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阿倍野の地名・町名の由来

2014年3月25日

ページ番号:1309

 阿倍野の歴史は弥生時代に始まったといわれ、「阿倍野」の地名の由来についてはいろいろの説があります。
古代にこの地を領有していた豪族阿倍氏の姓からとする説、「万葉集」の山部赤人(やまべのあかひと)の歌からとする説、古地名の「東生郡餘戸郷(ひがしなりぐんあまべごう)」の「餘戸(あまべ)」からとする説などがありますが、豪族「阿倍氏」説が最も有力とされています。
 「あべの」の文字については、古来より、「阿倍野」「安倍野」「阿部野」などが使われていましたが、昭和18年に、もとの住吉区から分区して、阿倍野区が誕生したとき、区役所の土地台帳が「阿倍野」の字を用いていたので「阿倍野」の字になりました。

1 高松(たかまつ)

 この地はかつて、東成郡天王寺村大字天王寺小字高松と呼ばれていた。住民たちに親しまれてきたこの名は、小学校名・連合町会名などに残っている。また、高松の名は、この地にあった三本松と呼ばれた松の大樹がゆかりだと言う人もいる。

2 天王寺町(てんのうじちょう)

 町名は、町域が昔の巨村であった東成郡天王寺村の一部であったことに由来するが、当町は最後まで残存した狭域の天王寺町に属し、四天王寺を包括する地域を占める村として天王寺村の名が古くから受け継がれていた。

3 河堀口(こぼれぐち)

 延暦7年(788年)当時の守護職であった和気清麻呂(わけのきよまろ)によって、今のJR寺田町駅の南方、猫間川の辺(此の地点を河掘口と云う。大正14年市に編入されるまで小字名として存続)から着工して、西へ庚申街道から茶臼山の南、河底池に達する洪水対策用の工事が行われました。この工事は未完のまま長く中断されていたが、徳川時代に大和川への転さく工事となって実を結んだ。工事のためこのあたりー帯は湿潤地帯となったが、ホタルの名所となり、シーズンには出店が並んで賑わった。現在、近鉄南大阪線の駅名にその名を残している。

4 源ケ橋(げんがばし)

 源ケ橋とは、摂津の国の古い橋の名であるが、その橋はすでになくなっている。しかし、天王寺町北3丁目には、市場などの施設の名前の中に、この古橋の遺名を取り入れて、昔を今によみがえらせている。源ケ橋という橋は、それぞれ時代は違うが、古来2つあって初代の橋は、延暦7年(788年)の和気清麻呂(わけのきよまろ)の治水工事のとき堀江に架けられたもので、2代目は、猫間川に架けられていたものである。ともに、河内・大和に達する幹線道路に通じる橋として、交通確保の役割をしていた。

5 三明町(さんめいちょう)

 町名は、町域が東成郡天王寺村の一部であったころ、小字名に三明・南三明があり、その小字がこの町域に当たることに由来する。また名高い古池の三明池が存在したことも由来する。

6 常盤(ときわ)

 明治の終りごろ生まれた私称の町名に常盤通があった。庚申街道の阿部寺遺跡のあたりを起点に西へ、阿倍野筋2に突き当たり、右折して北に進み、七道の辻を左折して電車道に出る道筋をさしていた。
 阿部寺の遺跡には、大正の中頃まではこの地に天にそびえる松の大木があり、この常緑の常盤木が名称の由来となったといわれている。第一勧業銀行の南側に古い石碑が建っているが、四面とも「常盤通」と刻まれ、正面だけ上部に小さくローマ字で常盤通の名と天王寺村の村名が刻まれている。現在、小学校名・連合町会名などにその名が残っている。

7 松崎町(まつざきちょう)

 町名は、天王寺村当時の字の名である一本松と、小字名の長者ケ崎の「崎」を合成して町名をつけたことに由来する。

8 美章園(びしょうえん)

 大阪鉄工所社長や大阪商船副社長であった大阪財界の山岡順太郎氏がその父である山岡美章氏の名をとり大正年間に設立した「美章土地株式会社」がこの付近の宅地の開発に努めて、発展の基礎を築いた。昭和5年に阪和電気鉄道(後に国鉄)が開通して「美章園駅」が設置され交通の利便が与えられた。のち昭和26年2月20日の町名の改正に当たり、天王寺町と桑津町の一部がこの会社の名をとり、新町名を「美章園1~3丁目」と名付けられた。

9 金塚(かなづか)

 昔この地区には相当な規模の古墳があり、発掘された時に金をちりばめた副葬品が出土したので「キンツカ」の名が生まれ、石棺の蓋が放置されていたので、石蓋の地名ができたものと推定される。その「キンツカ」が世間ではいつの間にやら「カナツカ」と呼ばれるようになり、金塚とは「大伴金村の塚」であろうとの説までも出るようになった。こうした金塚の地名も、大正14年この地域が大阪市に編入された時なくなってしまったが、昔の金塚の地に建てられていた第5小学校が「金塚小学校」と改名して残っていた。そこで、地区名設定の際、その校下であるところから「金塚地区」と名づけられた。

10 旭町(あさひまち)

 町名の由来は、上町台地の崖下に下がる谷筋の旧村道の通称名「あさひ通」に由来し、元三和銀行の南側に「旭通」と刻まれた古い石碑が建っている。この通りの起点が標高17m越す高台にあり、西の低地から眺めると、山の姿そのままで、そこから旭が照り輝いて来るというのでこうした名称を生むに至った。

11 文の里(ふみのさと)

 阿倍野区役所の所在地を含む東南方一帯の地に「文の里」という町名ができたのは、昭和26年2月20日であった。この町名は、南海平野線の駅名「文ノ里」に由来するものである。その駅名は、付近に桃山・明浄・天王寺・工芸高校など学校が多かったところから、「文ノ里」と名づけられた。

