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テキスト版 港区制100周年記念誌 ―このまちの歩みと未来― Minato Ward 100th Anniversary Commemorative Magazine

2026年3月1日

ページ番号:674299

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表紙

大阪市港区制100周年記念誌 このまちの歩みと未来

大阪市港区制100周年記念事業

1ページ及び2ページ

目次

はじめに

山口区長あいさつ………………1

上田会長あいさつ………………2

港区略年表………………………1,2

みなとの100年、みんなの物語

築港地域…………3

 港晴地域、八幡屋地域…………4

 池島地域、田中地域………………5

 三先地域、市岡地域………………6

 弁天地域、磯路地域………………7

 波除地域、南市岡地域……………8

みなとの足跡

 みなとを襲ったふたつの試練 戦災と風水害……………………9,10

 強く、しなやかに立ち上がる 復興と区画整理…………………11,12

 バトンをつなぎ、次の100年へ 未来を見据えたまちづくり……13,14

山口区長あいさつ

港区の歴史をつなぎ、次の100年へ

港区制100周年記念誌の発刊にあたり、区長としてこの歴史的な節目に関われますことを、大変光栄に思います。

過去を振り返りますと、港区は度重なる空襲や水害など幾多の困難を乗り越え、区民の皆様のご協力のもと力強く復興してまいりました。中でも土地区画整理事業に際しては、多くの土地を提供いただき、まちの価値が大きく向上しました。現在港区に広がるゆとりある街路や公園、防災インフラは、先人たちが「安全・安心で住みよいまち」を願い築き上げてきた、歴史の結晶です。区民の皆様の熱意とご尽力に、改めて深い敬意と感謝を申しあげます。

本記念誌では、現在11地域で活躍されている皆様へのインタビューに込められた「港区愛」や、まちの当事者としての「み(ん)なとマインド」をご紹介し、次世代へ受け継いでまいります。

2025年には大阪・関西万博が開催され、多くの区民の皆様が参画・交流し、港区の新たな可能性が大きく広がりました。万博のレガシーを継承し、港区が「未来と世界にひらくまち」として、笑顔があふれるまちであり続けることを、皆様と共に願っております。

未来を切り拓く次の世代、そして次の100年へ、バトンをつないでまいりましょう!

大阪市港区長 山口 照美

上田会長あいさつ

港区制100年に寄せて

港区制100周年記念誌の発刊にあたり、心からお喜び申し上げます。 海に面した港区は、古くから人と物が行き交う大阪の玄関口として賑わいをみせ、今に至ります。折しも区制100年の記念すべき年に海を挟んだ夢洲の地で大阪・関西万博が開かれ、天保山客船ターミナルやJR弁天町駅が装いを改め、さまざまな国・地域の方が港区との縁を持つなど、街に新たな魅力が加わったと実感しています。 繁栄の一方で、ここ港区は戦災や台風・高潮による甚大な被害を受け、長く厳しい復興の道を歩んでまいりました。この街の歴史や先人たちの労苦を忘れず次の世代に語り継いでいかなければという思いでいます。街の歴史を振り返り、街の今を刻んだこの記念誌が、皆様にとって港区により親しみを覚え、より深く港区を知るための一助となることを願ってやみません。 結びになりますが、次の100年も、ここ港区が「住みたい、住み続けたい街」であるよう地域に住まう皆様方と手を取り合い、共に素晴らしい地域を築きたいと願い、港区制100周年にあたってのお祝いの挨拶とさせていただきます。

大阪市港区 地域振興会会長 上田 哲夫

港区略年表(1ページ)

1925(大正14) 第2次市域拡張により港区発足。大阪市13区になる

 1932(昭和7) 分増区により大阪市15区になる

 1934(昭和9) 室戸台風による高潮により区内全域浸水し甚大な被害

 1941(昭和16) 太平洋戦争が起こる

1943(昭和18) 分増区により大阪市22区になる

 1945(昭和20) 大空襲により市内最大級の壊滅的被害

        終戦  

        枕崎台風による高潮被害

1946(昭和21) 港地区復興土地区画整理事業開始  大阪府水上消防署開設  (1948/昭和23年、大阪市に移管)

1948(昭和23) 土地区画整理事業にかかる盛土工事に着手

1950(昭和25) ジェーン台風による高潮により浸水し甚大な被害

1955(昭和30) 第3次市域拡張、6カ町村編入

1956(昭和31) 八幡屋公園で国際見本市開催

1958(昭和33) 天保山公園開園

1961(昭和36) 国鉄大阪環状線全線開通、弁天町駅開業

 第二室戸台風による高潮により浸水し甚大な被害  地下鉄4号線(現中央線)大阪港〜弁天町間開通  

1962(昭和37) 交通科学館(後に交通科学博物館)開館

1963(昭和38) 国道43号開通

1964(昭和39) 地下鉄4号線弁天町〜本町間開通  中央突堤のハーバーレーダー竣工(1990/平成2年撤去)

1965(昭和40) 安治川内港竣工  

        弁天埠頭完成、内航客船ターミナルを天保山桟橋から移転

1966(昭和41) 都市計画道路・築港深江線(中央大通)開通

1967(昭和42) 土地区画整理事業にかかる盛土工事完了

1968(昭和43) 港区全域で住居表示実施  港区内の市電全廃

1970(昭和45) 安治川水門・尻無川水門完成  日本万国博覧会開催(大阪万博)

1972(昭和47) 八幡屋交通公園の開園

1974(昭和49) 分増区により大阪市26区になる

        港大橋完成(阪神高速道路湾岸線の一部)

1975(昭和50) 第1回みなと区民まつり開催  

        港近隣センター開館

1981(昭和56) 港区民センター・港図書館開館

1985(昭和60) 国際見本市会場が南港へ移転

1988(昭和63) 港区の花を「ヒマワリ」「サクラ」に決定

1989(平成元) 阪神高速道路・大阪港線開通 

        合区により大阪市24区になる

1990(平成2) 海遊館・天保山マーケットプレース開業  

       国際花と緑の博覧会開催(花博)

1992(平成4) 港地区復興土地区画整理事業収束

1993(平成5) オーク200完成

1994(平成6) サントリーミュージアム開館  阪神高速道路・湾岸線全線開通  

       港区役所庁舎建替えのため仮庁舎(オーク200)へ移転

港区略年表(2ページ)

1995(平成7) 阪神・淡路大震災発生

1996(平成8) 大阪市中央体育館・大阪プール完成

  • 天保山が国土地理院発行地形図に(再)掲載

1997(平成9) 港区役所現庁舎竣工

  • 大阪港咲洲トンネル開通
  •  線(現中央線 大阪港コスモスクエア間)開通

2004(平成16) 臨港貨物線運行休止(2006(平成18)年度廃止)

2005(平成17) 2005年日本国際博覧会開催(愛・地球博)

2008(平成20) 港区のマスコットキャラクターみなりん誕生

区の花制定20周年を記念し、デザイン、名前ともに区民の皆様に決めていただきました

2010(平成22) サントリーミュージアム閉館 (平成22年度末に大阪市へ寄贈)

2011(平成23) 東日本大震災発生

2013(平成25) 「大阪文化館・天保山」開館 (旧サントリーミュージアム)

2014(平成26) 交通科学博物館閉館 みなトクモンの認定開始

2015(平成27) 弁天町駅前土地区画整理記念事業計画案の決定

2018(平成30) 大阪府北部地震発生

  • 大阪に台風21号直撃

2020(令和2) 新型コロナウイルス感染症蔓延

2024(令和6) 能登半島地震発生 港区土地区画整理記念・交流会館の開館       天保山客船ターミナルリニューアル

2025(令和7) JR弁天町駅新駅舎供用開始

  • 2025年日本国際博覧会開催(大阪・関西万博)
  • 港区制100周年、記念式典開催

3ページ

区制100周年記念 みなとの100年、みんなの物語 〜これまでも これからも この地域と~

港区には、地域ごとに紡がれたまちの物語があります。区制100周年を機に、地域の歩みや現在の取組み、港区の魅力や未来への想いを皆さんに伺いました。お一人おひとりの言葉から、港区の歴史や変わりゆく街の姿、そこに息づく暮らしや風景が生き生きと浮かび上がります。

