第7回塩草地域
2024年11月1日
ページ番号:637910
座談会
地域の皆さんにお話を伺いました
戦前の塩草のまち
区長
樫原さんは浪速区の歴史にとても詳しく、塩草地区の社会福祉協議会の広報紙にも連載しておられたとお聞きしています。本日は塩草地域の歴史を中心に伺いたいと思います。
樫原さん
実は今日、貝殻を持ってきました。平成9年に塩草3丁目にマンションを建てたんですが、基礎工事に立ち会っていた時に、地下15メートルのところから出たものなんです。職人に作業を止めてもらって、水で洗って記念にとっておきました。少し小さめのハマグリですが、ここが昔、海だったことを証明しています。最近、この辺りではマンションがたくさん建っています。基礎工事をしているのを見ていたら、同じようなものがもっと出てくるんじゃないかと思います。
辻本(邦)さん
私の場合も地下35メートルほど掘ったんですが、半分は砂地でした。
幡地さん
昔は、四天王寺の近くまで波が寄せていて、四天王寺の塔が船上からの目印だったと聞きました。
樫原さん
今日は1843(天保14)年当時の浪速区付近の地図の写しを持ってきました。江戸中期で、12代将軍の徳川家慶の時代です。
地図には鼬(いたち)川が描かれています。木津川からずっと東に流れていますが、途中で切れています。でも明治11年に難波新川との連絡工事をしたそうで、その後の地図を見るとつながっています。
今の塩草2丁目の、幡地さんの家のそばにあるガソリンスタンドの横の道が鼬川の流れていたところです。
また、この地図の上のほうに「難波村田地」とあります。いわゆる田んぼですね。すでに灌漑用に木津川から水を引き入れて、田んぼを作っていたことがわかります。その東側に大きく空いているところがあります。これがネギ畑だったと言われています。つまり、塩草地域は一面、ネギ畑だったんですね。
1843(天保14)年当時の浪速区付近地図(浪速区史より)
ネギのことは父親が昔、よく「ナンバ」「ナンバ」と言っていました。蕎麦の「鴨ナンバ」という名前もそこから出ています。
私は昭和13年の生まれで、今の桜川2丁目の交差点の角に戦前は桜川国民学校がありました。桜川幼稚園が併設されており、そこを昭和18年に卒園しました。
桜川2丁目の交差点を南に下ると、「桜川キネマ」という映画館がありました。
また、芦原貯蓄銀行という銀行もありました。私は銀行の東側に建っていた家で生まれました。今は塩草3丁目になっていますが、当時は芦原町という住所でした。
その銀行は市電の電車道(今のあみだ池筋)に面していました。銀行の東側の通りは塩草では1番にぎやかな通りで、赤手拭のお稲荷さんに続いていました。
あべや薬局もそのにぎやかな通りにあり、あべや薬局のおばあさんにはよく可愛がってもらいました。当時、子どもは皆、この商店街の筋で遊んでいました。あべや薬局にも入っていって、おばあさんが調剤しているのをよく横で見ていました。
市電が走る電車道(現在のあみだ池筋)には、子どもは危ないから行くなとよく親から言われていました。
電車道を南に下ると芦原橋がありました。今、環状線の芦原橋駅を降りると、桜川寄りのところに自転車の駐輪場がありますが、ちょうどそこに橋があって、橋の下には鼬川が流れていました。
市電は東の方へまわって走っていました。西濱の停留所は戦後なくなって、勘助町、大国町、今宮、恵美須町、そして天王寺の方へと続いていました。
また、芦原橋のところから阪堺電車の発着駅があり、いわゆるチンチン電車が三宝まで走っていました。昭和19年に大阪市電に買収されました。私たちはその電車を「カエル電車」と呼んでいました。というのは、お客さんがほとんど乗っていないからです。だから、電車が駅に着いたら「カエルが乗ってきよる」と言っていました。
今、住之江の競艇場の前に英霊を祀る大阪護国神社がありますが、戦前、電車に乗ってその近くまで来たら、電車がスーッとスピードを緩めるんです。そして車掌が「護国神社に向かって脱帽!」「黙祷!」って叫ぶんです。皆、帽子を脱いで黙祷をしました。
今の環状線は戦前は臨港線といって、今宮駅から築港までを走っていました。貨物用の単線でした。あみだ池筋から、大砲や戦車を積んで走っていくのがよく見えました。無蓋車という屋根のない貨物にはたくさん、兵隊さんが載っていました。
「たかばし」と蒸気機関車
区長
