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010 今川のうるし堤

2023年11月8日

ページ番号:32779

 大坂では正徳5年(1715年)付けの城連寺村庄屋が堤奉行に宛てた文書の中に「堤上櫨樹多く・・・・」が見えるので、この頃には既に「今川のうるし堤」が存在していたことが分かります。大坂町奉行(大坂城代)土井大炊頭利位(トシツラ)(注){天保5~8年(1834年-1837年)}が漆産業育成と堤の補強をかねて、今川駒川、西除川の堤に漆を植えたものが、戦争中まで残っていたとの説もあります。

 特に第2次世界大戦前は現在の川原橋(南港通交差点)から杭全水門付近までの今川右岸堤は漆並木があり、奈良街道からは一望、秋には美しい紅葉を見せていたので、「うるし堤」の名称が区内一円に広がり、名所となっていました。
*大正10年測図、昭和4年修正測図の陸地測量部1万分の1地図のいわゆる今川堤には、南港通り交差点辺りから北へ漆堤公園辺りまで1.5kmに、濶(広)葉樹の並木の記号が記されています。

 しかし、第2次世界大戦末期には、極度の燃料不足から、樹液に触れるとカブレるリスクのある漆までも盗伐され、瞬く間に、今川堤の樹齢100年を超えると思われる漆の並木が、根っ子まで掘り出されて、家庭用燃料となり、瞬く間に我々の目前から姿を消しました。

 同じ頃、今六橋(現西今川4丁目)の欄干までも持ち去られ、田舎の土橋の状態になったことからも、戦時中の切羽詰まった燃料事情が推し量られます。今六橋の北70メートル付近の河川敷に植えられてある10数本の”うるし”は絶滅した往年の”うるし堤”の景観を偲(しの)び、少しでも復元しようと、戦前に堤の対岸の民家の庭に種子が飛んできて成長した”うるし”の木の種子を、戦後(昭和30年代)に蒔いたもので、いわゆる今川漆の孫に当たります。既に60年以上経ち、その間、何度も剪定・伐採が繰り返され、年数の割には大きくなっていませんが、現在その蘖(ヒコバエ)が延びてきて、秋には美しい紅葉を見せてくれています。毎年11月頃、ひとたび寒気が訪れると、紅葉のグラデーションが楽しめます。 
 長居公園の花と緑の情報センターで葉っぱを見ていただいた結果、この”うるし”は、櫨で有ることが判明しました。

うるしの木

 櫨(ハゼ)の木は漆と同じウルシ科に属します。しかし、樹液を漆器用の塗料として利用している漆とは異なり、種子から和ろうそくの原料を採取している樹木です。秋には漆も櫨も紅葉しますが、櫨の紅葉は漆の紅葉を凌ぐと云われています。程度の差があっても、”紅葉” ”かぶれる”の共通点から、一般には混同され、すべてが”うるし”と呼ばれ今川堤がうるし堤と云われて来たのではないかと思われます。


(注)土井大炊頭利位
幕末の大阪奉行であったが、漆事業の振興については、家康・秀忠・家光に仕えた土井大炊頭利勝(天正3年~寛永21年(1575年~1644年))が2代将軍・秀忠の時代に、全国的に漆事業を奨励した事績があるので、利勝と今川漆を結びつける説もあります。
正徳5年(1715年)付けの城連寺村庄屋に残る文書からみると、この説の方に辻褄が合いますが、どちらが正しいか不明確です。

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