このインタビューは、広報みなと 2025年7月号から12月号へも掲載しました。

(地図) 築港/港晴/田中/弁天/波除/磯路/市岡/南市岡/三先/池島/八幡屋

築港地域

19世紀末〜20世紀初頭の大阪港の拡張で誕生した築港地域は、戦前の海の玄関口として栄え、現在は海遊館や天保山と歴史的建造物が共存する街です。

港の賑わいと経済成長

戦争が終わる1年前に生まれた辰巳さんの幼い記憶に強く残っているのが、昭和25(1950)年のジェーン台風です。「疎開先から戻り、千舟橋近くの商店街に住んでいました。台風で水が迫っていると聞き、父に背負われて姉とともに近くの港湾局の建物に避難しました。すると進駐軍の兵士が現れ、3階まで運んでくれたんです。そのおかげで助かりました」。当時は2メートル近く浸水し、かかりつけの医師がいかだで診察に来たこともあったそうです。

戦前の築港地域は、大桟橋や市電、大潮湯などで賑わっていましたが、戦争で壊滅的な被害を受けました。「小さかったので覚えていませんが、復興は本当に大変だったと思います」と辰巳さん。それでも日本経済の復興とともに大阪港の貿易も成長し、港湾局や税関の宿舎があった築港は病院や学校などの生活インフラも整っていたといいます。

「港」は、時代の波を肌で感じられる場所

大学卒業後、辰巳さんは父の跡を継いでこの地で商売を始めますが、商店街での商いは世界情勢の影響を大きく受けたと言います。「同じ商店街の時計店でデジタル腕時計が300本売れたり、ロシア船の船員が絨毯をトラックいっぱい買って行ったり。アメリカと韓国が繊維交渉していた頃は、韓国船が来るとジャンバーが大量に売れました。港は、時代の波を直に感じる場所です」。昭和40年代は特に景気が良く、船が多すぎてバース(荷下ろしを行う停泊所)が足りず、沖合で荷下ろしを行うことも。昼夜問わず働く人が多く、パンやおにぎりの店が賑わい、船員向けの酒場も増えていきました。しかし港湾設備の限界などから徐々に船は減り、まちの活気も次第に失われていきました。

港の変化と地域のこれから

現在の築港エリアは、海遊館をはじめとするインバウンド向けの観光地として賑わいを見せています。そんな中で辰巳さんは、「商業地が栄えるのも良いことですが、地域を元気にするには、やはり住む人が増えることが大切」と話します。「終戦後の皆さんは、情熱を持ってまちを立て直そうとしていました。政治家も、住民の顔を見て、声を聞いてくれていた。今はグローバルな時代と言われますが、外に向くだけでなく、内側(地域)に目を向けることも必要ではないでしょうか」。

これからの築港については、「地域の人たちが自然と集まれる場所をつくりたい」と語り、港中学校と統合予定の築港中学校跡地を、地域のコミュニティセンターとして活用できたら──という思いも口にされていました。また、「コミュニティが別々になると、日本の中に“別の国”ができてしまう。同じコミュニティとしてつながることが大切だと思います」。今後増えていく外国人住民についても、共に暮らせるまちづくりの重要性を感じられていました。

辰巳圭作さん

昭和19(1944)年、吾妻町(現在の弁天地域)に生まれる。築港小学校卒業。東京の大学を卒業後、港商店街で食料品店を営み、船舶に食料品や日用品などの物資を提供するシップチャンドラー業務も行った。地域貢献活動にも力を入れ、今年3月末まで築港地区社会福祉協議会会長を務める。その他、地域活動協議会会長、地域振興会会長も歴任。

4ページ

港晴地域

安治川河口左岸の港晴地域は、もとは八幡屋新田の一部。盛土などの基盤整備で住宅地として整備され、港湾労働者の暮らしを支えてきました。

二度の大型台風を経験

畠中さんが疎開先の愛媛県から港区に戻ってきたのは、14~15歳の頃。戦後10年ほど経った昭和30年代のことでした。当時の住所は三条通一丁目一番地。「その頃は地盤が今より2~3メートル低くて、そこを市電が走っていました」と振り返ります。

高潮対策等のため区内では昭和23(1948)年から盛土の工事が始まりましたが、昭和36年(1961年)の第二室戸台風ではまだ工事が完了しておらず、市電の路線がまるで川のようになったそうです。「水がすごかったですね。埠頭まで海の様子を見に行ったら、岸壁すれすれまで海面が上がっていて。これはあかんと思って走って帰ったら波が追ってきて、ものの2~3分で畳が浮いて腰まで浸かりました」。

昭和25年(1950年)のジェーン台風は、祖母の葬儀のため港区に滞在していた際に遭遇。「水がなかなか引かず、ボートで移動していました。まだ子どもだったので、果物屋さんから流れてきたミカンやリンゴを拾ったのを覚えています」と、当時の記憶を語ります。

 

時代と共に変化した氷屋の商い

畠中さんの家は、祖父の代から続く氷屋。「母方の祖父ですが、厳しい人でした。娘婿だった父が跡を継ぎ、私が三代目。今は息子が四代目を継いでいます」。現在は氷以外にも燃料や包装資材なども幅広く扱っています。

電気冷蔵庫やクーラーがまだ普及していなかった当時、氷屋はとても忙しく、あちこちの家庭に氷を配達していたといいます。「家に風呂がありませんから、みんな銭湯に行くんです。その帰りに汗をひかせるため、かき氷を食べる。夏場は、夜11時ぐらいまでかき氷用の氷を運びました」。生活の中に氷が欠かせなかった時代、区内には30軒以上の氷屋があったとか。その縄張りを仕切っていたのが、畠中さんの祖父でした。「町の顔役というか、その頃はどこの町にもそうやって仕切る人がいたんですね。気の荒い連中も多い中、うまくまとめてやっていました」。

昭和45(1970)年に開催された万博では、日本館に氷を卸したこともあったそうです。しかし、電化製品の普及によって、氷屋の軒数は徐々に減少。ここ数年はコロナ禍の影響もあり、現在は畠中さんのところを含め、2~3軒を残すのみとなっています。

願いは、明るく住みよいまち

令和6(2024)年3月末まで、港晴連合振興町会会長を務めていた畠中さん。手が足りないから手伝ってほしいと言われて地域活動に関わったのが50代のことでした。「最初は名前だけでいいと言われたんですけどね。どんどん頼まれることが増えました」。それでも、これまでの経験を振り返って「周りがいい人ばかりで、みんな助けてくれました」と笑顔で語ります。最後に、これからの港区に期待することについて、お聞きしました。「私もいろいろな時代を経験してきましたが、無心でここまでやって来ました。どんな時代でも、その時代の波に乗っていくことかなと思います。

我々がああして欲しい、こうして欲しいというより、若い世代の人の考えがあると思います。今よりさらに明るく、住みよいまちになってくれたら嬉しいですね」。

畠中元さん

昭和15(1940)年、父の赴任先であった広島県の海軍官舎で生まれ、生後3ヵ月で母の実家がある大阪市港区へ。戦時中は愛媛県に疎開し、義務教育を終えて帰阪。祖父が創業した氷屋「中塚屋」を継ぎ、業界団体の副理事長を務める。地域では港晴連合振興町会会長を長く務め、現在も三津神社氏子総代会長として地元に貢献している。

八幡屋地域

港区南西部に位置する八幡屋地域は、江戸時代に八幡屋忠兵衛が開発した新田を起源とし、戦前は海運景気で栄え、港湾労働者の町としても知られました。

戦後の復興から始まった商店街

八幡屋商店街は戦後の復興市場から始まり、昭和24(1949)年に八幡屋市場へ再編されたのを機に発足しました。その頃に野田から引っ越してきたという角さんは、「商店街の中をトラックがバンバン走ってました」と当時を振り返ります。その後、盛土による地盤のかさ上げや区画整理による道路の拡張が行われましたが、商店街の姿はほぼ変わらず。伊藤さんが営む「光文具店」も同じ場所にあるといいます。

隣接する八幡屋市場、港中央市場も合わせて組織化し、昭和51(1976)年にはアーケードを設置。その頃は近隣にお店が少なく、商店街は大いに賑わったと言います。「あちこちから自転車で人が来て。お客さんがすごかったんですよ」と髙木さん。自転車を停める場所もなかったほどで、「大変でしたけど、今となれば懐かしいですね」と角さん。商店街にとって、とても良い時代でした。

