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淀屋橋(よどやばし)

2010年3月30日

ページ番号:943

 大阪で最もよく知られ、親しみのある橋といえば「淀屋橋」である。大阪市民はこの橋に特別な魅力を感じている。
 土佐堀川に架かっている橋で、現在は北詰が北区中之島一丁目、南詰が中央区北浜三丁目となっている。江戸時代にはいわゆる町橋で、北詰が上中之島町、南詰が大川町となっていた。橋長は34間2尺というから約65メートル、幅は2間で約4メートル。橋名は、架橋した大川町に住む豪商・淀屋にちなんだという。この淀屋の初代主人・淀屋常安(じょうあん)は、材木業を営み中之島の開拓者でもあった。その名は、下流の常安橋として今に残っている。その子个庵 (こあん)は淀屋を引き継ぎ、諸大名の蔵米販売を一手に引き受け、店頭には米市がたつようになった。この市がのちの堂島米市場へと発展していくのである。
 また、京橋一丁目にあった淀屋屋敷では、元和2年(1616)に青物市場が再興され、のちの天満青物市場へと発展し、同8年(1622)には个庵らを代表として開かれた葭島(あしじま)新地に靱(うつぼ)三町が形づくられ、その西には雑喉場(ざこば)魚市場が形成されたように、个庵は大坂三大市場の形成とその発展に多大な影響を与えたといわれている。
 しかし、宝永2年(1705)突如として闕所(けっしょ)処分とされ、淀屋は断絶した。その理由は、さまざま取り沙汰されるが判然とせず、橋名にその名だけが残ったのである。
 明治18年(1885)の大洪水によって流失、橋脚が鉄杭となった。さらに市電第3期線堺筋線の建設に伴い、明治44年(1911)に架け替えられた。大正11年(1922)から始まった第1次都市計画事業の一環として淀屋橋も架け替える対象となり、意匠設計の懸賞募集が行われた。この時の入選作が設計の原案として採用され、昭和10年(1935)われわれが見ている淀屋橋が完成した。こうした歴史的環境によって大阪市民はこの橋に特別な感情を抱いているのだろう。悲劇の豪商と市民の設計案は、浪花人の記憶に深く刻まれている。その橋上を日に7万人が渡り、6万台の車が通る。
(大阪くらしの今昔館 学芸員 明珍健二)

 

淀屋橋

 

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