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区内のスポット(24~27)

2009年10月23日

ページ番号:494

■ 淀川改修碑

淀川改修碑

 円稱寺(新北野2丁目)という浄土真宗のお寺に「淀川改修中津村旧址記念碑」と刻まれた石碑が建っています。
 淀川は、昔から大洪水が多いことで有名で、明治時代には10回もの大洪水が起こり、多くの死者や行方不明者がでたそうです。
 たまりかねた政府は外国から土木技師を招いて工事にかかりましたが、それでも大洪水を防げませんでした。
 そこで大阪市は、思いきって沖野忠雄という工学博士を起用し、大規模な工事を伴う画期的な計画をたて、周りの誹謗(ひぼう)や反対にもかかわらず、大変な苦労の末、明治42年にこの難工事を完成させたということです。
<区民だより「よどがわ」“わがまち見て歩る記”から>

■ 野中の巳さん

野中の巳さん

 立森瑞神(たつもりずいじん、木川西4丁目)は蛇を主神とする小さな神社で、地元では野中の巳さんと呼ばれ親しまれています。
 大正末ごろに何人かの村人が、夢で大きな蛇に「私をまつってくれれば水不足にならないようにしてあげる」と言われ、これは神のお告げだと思い、おまつりしたのが始まりです。
 蛇は水に縁のあるところから河川の神、七福神の弁財天のお使いとされ、その財という字から商売繁盛の神様として信仰されています。また美しい女神でもあるので、それにあやかって美しくなりたい女性にも多く信仰されるようになったそうです。
<区民だより「よどがわ」“わがまち見て歩る記”から>

■ 春日神社の跡

春日神社の跡

 宮原1丁目のビルの谷間に「春日神社之址(あと)」と刻んだ石碑と三つの小さな社が安置されています。これは新大阪駅周辺土地区画整理事業に伴い移転されたものです。春日神社はもともと、もう少し南にあり、千坪ぐらいの境内をもっていたそうです。大昔、そこに大きな榊の老木がありましたが、この木を神木として奈良の春日大社から分霊をいただき、宮原の鎮守にしたのが春日神社の起こりとされています。ところが明治政府が神社等の合併に関する勅令を出し、神社維持の厳しい条件をつけたのが原因で、春日神社は明治41年に廃社となり、現在のような石碑が残るだけとなりました。
<区民だより「よどがわ」“わがまち見て歩る記”から>

■ 小方比呂志の句碑

小方比呂志の句碑

 「登る子に冬木の肌(はだえ)なめらかに」田川北2丁目にある田川北公園内には俳人小方比呂志の句碑があります。
 小方比呂志は、幼いころから俳句が好きで、戦争中も句作を続け、昭和24年には田川小学校PTAの強い要請で「田川俳句会」を指導、その後田川の工場で働く人々を中心に「親川会」を発足させ、地域俳句運動のさきがけとして活躍しました。
<区民だより「よどがわ」“わがまち見て歩る記”から>

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