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区内のスポット(1~4)

2009年10月23日

ページ番号:563

■ 蒲田神社

●東三国2丁目18番街区

蒲田神社

 室町時代(1338~1573年)に地元の有力者佛生院又三郎が、「室の明神」の分霊をいただいて、村の鎮守として創建した神社です。この付近は、蒲の生い茂る田園情緒豊かな所でしたから、明治42年からこの社名になりました。今も境内には大きな楠がありとても気持ちのいいお宮さんです。
<淀川区コミュニティ協会発行 「YODOGAWAKUふれあいマップ」から>

蒲田神社の大楠

(蒲田神社の大楠)

 蒲田神社(東三国2丁目)の境内には、多くの大楠があります。都会の活気があふれる町の中にあって、静かなほっとできる所です。
 正面鳥居横には、大人二人でも、手がつなげないほどの楠があります。少し奥には、樹齢650年以上といわれる古い切り株が安置され、広さは4~5畳もあります。そのうえに白光(しらみつ)さんという、稲と水の神様で巳(み)さんをおまつりしている小さな祠(ほこら)がのっています。瓦ぶきで六角形の屋根があったそうですが平成7年の阪神大震災で壊れてしまったそうです。
 このほかにも数百年を経た古大木が数本現存しています。
 「樹が非常に痛んでいたので、山林の仕事をされている方に依頼して、枝を整え、土も専門の方に入れ替えていただきました」と神社の方が話しておられました。経費も大変だったそうですが、3~4年すると青々と繁り、りっぱな大楠としてよみがえるそうです。
<区民だより「よどがわ」“わがまち見て歩る記”から>

(平成15年11月撮影)

■ 神津神社

●十三東2丁目6番街区

神津神社

 天正年間(1573~1592年)創建された神社で、初めは、八幡菩薩を祭り、武士の信仰を集めていました。明治42年、近辺のいくつもの神社を合わせ、神津神社となりました。
 戦後勧請した十三戎は、発音がトミ(富)に通じるところから商店街の神様として、大変な人気があります。境内に「吉向がま」が再現されています。享和の初め(1801年頃)戸田治兵衛が小島(今の十三)に開いたのが起こりで将軍徳川家斉から「吉向」の名を賜り、当地区の名物焼物となりました。現在は交野の私市に移っています。
<淀川区コミュニティ協会発行 「YODOGAWAKUふれあいマップ」から>

吉向窯(きっこうがま)の由来

吉向窯

 伊予(現在の愛媛県)大洲藩出身の戸田治兵衛が京に出て陶づくりを学び享和の初め(1801年頃)大阪十三に窯を築きました。
 庭前の老松と生駒山に出る月をめで「十三軒松月」と号し作陶に専念。時の将軍家の慶事に際し、鶴と亀の食籠(じきろう・食物を盛る器)を献上しました。その折、海亀の食籠が非常に気に入られ、亀甲即ち、吉に向かうに通じ、もてはやされました。大阪唯一の窯であった十三の吉向窯は、明治18年(1885 年)の淀川大洪水後、中津川改修のため移転しました。
 その後、高津を経て現在交野市私市と東大阪市布市とに二家があります。東京国立博物館や大阪市立美術館に初代などの作品が大切に収蔵されています。神津神社境内の吉向窯は昭和59年の第3回十三文化祭で十三小学校校庭に再現したものを、移築したものです。
<区民だより「よどがわ」“わがまち見て歩る記”から>

■ 香具波志神社

●加島4丁目4番街区

香具波志神社

 天徳3年(959年)創建の古い歴史を持つ神社です。中世から江戸時代は稲荷信仰の中心地で「加島稲荷」と呼ばれました。祭礼の神輿に西国大名が道を譲ったほど威勢があったそうです。加島には元文3年(1738年)銭座が置かれ、品質のよい銅銭が造られました。
 神社の境内にある「香文館」には、この銭座の記録や、松木淡淡(俳人)・上田秋成の遺墨など、すばらしい社宝が保存されています。他に「楠木正儀駒つなぎ楠」、三好長慶奉納鳥居沓石」などもあります。
<淀川区コミュニティ協会発行 「YODOGAWAKUふれあいマップ」から>

正儀駒つなぎ楠(まさのりこまつなぎくす)

正儀駒つなぎ楠

 香具波志(かぐはし)神社(加島4丁目)の境内北側に、戦国時代の武将楠木正儀(正成の三男)が南北朝のころ、当社に祈願した際に愛馬をつないだという大楠の切り株が残っています。
 樹齢は800年を越え、高さ27mの大阪市一の巨木になり、昭和13年には大阪府の天然記念物に指定されましたが、戦後の公害などで昭和45年に枯れてしまいました。しかし、人々の信仰が厚いため、この木を保存することになり、今は直径1.6m、幹回り7.5mほどの切り株が残され、その上に小さな祠 (ほこら)がまつられています。
<区民だより「よどがわ」“わがまち見て歩る記”から>

■ さいの木神社

●西中島7丁目7番街区

さいの木神社

 延宝6年(1678年)4月、奉行所の役人たちが召し捕りにくる直前に、当地で自害した、中島水道開削工事の責任者、澤田久左衛門・一柳太郎兵衛・西尾六右衛門の三庄屋の冥福を祈って建てられた社です。
 三庄屋は、淀川治水工事のため、幕府の許可を待ちきれず、この年突貫工事を始め、僅か十日で「中島水道」と呼ばれる排水溝を、東淀川区淡路から此花区伝法4丁目まで通しました。大阪市内では、最も名高い水道工事悲話ですが、西淀川区にある「大野川緑陰歩道」はこの名残です。自害したのは、西尾六右衛門のみとの説もあります。
<淀川区コミュニティ協会発行 「YODOGAWAKUふれあいマップ」から>

さいの木神社

  新大阪駅の南西、西中島7丁目に、3人の庄屋の冥(めい)福を祈って建てられたお社があります。
 江戸時代、この辺りは農地でしたが土地が低く、たびたび起こる淀川の氾濫により、農民たちは困り果てていました。たまりかねて延宝元年(1672年)に 3人の庄屋が治水工事を幕府に直訴しました。延宝5年にやっと工事の許可がおりましたが、費用は全額百姓持ちとするということでした。不作に悩み年貢だけで精一杯の生活を強いられていた百姓には無理難題で、せめて半分でも補助してほしいと嘆願しましたが聞き入れられず、かえって工事の許可を取り消されてしまいました。
 3人の庄屋はついにがまんができなくなり、延宝6年、無許可のまま治水工事に乗り出しました。村民たちは老若男女を問わず、私財をなげうって工事に参加し、現在の東淀川区~此花区間の約9キロの水路をわずか数十日で完成させました。
 無許可の禁を犯した3人の庄屋はその責任を負って、細目木(さいのき)と呼ばれていたこの地で、江戸の方角をにらんで自決したということです。
<区民だより「よどがわ」“わがまち見て歩る記”から>

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