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区内のスポット(9~12)

2009年10月23日

ページ番号:548

■ 常光寺

●東三国1丁目32番街区

常光寺

 源頼朝の家臣、佐々木盛綱が、主人の没後出家して僧西念となり、建仁年間(1201~1204年)当地に行脚し、小庵を結んだのが起こりです。寛政5年(1793年)正久法師が再興し現在に至りますが、代々当地区の学問所としても知られ、寺子屋が置かれていました。明治8年、これが淀川区で最も古い五番小学校(現北中島小学校)となります。
 山門横の大楠は見事です。
<淀川区コミュニティ協会発行 「YODOGAWAKUふれあいマップ」から>

常光寺

 浄土真宗の常光寺(東三国1丁目)には、名将・佐々木左兵衛盛綱(さひょうえもりつな)ゆかりの阿弥陀如来がまつられています。
 盛綱は源頼朝の家来として活躍しましたが、50代半ばから信仰ひとすじに生きるようになり西国行脚に出かけました。その途中、常光寺に立ち寄り小堂を築いて持仏の阿弥陀如来を安置したということです。
 常光寺の住職は代々学者として村人から尊敬され、この地区で唯一、寺子屋も開いていましたが、その寺子屋は明治8年、現在の北中島小学校の前身である五番小学校となりました。
<区民だより「よどがわ」“わがまち見て歩る記”から>

 

■ 正通院

●木川東1丁目7番街区

正通院

 天満の惣年寄を努めた金谷歳次郎が、延亨3年(1746)に創建しました。
 金谷家からは、三碩・遷斎・興般などの学者や文人が出ており、遷斎らの墓が現存します。また、墓地の蔀関月の墓は、大変有名で、彼は、「伊勢参宮名所図会」「日本山海名産図会」などを著した画家です。寛政9年(1797)51歳で亡くなりました。
 本堂前の石像不動は天保15年(1844)の造立で、「木川のお不動さん」と呼ばれ、広く信仰されています。
<淀川区コミュニティ協会発行 「YODOGAWAKUふれあいマップ」から>

蔀関月(しとみかんげつ)の墓

蔀関月の墓


 木川東1丁目の正通院という禅寺に江戸時代の有名な画家、蔀関月の墓があります。
 関月は、絵と文章で名所や史跡を紹介する『名所図会』をたくさん記し、なかなか旅行などできなかった当時の人々にたいそう喜ばれたということです。
<区民だより「よどがわ」“わがまち見て歩る記”から>

■ 上田秋成の墓

●加島4丁目5番街区

上田秋成の墓

 「雨月物語」「春雨物語」の作者として、世界的に知られた秋成は、香具波志神社宮司「藤家英」を頼って、安永2年(1773年)から、三年たらず当地に居住していました。
 生来偏屈で、国学者としても業績をあげながら、文化6年(1809年)貧乏のどんぞこで亡くなりました。行年76歳、この墓はその二年後に藤家孝が建てたもので、秋成の墓としては日本最古です。秋成が幼時、天然痘で危うかったとき、同神社を信仰して助かったとの話も知られています。
<淀川区コミュニティ協会発行 「YODOGAWAKUふれあいマップ」から>

上田秋成の墓

 上田秋成は「雨月物語」の作者で、江戸時代のわが国を代表する文学者のひとりです。
 京都の西福寺の墓は全国的に知られていますが、これは文政4年の秋成十三回忌に、友人の森川竹窓らが建てたもので、淀川区には、それよりはるかに古い墓が現存します。香具波志神社(加島4丁目)の少し北、日本化学の塀にそって入った所にあり、大きさ60cmほどの自然石の墓です。「上田秋成先生墓文化八年三月」と彫られており、秋成没後3年、生前親交のあった香具波志神社神主の藤氏が建てたものです。
<区民だより「よどがわ」“わがまち見て歩る記”から>

 

■ 島左近・道悦の墓

●十三東2丁目1番街区

島左近・道悦の墓

 木川墓地にあります。島左近は、石田三成の家来で、関ヶ原の合戦の時、活躍し、戦死しています。その妻の一人と娘たちは、ひそかに当地に隠れ住んだと伝えられています。道悦は、その子孫で中津川(今の淀川)治水の功労者で、慶安3年(1650年)、10年以上も寝食を忘れて働き、ついに改修工事を完成させました。その3年後、44歳で死亡、墓には彼の業績をたたえた、学者山本洞雲の名文が刻まれています。左近の墓は、道悦の子孫、島吉次郎氏が昭和9年に建立したものです。
<淀川区コミュニティ協会発行 「YODOGAWAKUふれあいマップ」から>

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