1889(明治22)年には湊町駅(のちのJR難波駅)ができ、大阪鉄道(後に国鉄に吸収)が柏原までの区間を開通しました。
樫原さん
湊町駅から南へ伸びる線路の上に「たかばし」が東西に架かっていました。貨物駅をまたぐ歩道橋のようなものです。駅から今の塩草立葉小学校の第2グラウンドのあたりまで踏切が無かったので、皆、それを使っていました。いわゆる「ミナミ」に出る時もそうでした。
駅の北側の筋には材木屋がたくさんありました。道頓堀川から材木を湊町駅に引っ張り上げて、貨物で運ぶための選り分けをしていました。
当時の地図をみると2本の汽車の線しか描かれていませんが、実際には、道頓堀川から「たかばし」のその辺りまで線路がたくさんあって、機関車の向きをグルっとまわす操車場になっていました。昼の間に、ここで東京行きや名古屋行きなどの汽車を差し替え、入れ替えを行い、夜になるとその2本の線路を使って今宮駅まで貨物を運び、そこから今の環状線を通って臨港線に出るわけです。
私たちは「たかばし」の上から、蒸気機関車の先に係員が乗って、手に青色と赤色の旗を持って貨物の差し替え、入れ替えを行うのを見ていました。時々、汽車が私たちの真下を通るときにバー!!と汽笛を鳴らすんです。あまりにも音が大きくて、そのたびに飛び上がりました。
中川さん
戦後ですが、私らも小さい頃は「たかばし」の上から、汽車が煙を吐いて通るのをよく見ていました。汽車が煙を吐くと真っ黒な煙が出て、面白かったんです。弟や学校の友達とよく見に行きました。
辻本(邦)さん
汽車が真下を通って煙を吐き出すと、とても迫力がありました。
樫原さん
SLの大きな汽車でしたからね。
区長
服が汚れたりしないんですか。
中川さん
そりゃあ、煤まみれですよ(笑)。
区長
湊町駅は人の乗降はなかったんですか。
樫原さん
湊町駅の構内は貨物のための線路がたくさんありましたが、「たかばし」から先は線路は2本だけしかなく、昼間はもっぱら人を運ぶために使われていました。だいたい奈良行きが多かったです。
辻本(康)さん
昔は、1日に1本、湊町駅から「やまと」という東京行きの夜行列車が出ていました。夜の8時過ぎに湊町駅を出て、品川駅に朝の5時半ごろに着くんです。姉が結婚して、「やまと」に乗って東京に行くのに、みんなで見送りに行ったことも覚えています。それからも母親は毎週、東京に嫁いだ姉のところに行くのに「やまと」を利用していました。
区長
お母様は毎週、東京まで行かれてたんですか?
辻本(康)さん
はい。毎週、金曜日の夜に「やまと」に乗って行ってました。姉が嫁いでまだ間もないから、会いに行くというよりも、心配でのぞきに行ってたんですね(笑)。
神社と夏まつり
区長
先ほど赤手拭(あかてぬぐい)稲荷神社のお話が出ました。この神社は古くからあるそうですね。
幡地さん
徳川家康が伊賀越えをして逃げる際、大久保彦左衛門が連れて逃げて隠れたのが赤手拭稲荷神社で、そこで身を隠してから伊賀の方へ逃げたと聞きました。
樫原さん
徳川家康は、明智光秀が謀反を起こした時に京都にいて、京都から堺に逃げ、堺から船に乗って江戸に帰ったといいます。京都から堺まで逃げる途中で、この辺を通ったのかもしれませんね。
赤手拭稲荷神社は戦前、今の3倍くらいの大きさがありました。毎月、何日間か夜店が出て、とてもにぎやかでした。境内の中も、それから商店街のところも夜店が並んで出ていました。
明治29年生まれの親父がこどもの頃は、赤手拭のお稲荷さんから南にくだって、鼬川の土手伝いに歩いて今宮の戎神社によくお参りしたそうです。私が知っているのは3尺くらいの堤防ですが、120年くらい前は土手だったんですね。私が小さいころは夏になるとたくさんトンボが飛んでいました。それから、ザリガニがものすごく取れました。
小川さん
稲荷町は稲荷神輿を持っていて、今は普段、難波八阪神社に置いてありますが、昔は赤手拭稲荷神社に置いていました。
稲荷町の稲荷神輿:昭和39~40年頃の夏祭りの様子(神輿は難波八阪神社に置いている)<写真:田畑さん提供>
樫原さん
うちの芦原町(今は塩草3丁目)は布団太鼓を持っていました。
幡地さん
私は小田町でしたが、やはり小田町の神輿を持っていて、コカコーラの倉庫に預けていました。
樫原さん
祭りの時には各町の太鼓や神輿が御旅所に集まって出発しますが、芦原町は「あ」から始まるので、1番に出発していました。