12 王子町(おうじちょう)

 王子町という町名は、旧村時代、大字阿部野にあった「王子町前」という字名にゆかりを持つもので、阿倍王子神社に由来していて、その場所は阿倍王子神社の敷地を含む神社の東方一帯の地点であった。天王寺村時代にも小字名に「王子前」があった。

13 阪南町(はんなんちょう)

 町名は、この地域の土地区画整理にあたった大阪市阪南土地区画整理組合の組合名に由来している。阪南は大阪市の南部地域を意味し、その区画整理地域の西半分を阪南町と名づけた。比較的新しく開発された町で道路は他の古い町に比べ、整然としている。

14 阿倍野筋(あべのすじ)

 町名は、阿倍野街道(熊野街道の一部)に沿う町筋であることと、旧天王寺村時代の大字の阿倍野の中央部を南北に通じる街区であることに由来するが、阿倍野そのものの地名起源には諸説がある。有力なのは孝元天皇の皇子大彦命を祖する阿倍氏という豪族が、この周辺地域に居住したとする説である。

15 共立通(きょうりつどおり)

 町名は、東成郡天王寺村の一部であった昔、小字名に経立(きょうだつ)・中経立・奥経立があり、その小字がこの町域に当たることに由来する。経立を「共立」の文字に改め、「きょうりつ」と読ませたものである。

16 丸山通(まるやまどおり)

 町名は、町域に丸山古墳とよばれた古墳が所在したことに由来するとともに、この町域の道路が早くから通称名として丸山通を名乗っていたことによる。

17 松虫通(まつむしどおり)

 町名は、謡曲「松虫」で知られる松虫塚が当町域に存在し、道路名の通称となっていたことに由来する。松虫中学校をはじめ、交差点名・上町線の駅名・バス停名などにも「松虫」の名が使われている。

18 昭和町(しょうわちょう)

 町名は、この地域の土地区画整理に当たった阪南土地区画整理組合の土地造成が、昭和4年に完成し、それを記念して年号の昭和を町名としたことに由来する。地下鉄が開通し駅名にもなった。

19 桃ヶ池町(ももがいけちょう)

 町名は、町域に古くから所在する古池の股(もも)ケ池に由来する。「股(もも)ケ池」の「股」の字を「桃」の字に変えて名付けられた。現在は、股ケ池の池の名も桃ケ池に変わっている。

20 長池町(ながいけちょう)

 町名は「長池」の池の名から名付けられたもので、長池はかなりの部分が埋め立てられ道路・花壇・運動場が作られて、現在池は南北の二つに分かれている。

21 西田辺町(にしたなべちょう)

 町名は、奈良時代の当地を田辺史(ふひと)の一族が管掌して、田辺郷と称されていたことによる。

22 晴明通(せいめいどおり)

 町名は、昔の天王寺村を市街地として開発したときからのこの町に付けられた通称で、安倍晴明を祀る安倍晴明神社が、この町と隣接する現在の阿倍野元町に所在していることに由来する。安倍晴明の伝説は広い範囲において受け継がれており、晴明公に由来して名付けられた。

23 相生通(あいおいどおり)

 この相生という地名は、天神の森方面の下町から東に延びる町並が、東から西に延びる町並とその中間の地帯、すなわち今の相生通1丁目8・9街区の境目の坂のあたりで相会することとなったので、その意味を取り入れて名付けたものであるが、この地名は昭和4年8月20日、この方面の町名改正にあたり正式の町名として採用され、今日に至っているのである。

24 橋本町(はしもとちょう)

 町名は、明治初年頃、与力であった橋本尚四郎・久五郎兄弟がこの地に移り住み、聖天坂の道路開発など付近-帯の開発に貢献したのを記念して、名付けられた。

25 姫松(ひめまつ)

 「古今集」の「我見ても 久しくなりぬ住吉の 岸の姫松 いく代経ぬらん」の古歌に由来して名付けられた。
現在は、阪堺電車上町線の駅名として残っている。

26 帝塚山(てづかやま)

 町名は、この町の南、住吉区帝塚山西3丁目にある"帝塚山古墳"の名に負うものであるが、この古墳は古墳時代(3~7世紀)に造られた前方後円式の古墳で、周濠の跡もあり、その平面積3379平方メートルに及ぶ堂々たるものである。昔は墳丘上、一面に芝草が生え、だれでも自由に遊歩することができた景勝地であったが、現在は周囲に柵が設けられたのと一般の人家が建並んだので、勝手に柵内に立ち入ることはもちろん、周辺から墳丘の姿をみることさえ困難となった。

27 播磨町(はりまちょう)

 町名は、王子町4丁目(旧王子町3丁目)に所在する播磨塚に由来したものである。なお、播磨塚は「摂陽群談」に「昔、播磨守に侍りける人の古墳なりと伝ふれども其証不祥」とあり、また播州の赤松貞範がこの地にて戦没した部下を埋め追悼した遺跡とも伝えられている。

28 万代(ばんだい)

 町名は、町の南にある万代池という古池の名に因むものである。この池は昔、農業用に造られたもので、面積5万3平方メートルにおよぶ大池で、現在は万代池公園の主体となっているが、池の中央に緑で包まれた小島を浮かべ、池の畔には老樹が繁って水面に影を落とすなど、美観を呈している。

29 北畠(きたばたけ)

 町名は、王子町の町域内の北畠公園に所在する大名塚を、江戸時代の国学者並川誠所が北畠顕家の墳墓と比定したことにより、当地周辺を顕家戦没ゆかりの地として顕彰し、この地に北畠の名を冠したことに由来する。

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