いわゆる大阪市第2次市域拡張 が行われた際に、おおむね当時の南区から分かれ天王寺区が創設されました。区名は四天王寺の存在によって、付近一帯が古来天王寺の名で呼ばれていたことに由来します。その区域は、当時の学区及び財産区を主体として定められたので、隣接区との境界線は出入りの多い複雑な区形となりました。

昭和18(1943)年4月1日現在の区域
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昭和18年4月1日の大阪市行政区再編成により、その時に新区の境界は原則として河川・鉄道及び軌道・道路・地勢の高低(丘陵線) 等により定められたので、天王寺区の複雑な境界は解消されました。すなわち清堀地区(現味原・真田山地区)が東区から編入となり、東平地区の上町筋以西が南区へ、松屋町筋以西が浪速区にそれぞれ移り、現在の天王寺区が形成されました。

市内でも屈指の古い歴史を持つ天王寺区には、我が国仏法最初の大伽藍で、聖徳太子の創建 (西暦593 年)による四天王寺をはじめ200余りの社寺があるほか、神社仏閣の間を抜ける古い坂道が昔の姿を今にとどめるなど、歴史的・文化的な史跡が数多く残る歴史と伝統の息づくまちであります。また、天王寺公園をはじめ緑豊かな多くの公園があり、大学から幼稚園まで70に近い校園を有し、美術館、動物園、図書館などの文化施設にも恵まれた文教のまちとして知られています。

天王寺区創設80周年記念誌より

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