区内に残る言い伝え
2017年12月28日
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野崎参りの様子
享保6年(1721)、道頓堀竹本座で近松門左衛門作「女殺油地獄」が初演され、続いて安永9年(1780)、同座で「新版歌祭文」が初演された。両方とも野崎参りを背景とした芝居で、これにより野崎参りはさらに有名になった。
大阪から船で行くには八軒家から乗船し、大川から寝屋川をさかのぼり徳庵、諸福をへて住道で上陸して歩くのが一般であった。
陸路は、ほとんどが堤の上で船と平行しており、徳庵堤では道行く者と船で行く者との口でのやり合いは「ふり売りけんか」といわれ、けんかに勝つとその年は縁起が良いが、けっして怒ってはいけないとされていた。
川沿いは出店もでてにぎわい、特に徳庵や住道や浜は混雑した。しかし、浪速鉄道が明治28年(1895)に開通してからは、船の利用が急激に減っていった。また、昭和8年(1933)東海林太郎「野崎小唄」がヒットし、屋形船が復活したが、それも2、3年で終わった。
寝屋川の巡航船
大正3年(1914)10月に城東巡航合資会社が、大阪巡航会社の巡航船を譲り受けて天満橋 -今福間を巡航した。巡航船は、30人乗りのスマートな船で、6馬力の石油発動機付きで非常に人気があった。天満橋の野田屋の前から片町-鴫野橋-朝日橋-今福間を就航していた。地元の要望もあり、今福から放出大橋-徳庵まで延長されたが、昭和7年(1932)、片町線が電化し、翌年8年(1933)、鴫野駅が出来てから乗客が減りだした。さらに昭和9年(1934)1月から、大阪市バスが片町から今福・放出・徳庵方面へ乗り入れることになったので、廃業することになった。