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041 磯歯津路(しはつみち)

2023年11月6日

ページ番号:33859

長居公園通にほぼ沿っていた街道で、住吉区の浜口町付近に上陸した外国使節がこの街道を東進し、奈良に向かったものと考えられています。
日本書紀の雄略天皇紀に書かれている内容では、「雄略8年(464年)2月条に青(アオ)と博徳(ハカトコ)が呉国(注1)に出使し、雄略10年(466年)9月条に筑紫に帰国したが、雄略12年(468年)4月条に再度派遣され、雄略14年(470年)正月条に帰国し、呉の使いと共に機織の技術者を連れて住吉の津に上陸し、そこに泊った。この月に呉の来朝者のため道を造って磯歯津路を開通させて、これを呉坂(クレサカ)(注2)と名づけた。」と記載されています。
「しはつ」は磯果、磯歯津、四極等と万葉集にも出てくる地名です。

磯歯津路(しはつみち)

(注1)呉国(222年~280年)と雄略天皇紀
宋書の倭王武(雄略天皇)の上奏文、稲荷山鉄剣文字、古事記等の記録から、雄略天皇の在位期間は458年~489年と推定されるので、日本書紀の編者が雄略天皇の時期を約150年誤算して、宋の時代であるべきを呉の時代としています。
同様に、魏志倭人伝に登場する卑弥呼(?~248年)を神功皇后の時代(好太王碑391年前後)に当てていますので、やはり150年位の誤差があるようです。
崇神天皇の没年では、住吉神代紀により258年と証明されていますが、日本書紀はBC29年と記載されており、290年の誤差があります。
神武天皇が実在とすれば、約660年の誤差と言われていますので、日本書紀の年代を時期により、660年(神武)から0年(推古)の修正をして読み替えると、中国や韓国との史実と一致するとも考えられます。

(注2)呉坂 (通説は住吉区、東住吉区との説もある)
現在の長居公園通は、長吉長原から浜口町まではほぼ平坦な道路で、坂と見られる場所はありませんが、湯里住吉神社中臣須牟地神社の伝承を繋ぎ合わせると、西除天道川と長居公園通の交差点付近に天神山と呼ばれる小高い丘があったようです。
これが、磯歯津路の呉坂と呼ばれた由来ではないかとも考えられています。

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