赤い椅子がつなぐ、人と人

近年は、近隣に大型スーパーなどができた影響で客足は減少傾向に。角さんは「消費者の気持ちになったら、ワンストップで買い物できるスーパーが便利なのはわかります」と理解しつつも、商店街に賑わいを取り戻そうと努力を続けています。その取組みのひとつが、「八幡屋バル」や「八幡屋まつり」といったイベント。過去には「大阪ごちそうマラソン」という大ヒット企画も生まれました。

大規模なイベントだけでなく、日常的な工夫も行っています。店舗前に置かれた赤い椅子には、高齢者の方が座って話している姿が見受けられ、買い物途中に30分ほど話し込む人も。「ここには買い物だけでなく、人と話すことを楽しみに来られるんです」と伊藤さん。赤い椅子は、商店街が人と人をつなぐ場であることを象徴しています。

とはいえ、椅子が定着するまでには紆余曲折があり、「ベンチを置いたらそこで勝手に宴会されたり、大きな植木を置いたら犬のトイレになったり(笑)」。試行錯誤しながら、商店街の在り方を模索してきました。

変わりゆくまちと商店街のゆくえ

ここ数年の課題は“役員のなり手不足”。商店街内にもマンションが建てられて店舗数が減っている上、組合に入らない店舗もあると言います。「魅力ある組合を作らないといけないけど、なかなか…」と伊藤さん。それでも最近は新しい店舗が加入するなど、少し明るい兆しも見えています。

髙木さんが「八幡屋商店街の歴史は、港区の歴史そのもの」と言うように、戦後の復興から高度成長期の賑わい、そして高齢化やコロナ禍の影響を受けて変化してきた八幡屋商店街。その未来について、角さんは「僕は100年先はいないので(笑)。でも、日本の人口が減っている中で、どう国力を保つのか、そこは気になります」と話します。伊藤さんは「夢洲にIRができたら、従業員の住まいがこの辺りにできるのでは。そうなると、街自体が変わっていく気がします」と語り、髙木さんは「民泊も増えているので、国際化を進める上でルールをどう定めるかが大切です」と締めくくりました。

写真左から髙木博さん、角正基さん、伊藤雄二さん

5ページ

池島地域

池島地域は区画整理で住宅地が整備され、昭和46(1971)年にはモデル・コミュニティ地区に指定。大阪湾岸の住宅供給地として発展してきました。

始まりは、池島小学校PTA

松尾さんが地域活動に深く関わるようになったきっかけは、池島小学校のPTA組織の立ち上げでした。昭和50(1975)年、三先小学校と八幡屋小学校から池島地域の児童を収容するかたちで池島小学校が開校します。しかし、開校当初はPTA組織が存在していませんでした。三先小学校で実行委員を務めていた松尾さんは、PTAの立ち上げに力を注ぎます。「いろんな学校から資料を取り寄せて、会則を作るところから先生方と一緒に取り組みました。何もないところからのスタートだったので、本当に大変でしたね」。

それから時は流れ、池島小学校は今年で創立50周年。松尾さんも現在、記念事業の準備に追われています。しかし、少子化などの影響により池島小学校の児童数は減少しており、令和11(2029)年には八幡屋小学校、港晴小学校との統合が予定されています。「仕方のないことですが、やはり寂しさはありますね。歴代の先生方も皆さん本当にいい方ばかりで、思い出がたくさんあります」。

「何事もみんなで」が池島流

池島地域での大きなイベントは、毎年11月23日に催される「池島ふれあいまつり」。もともとは児童養護施設『海の子学園池島寮』の主催でしたが、「お手伝いをするうちに、これは地域を挙げて関わろうということになって、今では地域との共同で開催しています。ほかにも、グラウンドゴルフ大会や盆踊り、敬老大会など、一年を通じて地域住民が交流できる行事が池島にはたくさんあリます」と松尾さん。そして、どんな行事も「みんなで一丸になってやるのが池島らしさ」と言います。「何事につけても池島は、どこかの組織が勝手にやるのではなくて、みんなに声を掛ける。ネットワーク委員会や女性会など、いろいろな組織が集まって会議をして、一緒にやる。それだけつながりが密だということです」。

自身も、他の地域から来た人がすぐなじめるように、「誰にでも分け隔てなく、誰とでも仲良く」を心がけているという松尾さん。ただ、高齢化で地域活動に参加する人が減っていることを懸念しています。「子どもの数も減っていますし、市営住宅ももう少し若い世代の方が増えたらいいなというのが、池島の願いです。そうなればもっと地域も活性化すると思います」。

未来につなぐ地域のバトン

松尾さんは、女性の教養と地位向上をめざす大阪市地域女性団体協議会にも長年にわたり携わってきました。三先地域の女性団体協議会に参加していたことから、池島地域でも女性団体協議会を立ち上げ、自らは書記に就任。市の女性団体協議会でも会計監査を務めてきましたが、そちらは昨年3月で勇退し、これからは池島地域の未来について考えたいと言います。「池島の女性団体協議会は、これからも大切に存続させたいと思います。いろいろな行事には個人でも参加できますが、やはり声を掛け合える団体があったほうがいい。頼まれると断れない性分で、これまでたくさんの地域活動に長くかかわってきましたが、そろそろ誰かバトンを受け取ってくれる方がいるといいなと思います」。

松尾フサ子さん

昭和10(1935)年、現在の岡山県倉敷市(児島地域)生まれ。結婚を機に大阪市港区へ移り住む。港保育所の役員をきっかけに、池島小学校PTAの立ち上げなど、さまざまな地域活動に携わる。大阪市地域女性団体協議会に参加し、港区地域女性団体協議会では長年会長を務めた。現在も地域活動を続け、港中学校では学校協議会委員長として教育にも関わっている。

田中地域

田中地域は、低層住宅が中心の田中エリアとかつて商業としてにぎわった夕凪エリアで構成されます。地域名は、新田開発を手がけた田中又兵衛に由来しています。

災害の経験を教訓に、進化する地域防災

田中小学校のPTA会長をきっかけに、地域と関わるようになった穴吹さん。2015(平成27)年から昨年まで、地域防災リーダーの隊長を務めてきました。地域防災リーダーは阪神淡路大震災を契機に組織化されたものですが、穴吹さんの就任当時は東日本大震災を受けて、防災のあり方が見直されていた時期でした。避難所の開設訓練が本格的に始まり、津波を想定した垂直避難の必要性も、この頃から広く認識されるようになったといいます。

2018(平成30)年の大阪北部地震の後は、防災学習会への参加者が一時的に増加。2020(令和2)年以降はコロナ禍により、受付での検温や避難者の振り分けなど、避難所の運営にも対応が求められました。実際の災害や社会状況によって、変化してきた地域防災。穴吹さんは「建前の訓練ではなく、本当に災害が起きたときに、誰がどう動くかをより現実的に考える時期に来ているのでは」と考えています。

楽しく伝える防災、子どもたちにも関心を

その中で穴吹さんは、「いかに多くの人に防災意識を持ってもらうか」に心を砕いてきました。防災学習会の内容を見直し、防災リーダーによる寸劇を企画。津波が来た時に何を持ってどこへ逃げるかなどを、物語に盛り込んで上演しました。「5~10分の簡単なものですが、ちょっとでも関心を持ってもらえたら、と考えました。それに、僕ら防災リーダーが前向きに取り組む姿を見せることで、見る人の心にも届くのではないかと思います」。この寸劇は、区の防災アドバイザーの監修を受けながら、現在も継続されています。

今年6月には田中小学校体育館を会場に、子どもたちの防災意識を高めるためのクイズ形式の防災学習会を開催。楽しみながら学べる工夫が地域に根付いてきています。

 

未来に受け継ぎたい、つながりの力

田中地域は一戸建て住宅が多く、比較的子育て世代も多い地域。しかし、近年建てられるマンションの多くは単身者向けのワンルームで、ファミリー世代は減少傾向にあります。民泊の増加もあり、街の風景は少しずつ変わりつつあるのが現状です。

