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区の沿革

2009年10月23日

ページ番号:387

市域編入以前

 今の、淀川区のあたりは、古代には大阪湾の海中でした。やがて、淀川・大和川・猪名川などの河川が運ぶ土砂が堆積し、中島・加島・姫島などの、いわゆる「難波八十島」と呼ばれた多くの点在する小島を中心に陸地が形成されました。
 日本書紀には、「朱鳥元年(680年)、槻本(今の塚本)の村主勝麻呂が天武天皇から連を賜った」との記事があり、当時この地に豪族が住んでいたことがうかがえます。
 続日本紀には、「延暦4年(785年)に三国川(今の神崎川)の開削工事が行われた」とあり、平安時代は船交通の要所として栄えたようです。
 戦国時代に楠木正行(まさつら)が三津屋城を、細川一族が堀城(今の十三公園付近)を築いたとの記録があり、香具波志神社には戦勝祈願の跡が残っています。
 江戸時代は、中津川(今の淀川)の洪水に悩まされながらも、肥沃な農業地帯であったようで、この地域の農民が多くの困難を乗り越え、自力で中島水道を開削したのもこの時期です。加島には、幕府の銭座がおかれ、伝統的に工芸の盛んな土地で「酒は灘、銭は加島」といわれるほど、良質の銭貨を生産しました。

 

市域編入

 大正14年4月、もと西成郡中津町、神津町、西中島町、北中島村が、大阪市第2次市域拡張により市域に編入され東淀川区となり、昭和18年4月、22区制にともない、淀川以南の地域を大淀区に分離し、西淀川区の一部を東淀川区に編入しました。

 

急激な都市化の進展

 昭和36年頃から新幹線「新大阪駅」の工事が始まり、田畑や蓮池が点在するのどかな町であったこの地域が激変したのは、東京オリンピックが開催された昭和39年からです。同年9月24日に地下鉄「梅田~新大阪駅」間が、10月1日に新幹線が相次いで開通し、新大阪駅が開業しました。
  昭和45年に新御堂筋が全線開通し、地下鉄御堂筋線の延長、万国博覧会の開催にいたり新大阪駅は、全国から多くの旅客を迎える大阪の表玄関に成長。現在では、高層ビルが林立し、副都心と呼ばれるまでに発展しています。

 

淀川区の誕生

 昭和49年7月、行政区画再編により、JR東海道線以東の区域を分離し淀川区が誕生しました。

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大阪市淀川区役所 政策企画課広報担当

〒532-8501 大阪市淀川区十三東2丁目3番3号(淀川区役所5階)

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