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区内のスポット(5~8)

2009年10月23日

ページ番号:569

■ 大願寺

●東三国1丁目4番街区

大願寺

 615年頃、長柄の架橋工事を成功させようと人柱になった巌氏を弔うため、推古天皇の勅命で創建された「橋本寺」を継ぐお寺だと伝えます。巌氏は吹田の豊かな長者でしたが、報恩の念が強く、人々の難儀を救おうと自ら犠牲になりました。
 淀川区では最も有名な伝説で、大願寺と改称された時、後一条天皇が下賜された「笑地蔵」(定朝の作)や、「巌氏」の墓、「巌氏持仏」「巌氏位牌・画像」などの寺宝と「長柄人柱」があります。古くは禅寺でしたが、宝永6年(1709年)両替商天王寺屋彌右衛門が日蓮宗に改めました。彌右衛門の墓があります。
<淀川区コミュニティ協会発行 YODOGAWAKUふれあいマップ」から>

■ 光用寺

●西中島7丁目8番街区

光用寺

 天平19年(747年)僧行基が創建したと伝えられる大変古いお寺です。
 暦応年間(1338~42年)武将赤松範村が、「比翼さつき」と呼ばれた珍しい品種のさつきを奉納、江戸時代は「さつき寺」の名で親しまれ、花の咲くころには特に賑わいました。本堂の裏には平家の猛将で、「屋島の合戦」でも功名をたてた平景清(通称悪七兵衛)とその郎党の墓があります。景清は芝居でも有名な人物だけに、後世作られたものでしょう。
<淀川区コミュニティ協会発行 「YODOGAWAKUふれあいマップ」から>

比翼杜鵑花(ひよくさつき)

比翼杜鵑花

 西中島7丁目に「光用寺」という古いお寺があります。境内には約660年前播磨(兵庫県)の守護大名赤松範村が奉納した、珍しい品種のさつきがあります。二つの花びらがむきあって抱き合うように咲くので、『比翼さつき』と呼ばれています。それが江戸時代から明治の初期にかけて、高さ3m周囲21mとひとつの山のように咲き誇るようになったので、「さつき寺」の名で親しまれるようになりました。
 花の咲くころには多くの参詣者でにぎわい、当時(明治)としては珍しく外国人の来訪もあり、特に若い男女には「願かけさつき」として人気があったそうです。
 惜しいことに今は枯れてしまいましたが、その二代目がわずかに残って、季節になると色あざやかな花を咲かせます。
<区民だより「よどがわ」“わがまち見て歩る記”から>

■ 富光寺

●加島4丁目10番街区

富光寺

 大化年間(645~650年)に、インドから来日し数々の奇跡を見せた法道上人が、当地区付近から霊光が出るとして阿弥陀仏を自ら彫り、堂を建て安置したのが当寺の起こりだとの伝承があります。この仏像は藤原前期の作と思われる丈六の見事なもので荘厳なたたずまいがあふれています。
 また、ある尼が聖徳太子の夢告を受け、草むらから仏舎利を拾い、当寺に納めたとの話も広く知られています。鎌倉時代には将軍北条時頼も訪れた古樹の繁茂する壮大な寺院でした。
<淀川区コミュニティ協会発行 「YODOGAWAKUふれあいマップ」から>

富光寺の仏さま

(富光寺の仏さま)

 加島4丁目の富光寺(真言宗高野山派)にある本尊の阿弥陀如来は、大きさが一丈六尺(約5m)の立像で、淀川区では最古最大の仏さまと伝えられています。
 645年ごろにインドから法道仙という人が来て、兵庫県の法華山で真言宗を広めたといわれていますが、あるときこの人が加島の辺りで五色に光る霊光に気がつきました。そこで早速土地の人を集めて仏像を彫り小さなお寺を建ててまつらせました。
 当時の帝(みかど)であった孝徳天皇がその話を聞いて、このお寺を富光寺と名付けたそうです。
<区民だより「よどがわ」“わがまち見て歩る記”から>

■ 光専寺

●三津屋中1丁目6番街区

光専寺

 楠木正行が築いた三津屋城の跡を、子孫の末廣治朗左衛門が出家して僧正顕となり、文明5年(1473年)に開いたと伝えられるお寺です。当地区には戦国時代、領主三好長慶の善政に感謝して建てた八幡社が三社あり、地名三津屋もその三社からきたといわれています。八幡社は現存しませんが、その遺物の一部の石仏が墓地にあります。
<淀川区コミュニティ協会発行 「YODOGAWAKUふれあいマップ」から>

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