それでも、「みんな団結力が強くて、他の地域や区役所の方から、“田中はまとまっていますね”とよく言われるんですよ」と、穴吹さんは笑顔で語ります。若い世代に地域活動を引き継ぎたいという思いはありつつも、「現役世代は忙しいから」と理解もにじませます。それでも子ども会の若いお父さんたちが関わってくれることもあり、希望も感じているようです。自身も現役で働いていた頃から地域活動に携わってきた穴吹さんは、「日常的にコミュニケーションがあって、つながりのあるまち。私も活動を通じて、地域に居場所ができたと感じています」と振り返ります。

避難所機能を備えた地域拠点が理想

今年、港区は区制100周年を迎えました。穴吹さんは区制70周年のときに田中小学校のPTA会長を務めており、地域でおみこしを作って御堂筋パレードに出演したそうです。

それから30年、この節目の年にこれからの地域のあり方について伺うと「住む人が増えることで地域が活性化すると思うので、それが叶うような施設ができたらいいですね」と話します。そして、「できれば、避難所機能も備えた施設があったら一番いい。いざという時に避難できて、ふだんは地域のコミュニティの場にもなるような、そんな場所があるといいですね」と、地域の未来に向けた希望を語ってくれました。

穴吹正信さん

大阪市住之江区出身。結婚を機に妻の実家がある港区に転居。田中小学校のPTA会長をはじめ、地域振興会の広報や地域防災リーダーなどを歴任。保護司として18年、少年補導員として22年にわたって活動し、現役時代から仕事と地域活動を両立しながら長年にわたり地域に貢献している。

6ページ

三先地域

三先地域は、江戸時代の新田開発で発展したエリアで、名前は3本の水路に由来します。南側の福崎には物流倉庫や工場が集まり、港湾機能を担っています。

防災は“未来への準備”

今回集まってくださったのは、部会長の山岸恵津子さんをはじめ、三好博司さん、佐野順三さん、玉城昌秀さん、堀之内光晴さんの5名。部会は、青色パトロール隊・防災避難訓練部会+防災リーダー隊・環境美化等「まちづくり」に関する内容で11名の部会員で構成されています。

山岸さんは公園愛護会の活動から地域に関わるようになり、先輩に誘われて防災リーダーに。その後、約6年前から部会長を務めています。「私が部会長になった頃から、“女性にやさしい避難所づくり”が話題に。女性の部会長は珍しいですが、女性目線が活かせる部分も多いと思っています」と語ります。

部会では防災訓練や学習会などを実施していますが、コロナ禍以降は参加者の減少が課題となっています。一人でも多くの人に関心を持ってもらいたいと、昨年度は昼と夜の二部制で学習会を開催するなど、誰もが参加しやすくなるような工夫を凝らしました。

「私自身、防災リーダーになるまで、公園に防災用具があることも知りませんでした」と言う山岸さんですが、部会に参加してから考え方が大きく変わったそうで、「以前は防災って重たい印象でしたが、“未来への準備”だと教わってからは気持ちが軽くなりました。例えば、雨が降りそうなら傘を持つ──それぐらいの気持ちで自然に備えることが大切だと思います」と語ってくれました。

地域全体で取り組む防災防犯

山岸さんが「頼れる存在」として信頼を寄せるのが、町会長を務めてこられた佐野さん、三好さん、玉城さん。佐野さんと三好さんは青色防犯パトロールの活動に参加し、玉城さんも以前は同活動に参加していました。活動のきっかけを尋ねると、「頼まれて」と皆さん口を揃えます。「町会長を引き受けたら、いつの間にか防災や防犯の活動にも関わるようになっていて(笑)」と三好さん。佐野さんは「勤めていた頃は地域との関わりはなかったですからね。今では知り合いも増えて、近所での会話も自然にできるようになりました」と話します。

皆さんによると、「三先は住宅や団地、マンションが多い地域ですが、子どもの数は減少傾向」とのこと。大切な子どもたちの安全や地域交流に力を入れており、ハロウィンには『こども110番の家』や津波避難ビルを巡るイベントを開催。仮装やお菓子を楽しみながら、子どもたちの防犯意識を高める取り組みが行われています。

若い世代へ、想いと役割をつなぐ

ベテランと現役世代が協力して防災に取り組む三先地域。その中で、次世代の担い手として期待されているのが堀之内さんです。小中学校のPTAをきっかけに地域活動に関わり、「三先で楽しく子育てができたから、今度は自分が地域に恩返しをしたい」と防災リーダーに。「港区は海に近いので、津波を心配されることもありますが、だからこそ“安心して暮らせる街をつくりたい」との思いで防災士の資格も取得。「自分自身や家族を守る知識を身に着けることは、自助共助の上でも大切なこと」と語ります。

“明るい防災”で、安心できるまちへ

最後に、三先地域のこれからについて山岸さんに伺いました。「港区の中央には『Asueアリーナ大阪』という立派な施設があります。これを活用して、スポーツを通じた健康づくりや地域交流につなげられたらと考えています。ふれあいの輪が広がり、結果的に“安心安全なまちづくり”につながればうれしいですね」。体力づくりは、いざという時の備えにもつながります。「三先では“明るい防災”を合言葉に、前向きに取り組んでいきたいですね」。

写真左から三好博司さん、佐野順三さん、山岸恵津子さん、玉城昌秀さん、堀之内光晴さん

市岡地域

区役所や警察署がある市岡地域は、区の中心的なまちのひとつ。地名は、江戸時代に市岡与左衛門らが開発した「市岡新田」に由来するといわれています。

北海道から大阪へ、地域と歩んだ30年

藤田さんの出身は北海道。結婚を機に、大阪市港区に移り住みました。夫の祖母が婦人団体に参加していたことがきっかけで、いつの間にか地域活動に関わるようになったといいます。PTA、地域振興町会の女性部長、民生委員などを歴任し、活動歴は約30年に。そして昨年から、地域ネットワーク委員会の会長を務めています。さまざまな役割を担うことについて藤田さんは「やってくれへんか?と言われたら、はいよ!っていう感じなんです(笑)」と話します。「子どもの頃から人のお世話をするのが好きで。多分、性分なんだと思います」。

その言葉どおり、敬老の名簿を作る際は一軒ずつ訪ね歩いたり、台風の時は近所の一人住まいの方を自宅に避難させたり、民生委員の見守り対象の方を毎月訪ねたりと、地域の人々への気遣いがとても細やか。それも、特に意識をしているわけでも、義務感でもないと言います。「民生委員として、というより、普段のお付き合いの延長ですね」。

「楽しみながら一致団結」が市岡らしさ

そんな藤田さんについて、溝口さんは「誰よりも地域を想い、地域をよく知っている方」と評します。「困りごとのある方をいきなり訪ねても、話はしてもらえません。藤田さんは、少しずつ顔なじみになって、本音を話してもらえる関係性を地道に築いてこられたことが、本当にすごいと思います」と話します。

藤田さんを「頼りになるパートナー」と語るのは、30年の付き合いになるという横田会長。市岡地域は団結力が強く、みんなで力を合わせて地域を良くしていこうという気持ちがあると言います。けれども一方で、マンションが増えて町会への加入が減ったり、空き家や民泊が増えたりという課題も。若手が少なく、世代交代が進まないという状況もあると言います。それでも今年は6年ぶりに盆踊りを開催するなど、地域の人たちが顔を合わせ、つながれる機会を大切にしています。「冗談を言いながら、楽しく活動できるのが市岡のいいところ。これからもみんなに喜んでもらえることをやっていこうというのは、藤田さんともいつも話してますね」。

「ありがとう」と言われなくても

これからの活動について「まだ委員長になったばかりなので、安心してもらえるように努めていきたいですね」と藤田さん。長年にわたって地域活動に力を注いできた理由とやりがいを伺うと、「ありがとうと言ってもらえたらうれしいですが、たとえ言われなくても、自然とやってしまうんです。おせっかいな性分ですから」と笑います。

実際、13年間続ける子どもたちの登下校の見守りなど、日々の関わりも欠かしません。地域活動は、藤田さんにとって生きがいであり楽しみそのもの。誰もが安心して暮らせる、明るく元気な市岡を目指して、藤田さんや横田会長、溝口さんの取り組みはこれからも続いていきます。

