区名、地名の由来
2017年12月28日
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区名の由来
鎌倉時代、源頼朝が富士の裾野で巻狩(四方から狩場を囲んで獣を捕らえる狩り)をしたときに、千羽の鶴に金の短冊をつけて放したところ、この地に飛来して住み着いた。その鶴を見物にくる人が多く、「鶴見」という呼び名がついたという言い伝えがあります。
また、昭和49年(1974年)に城東区から分区される際、区内に府下最大の鶴見緑地があることから名付けられたものです。
また、昭和49年(1974年)に城東区から分区される際、区内に府下最大の鶴見緑地があることから名付けられたものです。
地名の由来
今津(いまづ)
「大阪府全志」巻之三において、「往時、摂津のありしより起れるの称ならんか。里伝に依れば、往時此の地に今津寺あり。寺歴は詳ならざれども、西辺における大般若地・ 池の坊・金丸・常垣内・常垣外・寺面・観音妙といへる小字の存する所は是れ其の跡にして、村名は同寺の名に因れり」と述べられている。
鶴見(つるみ)
(1)地域内の低湿地がツルの群生地であった。(2)治水と関わる八剣伝説をうけて、そのツルギがツルミに転訛した。(3)旧下之辻村の開村が源頼朝の命令といわれ、頼朝が富士の裾野での巻狩で放った多数のツルの飛来地という伝承によるなどいろいろあるが根拠となる明確な原典が存在せず、口伝の領域から採用されたものである。
徳庵(とくあん)
寝屋川・古川の旧合流点の地にあった同名の庵寺に由来すると伝えられている。
中茶屋(なかのちゃや)
古堤街道の中間点にあたり、茶屋が点在した地域であることに由来する。
浜(はま)
町域が古川筋舟運の要津をなし、枝切街道沿いに船問屋や船大工が集まっていたことに由来する。
放出(はなてん)
放出については、下記の2説がある。
◎ 「はなちてん」から「はなちで」、そして「はなてん」になったと伝えられるが、当地は古代から中世にかけての河口湖からの湖水が大和川や寝屋川の河流と合流して淀川(現在の大川)に注ぐ放出口と考えられることに由来する。(大阪の町名-その歴史-より)
◎ 草薙剣(天叢雲の剣の別称)を盗み出し、新羅に逃げようとした僧道行の船が、難破してこの地に漂着したとき、神の怒りをおそれて剣を放り出したことによるとする説。
《阿遅速雄(あちはやお)神社の由来による》茨田大宮(まったおおみや)
字宮の前に鎮座した産土社の大神社の社名に由来する。大神社は大正3年8月11日に大字浜字赤曾根の古宮神社に合祀されたが、昭和12年に旧地に還坐し、俗に大宮神社として町域の人達に親しまれていることによる。「茨田」の地名について
『日本書紀』を出典とする古い地名として当地付近が該当することに由来する。
古来の茨田(万牟多)湿地や仁徳天皇の代に構築されたとする茨田堤にちなむ。
◎仁徳天皇11年「北の河のこみを防かむとして茨田堤を築く」(日本書紀)
◎仁徳天皇条「秦人を役ちて茨田堤及び茨田屯倉を作り」(古事記)
◎河内国皇別「茨田宿禰多朝臣同祖彦八井耳命之後也。男野現宿禰仁徳天皇御代造茨田堤」(新撰姓氏録)などの記録が残されている
諸口(もろくち)
町域が古川右岸の水郷地帯において輪中的集落をなしていて、承応4年(1655)の徳庵川開削、宝永元年(1704)の大和川付替えにともなう新開地旧川床の新田開発、享保9年(1724)の地内中茶屋の伏越樋築造による古川落口の付替えなどによって、地域が門真井路・八ヶ井路沿いの古川と寝屋川の合流点の要衝に位置することになり、水利のいろいろな口がこの地に集中するようになったことに由来する。
緑(みどり)
当地の一部が鶴見緑地に含まれることによるとされている。昭和49年に鶴見区が城東区から分区した際、住居表示で新たにできた町名で、城東区の8つの旧町名がひとつにまとまり緑となった。
安田(やすだ)
河内国若江郡安田村の豪族・百姓が天文2年(1533)に大和川からの水難を避けるため当地を移住し、旧地名を村名として用いたことに由来する。
焼野(やけの)
古川右岸の自然堤防洲を町域としており、往時、ヨシ焼きなどが盛んであったことに由来する。
横堤(よこづつみ)
寝屋川古堤に対し横堤をなす古川堤防洲沿いの地域であることに由来する。