写真左から藤田茂子さん、横田郁夫さん、溝口弘美さん

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弁天地域

弁天地域はJR大阪環状線と地下鉄中央線が交差し、幹線道路に面した利便性の高いエリア。大阪ベイタワーを中心に商業施設も集まり、区の玄関口としての顔を持ちます。

子どもたちのためにできることを

森田さんが主任児童委員になったのは12年前。末っ子が小学校を卒業するタイミングで民生委員を打診されたことをきっかけに、「子どもたちのために何かできることがあれば」との思いから主任児童委員に就任しました。

現在は、未就学児とその保護者を対象にした「子育てサロン」に加え、独自の取り組みとして地域の会館等で「こどもの居場所」を毎月開催。弁天小学校の児童やその兄弟を対象に、広い畳の部屋を開放しています。「15~16人が集まると、子どもたちの熱気で部屋が狭く感じます」と笑顔に。もう一人の主任児童委員によるバルーンアートも人気で、子どもたちにとって楽しい居場所となっています。

世代をこえてつながる地域の力

地域活動を続ける中で、森田さんの印象に残っている出来事があります。PTA役員を務めていた当時、夏休みに生涯学習で「子ども和太鼓教室」を開催。それから数年後、思いがけない再会がありました。「一昨年の盆踊りのときに、20歳くらいの男の子が声をかけてくれて。誰かと思ったら、その和太鼓教室に来ていた子だったんです。今は地域防災リーダーになっていると聞いて、びっくりしました」。

若い世代が、地域の仕事を引き受けてくれていることがうれしかったと森田さん。子どもたちと地域との関わりを作ることの大切さも感じたと言います。「どんな活動をしているのかを知ってもらうことや、地域の会館に行ったことがある、地域の人の顔を知っている、そんな小さな接点の積み重ねが、将来地域の一員として関わってくれるきっかけになると思います」。

 

「楽しい」から、若い世代も多く参加

地域活動に対して「抵抗はなく、むしろ楽しんでいる」と話す森田さん。弁天地域では40~50代も多く参加しています。「先輩の世代が皆さん優しくて。参加できないときは無理をせず、できる人でやろうと言ってくださるので、引き受ける側も気が楽なんです」。そのおかげで現役世代も参加しやすく、連合の親睦旅行も「みんな楽しく参加しています」とのこと。順調に世代交代が進んでいます。

一方で、心配しているのは、PTA活動の縮小傾向です。森田さん自身も、地域との関わりはPTA役員から。小学校でお祭りを企画した際には、当時の女性部長が豚汁やぜんざいをふるまい、行事を支えてくれたことが印象に残っているといいます。「PTAと地域のつながりがあったからこそ、自然と地域活動に関わる流れができていたんです」。しかし、コロナ禍で行事が中止・縮小されたことで、そうしたつながりが薄れてしまうのではないかという懸念も抱いています。

助け合いが生む信頼、にぎわうまちへ

生まれ育った弁天町への思いも、森田さんの活動の原動力。「昔は何かあると、すぐに近所の人が駆けつけてくれました。今は“迷惑をかけない”ことが重視されがちですが、ちょっとした助け合いは必要では。女性部長の活動で教わった“人に頼られるのはうれしいこと。遠慮しすぎると、その喜びを奪ってしまうかもしれない”という言葉が心に残っています」。

これからの港区については、「子どもたちが希望を持てる港区であってほしい」と願っています。弁天地域としては「もっといろいろなお店ができて、にぎやかになれば。中崎町や福島のように、人が集まる場所になる可能性が弁天にもあると思います」と期待を寄せています。

森田春美さん

大阪市港区出身。みなと幼稚園、弁天小学校、市岡中学校を卒業した生粋の港区民。弁天小学校のPTA役員をきっかけに地域活動に参加し、現在は主任児童委員として子どもや子育て支援に携わっている。「弁天会館老人憩いの家」月1回の子育てサロンと、毎月第4土曜に「こどもの居場所」を開催中。

磯路地域

港区の中央部に位置し、昭和初期には娯楽施設「市岡パラダイス」を中心に繁華街として賑わいました。地域の三社神社は“三社さん”として親しまれ、夏祭りには多くの人が訪れます。

義務ではなく、愛のある活動が大切

磯路地域のテーマは「愛があるまち」です。「この話になると、地域活動協議会の会長はすぐに『AIちゃいますよ、愛ですよ』と冗談を言うのですが、スタッフも義務感ではなく、真心を込めて活動することを大切にしています」と古島さんは笑顔で語ります。

その言葉どおり、まちの中心にある会館では子育てサロンやふれあい喫茶など、年齢や性別を問わず、誰でも参加できるイベントが開催されています。なかでも「いそじ~らんど」では、夏のスイカ割りや秋のハロウィンなど、季節を感じる創作活動やレクリエーションが毎月企画され、地域のこどもたちにとって大切な居場所となっています。「学校に通えていないお子さんや、見守りの対象となっているお子さんが参加してくださることも多く、本当に大切な場です」と武内さん。地域の飲食店や住民のシェフが得意料理をふるまう機会もあり、9月の「月餅づくり」も、そうした中から生まれたアイデアなのだとか。

「『簡単にできるメニューで、季節を楽しむ調理体験を』という話が出たとき、保護者の方が実はプロのシェフだと分かり、企画段階からスタッフに加わっていただきました」とのこと。小学校の先生が顔を出してくれることもあるそうで、地域の大切なつながりを育む場としても機能しています。

 

本当に必要な方へ支援を届けるために

磯路地域では、ひとり親家庭に対して食材を配布する事業も行っています。「最近は企業や団体が、それぞれの形で食材支援を行っています。『いそじ~らんど』の活動を通じて、食事の準備が難しいご家庭があることを感じていたので、地域としてお話をいただいた以上は、必要なご家庭にきちんと届ける仕組みにしたいと思いました」と古島さん。そこで、地域の全世帯に配布している「地域活動協議会通信」の紙面で「支援が必要なひとり親家庭の方はご連絡ください」と呼びかけたところ、25世帯・約70名から応募がありました。食材を渡す際には、困りごとや健康状態を丁寧に聞き取り、必要に応じて各種制度のご案内や、学校や社会福祉協議会、行政機関などとの連携も行っています。

「学校で会ったときに、味の感想を伝えてくれたり、『ありがとう!』と声をかけてくれるこどももいます」と武内さん。こどもたちの率直な言葉と顔の見える関係性は、安心して暮らせる地域の仕組みが根付いていることの証しです。

デジタル×アナログの二刀流

二次元コードを利用したオンライン申請や、Instagramによる情報発信など、先駆的な取り組みに力を入れている磯路地域。「きっかけはやはり、コロナの緊急事態宣言でした。集まることができない状況が続くなか、これまで地域活動を支えてくださっていた世代の方が次々と引退を表明されて……、それでも何かしたいと思い、会長にオンライン会議の提案をしました」と古島さん。「新しい生活様式」に合わせた活動を模索してきた数年間で、担い手の世代交代が進んだこともデジタル化への追い風となりました、と当時を振り返ります。

一方、地域活動協議会を設立した2013年から月1回の発行ペースを守り続けている「地域活動協議会通信」も、大切な発信ツールです。2025年11月で153号を数えるこの紙面では、前月の報告から今後の予定まで、地域の主な行事がひと目で分かり、多くの住民の方々が楽しみにされています。制作を担当している広報スタッフは「毎月本当に大変なんですよ」と言いながらも、魅力的な紙面を作り続けています。

最後に、磯路地域の未来についてお聞きすると、「誰もが住んでいて良かった、住み続けたいと思えるようなまちにしたい」「一人ひとりが自分の住むまちを愛し、大切にし続けることが未来につながると思っています」と、声を合わせて熱い思いを語ってくれました。

ボランティア経験も豊富で、地域活動協議会の書記を務める古島智枝子さん(右)。地域活動協議会やさしさ部会に所属し、見守りコーディネーターも務める武内律子さん(左)

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波除地域

港区北東部の波除地域は、工場から住宅への転換で人口が増え、波除小学校は区内最多の学級数となっています。地域名は、江戸時代に安治川の土砂で築かれた「波除山」が由来とされています。

港区で最初に誕生した子育てサロン「紙ふうせん」

港区内でいちばん初めに子育てサロンを立ち上げたのが、波除地域。平成12年(2000年)に「紙ふうせん」の名称で始まりました。当初は波除小学校の空き教室を会場にしており、原田さんは「在校生がのぞきに来てくれたり、クリスマスには校長先生がサンタクロースに扮してプレゼントを配ったり、学校との交流も盛んでした」と当時を振り返ります。その後、波除小学校の建て替えなどに伴い、会場を波除会館に移動。コロナ禍を経て、現在は予約制で実施しています。「今は共働きの家庭が多く、地域での子育てのつながりはごく短い時期に限られます。話せる相手や知り合いがいない方が子育てサロンに気軽に参加してもらえるよう、保健師さんや地域の方々の力も借りながら、口コミでも広げていけたらと考えています」と水野さん。子育てサロンが、親子ともに地域に安心して関われるきっかけになればと、水野さんたちは活動を続けています。

学校と連携し、子どもたちの安全と成長を見守る

お2人はサロン運営のほかにも、地域の子どもたちを支える活動にも積極的に関わっています。毎週水曜日の下校時に実施している見守り活動では、旗を持って横断歩道などに立ち、下校する子どもたちの安全を守ります。小さかった一年生がだんだん大きくなり、卒業する頃には自分たちを追い越すほど背が高くなっている―そんな子どもたちの成長を間近で感じられるのも、この活動の喜びのひとつ。月2回は、小学校での読み聞かせボランティアも実施しており、学校と連携しながら、子どもたちと定期的に触れ合う機会を設けています。子育てサロンに来ていた子が小学生になって見守りで再会することもあり、「紙ふうせんの人や!」と言われることもあるそうです。「小さい頃のほんの短い間なのに、覚えていてくれたことがうれしくて」と水野さんは笑顔に。原田さんも、「長く活動していると、子どもたちの成長を見守ることが日常の一部になります」と語ります。

「困ったときに思い出してもらえる存在でありたい」

原田さんが地域活動に関わるようになったのは、小学校のPTA活動がきっかけ。先輩に声をかけられ、「地域の役に立てるなら」と主任児童委員を引き受けました。一方、水野さんは、民生委員だった母の退任を機に主任児童委員を勧められたのが始まり。「原田さんと一緒なら心強いと思って」と就任を決意しました。

原田さんは民生委員として、行政や警察の方と連携しながら、子育て世帯や独居高齢者などの見守りも行っています。責任の重い役割ですが「私がやらなきゃ!と気負うのではなく、まわりのお力を借りながら、何か少しでもお役に立てればという気持ちでやらせてもらっています」と自然体で活動を続けています。

最近は外国にルーツを持つ子どもたちも多く、いかにコミュニケーションをとるかが課題に。それでも原田さんは「どこにルーツがある方でも、皆さんが安心して暮らせる街になればいいなと思います」と力強く語ります。水野さんは、「民生委員や児童委員が身近な相談相手として地域にいて、どんな小さなことでも気軽に相談できるということを、ぜひ皆さんに知っていただけたらうれしいです」と語ります。

地域の誰もが安心して暮らせる環境づくりへ。お2人は地域に寄り添い、身近な支えになれるようにと活動を続けています。

長く主任児童委員を務め、現在は民生委員として活動する原田由美子さん(左)と、主任児童委員として子育てサロン「紙ふうせん」の運営に関わる水野盟子さん(右)

南市岡地域

南市岡地域は西区境に位置し、尻無川沿いの瓦問屋街が特徴。大型マンションの増加で子育て世代が増え、地域活動協議会をNPO法人化するなど地域活動も活発です。

南市岡の地域活動の特徴

南市岡地域について、「ちょっと走れば校区外♪という歌があるほど狭いんです」と笑う宮﨑さん。地域がコンパクトなぶん、学校・PTA・女性会・こども会・民生委員など、さまざまな団体同士の連携が密で、協力しながらまちづくりを進めているのが南市岡の特徴です。

宮﨑さんはその連携の輪の中心で、地域活動協議会と『はぐくみネット』の広報の役割を担当しています。A3サイズの広報紙「かわらばん(はぐくみネット)」と「すき屋根ん通信(地域活動協議会)」を、10年以上にわたり毎月発行。「はぐくみネット」メンバーと協力し、情報収集から取材、撮影、デザインまでをすべてを自分達で行い、地域活動協議会の松井理事長も「地域のことに一番詳しいのが宮﨑さん」と太鼓判を押すほどです。

「はぐくみネット」では、トップアスリートを招いた体験授業など、ユニークな取り組みを展開。PTAや地域諸団体との共催で行う「ふれあい祭り」では、毎年恒例の焼き芋を出店しています。「焼き芋を始めた当初は、運動場を保護するための鉄板がなく、耐熱性に優れている瓦を敷いて「瓦焼き芋」として始めました。」と宮﨑さん。それも、瓦問屋が建ち並ぶ南市岡ならではのエピソードです。

 

「住みやすくて、やさしいまち」を目指して

また、地域活動協議会が令和元(2019)年に始めた『こども食堂』は、現在では子どもから高齢者までが集う『ふれあい食堂』に進化。地域の人たちが気軽に集える、大切な場になっています。提供メニューは、無理なく長く続けられるようカレーに固定。気兼ねなく利用できて、少しでもお母さんたちがラクできるようにという想いから実施しています。カレーは毎回約150食を準備。今年からは、こども会のメンバーも準備を手伝ってくれるようになり、協力の輪が広がっています。

PTA活動をきっかけに地域と関わり始め、約20年にわたって活動を続けている宮﨑さん。地域活動で大切にしているのは、「いろんな場に顔を出して、つながりをつくること。顔見知りになることで、自然と“行ってみようか”“手伝おうか”という関係性が生まれます」と語ります。業務も多く忙しい毎日ですが、それでも「広報紙を作るのも楽しいし、行事もやり終わったあとは達成感がありますね」と笑顔がこぼれます。

宮﨑さんが描く、理想の未来

宮﨑さんが思い描く地域の未来は、「住みやすくて、やさしいまち」。みんなが顔見知りで、お互いに声をかけ合える温かい地域を目指し、現在は認知症サポーター養成講座にも取り組んでいます。さらに、今後増えていく外国人住民についても、「地域の一員として同じ立場になれば、お互いにもっと暮らしやすくなると思います。南市岡は、そうしたことに対してわりとウェルカムな地域なんです」と語ってくれました。

宮﨑節子さん

大正区出身。結婚をきっかけに港区へ移り住み、PTAを通じて地域活動に関わり始める。現在は『はぐくみネット』や『南市岡地域活動協議会』の広報をはじめ、社会福祉協議会の見守りコーディネーターなど、多方面で地域に根ざした活動を続けている。

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みなとの足跡

港区のあゆみを3つのテーマに絞り、貴重な写真や歴史的資料をもとにその足跡を巡ります。過去・現在・未来、今日もまた新しい一歩が創られ、次の100年へとあゆみは続いていきます。

みなとを襲ったふたつの試練 戦争と風水害 1925年~

港区のなりたち

江戸時代中期、葦原だった港区の土地を田畑にする新田開発が行われました。新田には開発を行った町人の名前がつけられ、そのうち市岡、石田、田中、八幡屋、福崎は今も地名として残っています。1889年にこれらの新田は西成郡川南(かわなみ)村となりますが、同年に誕生した大阪市域には含まれていませんでした。その後、1897年の大阪市第1次市域拡張により西区の一部になり、大阪港(天保山)の工事が始まりました。

1903年完成の築港大さん橋(現在の中央突堤)

1903年大阪で初めての市電が走る。翌年には2階つき電車が登場

港区の誕生

1925年の第2次市域拡張により、大阪市は4区から13区となり、当時の西区や北区から分離し、港区が誕生します。大阪市の人口は当時の東京市を抜いて日本一となり、「大大阪」「東洋のマンチェスター」と呼ばれました。

 1923年完成の大阪市立運動場。同年に第6回極東選手権競技大会を開催。周辺には連棟住宅が並んでいる

 1925年に開業した市岡パラダイス。高さ33mの東洋一を誇る飛行塔をはじめ、さまざまな遊戯機械が設置された。中央部には直径55mの池があり十数匹のアシカが放たれた

 第1次市域拡張と第2次市域拡張【出典:大阪市政百年の歩み】

まちの発展と室戸台風

商工業の発展とともに、地下水のくみ上げによる地盤沈下が深刻化し、1935年から1944年の間に101㎝も土地が沈んだ記録があります。1934年の室戸台風では高潮が原因となり区内全域が浸水し、甚大な被害を受けました。

築港大さん橋の惨状

戦争との関わり

繁栄していた大阪港は戦争との関わりも深く、多くの軍事施設が設けられるとともに、大阪港から兵員を送り出す港としても利用されていました。

1931年 夕凪橋を凱旋行進する郷土の部隊

1939年 大日本帝国陸軍の連隊が、大阪築港で軍需品を陸揚げ

1945年集まった救援物資の山を、港区役所で整理する港区日婦支局挺身隊員たち

今も残る戦争の足跡

戦争の足跡は、戦後80年が経過した今も、区内の随所に見受けられます。

天保山公園の獣魂碑、築港南公園の台座だけが残った軍馬像、三津神社横の港区戦没者の碑

10ぺージ

区域の変遷と人口

  • 1925年 面積17.59平方キロメートル 港区人口約28万人(大正区・西区の一部含む)、大阪市人口約211万人
  • 1932年 面積9.32平方キロメートル 港区人口約26万人(大正区が分離)、大阪市人口約267万人
  • 1943年 面積7.86平方キロメートル 港区人口約27万人(西区部分が分離)、大阪市人口約289万人
  • 1945年 港区人口約8,600人(終戦) 、大阪市人口約110万人

被災区域が朱色で表されている【出展:大阪の戦災消失地域明細部】

空襲による壊滅的な被害、終戦へ

大阪港を擁する港区は、太平洋戦争において軍事上の拠点とされ、空襲の対象となり、1945年1月から8月の終戦までの間、計6回も空襲にあいました。区域の88.6%が焼野原となり、港区は大阪市で最大級の壊滅的な被害を受けました。

 1945年3月13日深夜から翌14日未明にかけて、大阪は最初の大空襲を受け焦土と化した。片付けが進み更地のようになった港区内の焼跡。左後方は六甲山の山並み、右後方に春日出発電所の「八本煙突」。左下は大阪みなと郵便局

 1945年6月1日朝の空襲により建築物が全て破壊され焼失した築港付近一帯

焦土を襲った枕崎台風

1945年終戦直後、焦土となっていた港区に枕崎台風が襲来。40日間高潮に悩まされ、人口は30分の1の約8,600人まで減少しました。

築港方面。ズボンを脱いだり、すそをたくし上げて歩く人たち

ジェーン台風による高潮被害

1950年ジェーン台風では、地盤沈下により防潮堤が機能せず、高潮被害を受け重軽傷者は12,000人を超えました。 

千舟橋付近の浸水の様子

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強く、しなやかに立ち上がる 復興と区画整理 1946年~

大阪市の復興は港から

大阪市は「大阪市の復興は港から」をスローガンに、大規模な復興計画を開始。住民の協力を得て戦後すぐに新たなまちづくりをスタートしました。

港地区復興土地区画整理事業

戦前の市街地は不規則で狭い道が多く、公園は不足していました。まちをそのまま復旧するのではなく、地権者の協力のもと土地の入れ替えにあわせて、使いやすい形の土地にするとともに、道路、公園、学校、その他の公共施設を適切に配置し、安全安心なまちづくりをつくることを目的としていました。また、事業区域一体が地盤沈下のため台風のたびに大きな高潮被害を受けていたことから、地盤を盛り土かさ上げすることで、水害から人命や家屋を守ることも目的としていました。

 港地区復興土地区画整理事業を1946年から実施、安治川の拡幅など大阪港の修築事業によって生じた土砂を使い、区域の約9割を約2m盛土した、世界でも類を見ない大規模は土地区画整理事業でした。

みなりん「盛土の高さは約2m!広さは甲子園球場172個分だよ!」

海抜ゼロメートル地帯、助かった地区

1950年のジェーン台風、1961年の第二室戸台風により、港区は全域が浸水し深刻な水害を受けましたが、盛り土した地区は被害を免れました。

大阪市風水害浸水被害図(床上浸水)【出典:ジェーン台風大阪市風水害概況】

みなりん「港区の西側部分に注目!」

 右側の盛土した地区は助かり、左の未完成地区は浸水した。1961年音羽町(現在に磯路地域の一部)

全面盛土方式による区画整理

築堤 ➡ 送砂 ➡ 自然乾燥 ➡ 整地 ➡ 道路築造 ➡ 建物 移転の順に、地盤のかさ上げと都市基盤の整備を進 めていきました。

 川底から掘り上げた浚渫土砂は、サンドパイプで送砂された。 川水まじりの浚渫土砂を、水と土砂に分離させ、一定期間乾燥 させた後、利用された。流れる際は大きな石も交じり非常に大 きな音を上げたそう

市立運動場前の盛土工事

八幡屋小学校2階建校舎の曳家工事

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大阪港修築事業

安治川・尻無川を拡幅し、大阪港を内港化して大型船舶の係留を可能とするもので、1948年から岸壁や埠頭が整備されました。それによって発生する大量の土砂が、盛土の地盤として利用されました。

1955年頃の安治川。左岸の陸地を帯状に掘削・浚渫、水面化し川幅を広げた

1965年に安治川内港の旅客船ターミナル・弁天埠頭が開業。弁天町駅から程近く便利な弁天埠頭は当時の四国・九州への旅の玄関口となり、急速に発展した

港区の骨格が形成

 1961年に地下鉄中央線 大阪港から弁天町が開通。1963年には幹線道路として南北に縦断する国道43号(尼崎平野線)、1966年には東西に横断する中央大通(築港深江線)が開通しました。

 1968年、交通網の発展とともに、市電築港線の築港一京阪東口間が最終運転。終電が到着した港区役所前で名残を惜しむ人たち

高潮対策事業

 盛土による地盤のかさ上げに加え、1970年には海から川をさかのぼる高潮をせき止める水門(安治川水門、尻無川水門)、防潮堤や防潮扉を整備しました。

水防団が防潮鉄扉開閉訓練を行っている様子

安治川水門。日本で最初にできたアーチ型の水門。高潮などの恐れがある際などには、上流側へ倒れる

港地区復興土地区画整理事業が収束

 1992年、戦後45年間をかけて行われた土地区画整理事業によって、港区は災害に強いまちに生まれ変わり、また八幡屋公園を含む26箇所の公園が整備され、安全・安心で快適なまちに変貌し、まちの価値も向上しました。

港区のまちづくりと区画整理のあゆみを見に行こう!

港区土地区画整理記念・ 交流会館4階港図書館横 の区画整理記念スペース展示パネル

港地区土地区画整理協議会 武智 虎義会長

港区は度重なる風水害や戦災の苦難を経験した歴史があります。困難な状況にありながらも、港区民は行政と協力し、土地区画整理事業により自らの土地を提供してまちをつくり、道路や公園を整備してまいりました。先人の方々の苦労の積み重ねにより、今の安全で安心な港区があります。 港区土地区画整理記念・交流会館は、土地区画整理事業の集大成となった港区のまちづくりの歴史を後世に伝えることを目的として建設された施設です。区民の皆様には、この施設でどんどんと交流し、活動していただきたいと思います。

 

発展する港区

海遊館、天保山ハーバービレッジ、大阪プール、中央体育館、ORC200など、国内屈指の大型施設が区内に誕生し、東部・中部・西部とエリアごとに特色のあるまちとなっていきました。

1990年 ・海遊館 ・天保山マーケットプレース ・天保山大観覧車(1997年)

1993年 ・ORC200(大阪ベイタワー)

1994年 ・サントリーミュージアム(大阪文化館・天保山)

1994年 ・阪神高速道路 湾岸線 全線開通

1996年 ・中央体育館・大阪プール完成

1997年 ・港区役所現庁舎竣工

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バトンをつなぎ、次の100年へ 未来を見据えたまちづくり 2008年~

地域活動協議会の設立

2012年以降各地域において続々と立ち上げが進められ、翌年には全11地域で地域活動協議会が誕生しました。地域活動の活性化と課題解決のため、これまで地域活動を担ってきた町会や、NPO、企業など多様な団体が協力して活動する、新しい仕組みとして生まれました。

 防災訓練

子ども見守り活動

盆踊り大会

港区の特色を活かしたまちづくり

港区自慢の7つのウリから生まれた「みなトクモン」、ものづくりの技術と伝統が受け継がれる「ものづくりのまち」、産官学+地域連携で子どもたちにキャリア教育や体験の機会を提供する「OSAKAみなと未来教育ネットワーク」など、港区ならではの取り組みを行っています。

 港区のとっておきの「いいもん」 みなトクモン

 こどもたちの将来の可能性を広げるワークショップ

港区土地区画整理記念・交流会館がオープン

港区では、戦災からの復興と高潮への対策を主な目的として、区域の約9割で約2mの盛土方式による「港地区復興土地区画整理事業」を実施しました。この大規模な事業を記念し、港区の「まちづくりのあゆみ」を伝える拠点、「出会いと交流が生まれる起点」、「災害時の防災拠点」として、港区民センター・港図書館・港区老人福祉センター・港区子ども・子育てプラザを集約した港区土地区画整理記念・交流会館が2024年4月にオープンしました。 世代を超えて人々が集い、交流・活動できるスペースを設け、ここに集うみなさんの「つながり」の輪がさらにまち全体に広がっていくような拠点をめざしています。

完成記念式典を開催

2024年3月に、地域団体の代表の皆さんやご来賓と横山市長の出席のもと、完成記念式典を開催しました。 午後には施設の一般内覧会も実施し、多くの方にご来場いただきました。

 市岡中学校・港南中学校・築港中学校吹奏楽部の記念合同演奏

天保山客船ターミナルリニューアルオープン

2024年5月に天保山客船ターミナルがリニューアルオープンしました。クルーズ客船の入港時に、検疫・出入国管理・税関等の出入国手続きや乗下船手続きを行う施設です。関西観光の玄関口、そして船旅の発着点としての役割を担っています。

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大阪・関西万博の開催を契機に

大阪・関西万博 158の国と地域、7つの国際機関が参加 2025年4月~10月の半年にわたり「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに開催され、国内外からの総来場者は2,900万人を超えました。

EXPO 2025

開催期間 2025年4月13日(日)~10月13日(月)

開催場所 大阪 夢洲(ゆめしま)

 公式キャラクター「ミャクミャク」と、会場のシンボル「大屋根リング」 賑わう会場の風景

世界へ向けて魅力を発信

大阪府内43市町村は、春・夏・秋の3期に分け、大阪ウィークを開催しました。港区は区内に拠点を持つ企業と連携し、秋の期間にEXPOアリーナでコスプレダンスパフォーマンスを披露し、「コスプレ」という多様性あふれる文化を通じて、港区の魅力を世界へ向けて発信しました。 また、区制100周年を迎えた9区が合同で、それぞれの区の歴史や魅力を伝える動画を制作し、PR活動を行いました。

 会場を沸かせたキレのあるダンス

 約16,000人収容できるアリーナで圧巻のパフォーマンスを披露

 弁天町の名前の由来であり、水と芸能の神様「弁財天」の衣装をまとった山口区長も出演

  EXPOメッセで記念動画を放映

バリアフリーを考慮したニシの玄関口へ

2025年3月、JR西日本弁天町駅の新駅舎が供用開始しました。Osaka Metroとの連絡通路も完成し、大阪・関西万博会場へのアクセスが向上しました。夢洲に直結する交通結節点として、海外パビリオンのスタッフが区内に滞在するなど、さらに国際色豊かになりました。万博期間中は駅前にイベントスペースとして「べんてんひろば」が開設、様々なイベントが実施され、港区・弁天町の認知度が向上しました。

 JR弁天町駅の新駅舎完成

 JRとOsaka Metroの連絡通路

区制100周年記念式典を開催

2025年4月の式典は、港区にゆかりのある著名人からのお祝いメッセージ、大阪税関・神戸税関合同音楽隊の記念演奏などにより、楽しく和やかなものとなりました。 夜には天保山大観覧車の協力により100周年をお祝いする特別なライトアップを実施しました。

わたしの未来、港区の未来

令和6年度に区内の小・中学生を対象に「わたしの未来・港区の未来」をテーマにイラストを募集。小・中学生のみなさんが描いた「未来」を表現したイラストと「現在」の港区内の名所等を親しみやすく明るく賑やかに表し、もと市岡商業高等学校の外周を彩りました。

裏表紙

地図で紹介した港区のスポット

サンタマリア、天保山渡船場、天保山大観覧車、天保山大橋、キャプテンライン、海遊館、 大阪文化館・天保山、ダイヤモンドポイント、赤レンガ倉庫、港住吉神社、港大橋、八幡屋公園、Asue大阪プール、Asueアリーナ大阪、三津神社、三先天満宮、港区役所、甚兵衛渡船場、安治川水門、大阪ベイタワー、港区土地区画整理記念・交流会館、三社神社、尻無川水門

次の100年へ

大阪港と共に発展し、戦災や自然災害など、幾多の困難を乗り越えてきた港区の100年の歴史は、まさに多くの人々の努力と、地域への深い愛情によって築き上げられたものです。大阪の海の玄関口として培ってきた歴史と文化、そして困難から「復興」を成し遂げたまちとしての力強い歩みを次の世代へとしっかりと伝え、新たな100年に向け、港区をさらに魅力あふれる「未来と世界にひらくまち」として共に発展させていきましょう。

主な参考文献

大阪築港100年上巻(大阪市港湾局・1997年)、港区誌(大阪市港区役所・1956年)、港区たんけん手帳(大阪市港区役所・2014年)、港区の戦後70年(大阪市港区役所・2016年)、港地区復興土地区画整理事業誌(大阪市建設局・1993年)

写真・資料提供(ページ掲載順)

港地区復興土地区画整理事業誌(P1:JR大阪環状線と地下鉄中央線の立体交差、P10:ジェーン台風により浸水した市電、P11:浚渫した土砂が噴き出されている様子、曳家工事の様子、P12:弁天埠頭)

大阪歴史博物館(P1:港大橋の架橋工事、P9:築港大さん橋の修状、P12:地下鉄中央線大阪港—弁天町開通)

朝日新聞社(P2・11:盛土前の突出したマンホール、P9:凱旋行進、軍需品陸揚げ、救援物資整理、P10:枕崎台風による被害)

大阪市立図書館デジタルアーカイブ(P9:築港大さん橋、大阪市立運動場)

大阪城天守閣蔵(P9:大阪市初の市電、市岡パラダイス正門)

大阪市公文書館(P9・10・11:出典記載分、P12:浚渫中の安治川内港)

大阪市立中央図書館(P10:区域の変遷と人口 大大阪最新地図 編入接続町村都市計画区域及路線明細、最新の港区 都市計画路線入、大大阪区勢地図、復興大阪市街地図 最新)

 

大阪市統計書(P10:区域の変遷と人口)

毎日新聞社(P10:1945年3月の空襲で焦土となった港区を市岡消防署の望楼から北西方向を望む、1945年6月の空襲による被害、P12:市電との別れを惜しむ人たち)

大阪市政策企画室(P11:盛土工事の様子)

大阪府西大阪治水事務所(P12:下流から見た安治川水門)

(公財)大阪観光局(P12:サントリーミュージアム、天保山大橋)

大阪港湾局(P12:天保山ハーバービレッジ、P13:天保山客船ターミナル)

大阪市経済戦略局(P12:中央体育館と大阪プール)

港区制100周年記念 バージョンのみなりん

港区にゆかりのある港や海、そして「つながりの輪」を現す浮き輪から、みなりんが顔を出しています。 浮き輪の色は、2025年の2つのメモリアルイヤー(区制100周年と大阪・関西万博)を表現しました。

大阪市港区制100周年記念誌 —このまちの歩みと未来— 

2026年3月 初版第1刷発行 

〈編集・発行〉大阪市港区役所 〒552-8510 大阪市港区市岡1丁目15番25号

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〒552-8510 大阪市港区市岡1丁目15番25号(港区役所6階)

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