塩草の偉人 司馬遼太郎
区長
戦前の暮らしやこのまちの様子などについて、もう少し教えてください。
樫原さん
その頃は、家の周りには小さな路地がたくさんありました。今の道路の間に2本くらい路地があって、その中に家が密集していたんですよ。そこには朝鮮半島から来た方もたくさん住んでいました。家の玄関の入口で洗濯をするときは、「たたき洗濯」といって台を置いて先が曲がったヘラのようなものでバアンバアンと叩いていました。母に聞くとそれは朝鮮の人の洗濯のやり方だと言っていました。また、日本人はこどもを背中に背負いますが、朝鮮の人は腰の位置に子どもを置いてさらしでグッと巻いて固定していました。母が「あれはいい、胸を圧迫しないから」とよく言ってました。それから、朝鮮の女性は頭に荷物を置いて歩いていましたね。とにかく塩草のあたりは朝鮮の方がたくさん住んでいました。
私の家は建具や襖(ふすま)、掛け軸などの商売をしていたので、電話がありました。戦前はいわゆる壁掛け型の電話機で、近所の人たちもよく使っていました。近所の人に電話がかかってくると、よく呼びに行かされました。電話をかけに来る人もいました。その場合はかけ終わったらすぐに交換手を呼び出して、今いくらだったかを聞いて電話賃を置いて帰っていました。
昔は電話は権利になっていて、権利を買わないと電話が買えませんでした、値段が高くて、ものすごく貴重品でした。電話屋という電話だけを売る店もありました。
それから塩草小学校の第2グラウンドの北側に福田薬局がありました。そこの息子が司馬遼太郎で、塩草小学校の卒業生だと聞いています。その後、大阪外国語学校蒙古学科に進学されたそうです。司馬さんは昔、産経新聞の記者をしていましたが、司馬さんが亡くなった後、産経新聞社が記事かなにかを書くために履歴を調べたところ、小学校の履歴が抜けていることに気づいて疑問に思い、いろいろと調べられたようです。幡地さんや私の所にも話を聞きに来られましたが、結局、よくわからなかったようです。
小川さん
今日は、上宮中学の時に書いた司馬さんの作文が見つかったという、2007(平成19)年7月28日に掲載された産経新聞の記事を持ってきました。「浪速区の自宅とみられる建物の物干し台から見た風景が、髙島屋、歌舞伎座などの施設名も挙げてつづられ」と書かれています。
辻本(邦)さん
作文の作者の「福田定一」というのが司馬さんの本名なんですね。
小川さん
作文の中に「稲荷小学校」のことは書かれていますね。
樫原さん
戦前、塩草地域には桜川国民学校、稲荷国民学校、塩草国民学校、芦原国民学校の4つの学校がありました。
区長
記事には浪速区で生まれたこと、父親が薬局を営んでいたことも書かれています。でも小学校のことは書かれていませんね。公式プロフィールにも書かれていないのでしょうね。
大きな被害をもたらした戦災と台風
区長
では次に、戦争中のことをお聞きしたいと思います。
樫原さん
親父に聞いた話では戦時中、湊町駅の操車場の中にオーストリア人の捕虜が多くいたそうです。
昭和20年3月13日の大空襲の1週間ほど前に、B29から「3月13日ごろに浪速区一帯で大空襲をするので避難しろ」という内容のビラが撒かれたそうです。それが今の浪速地域から西成の方に風で流れていきました。ビラは憲兵と巡査の命令ですべて回収され、ビラを拾って読んだ人もそのことを信じませんでした。ところが、捕虜を管理していた監督か誰かわかりませんが、ビラを信じて捕虜を生駒へ避難させたので、捕虜は1人も死ななかったそうです。
幡地さん
その話は私も聞いたことがあります。あの湊町駅の貨物のところにいた捕虜が、大阪大空襲の前に全員いなくなったそうです。
樫原さん
全員疎開させたんですね。親父が「疎開させた日本人は偉い」と言っていました。でもその話を、昔のことをよく知る人にしても「知らない」と言われました。この逸話は、終戦後、塩草地域近辺に早くに帰ってきた人たちが集まった時の話ですが、まんざら嘘ではないと思っています。そのビラが残っていたら貴重な証言ですが、その時はビラを持っていたら警察にひっぱられるので皆、差し出したと思います。もし今、そのビラを誰かが隠し持っていたら・・・
辻本(康)さん
鑑定団に出したら、面白いですね。
区長
では、樫原さんご自身の戦争体験について教えてください。
樫原さん
昭和20年3月13日深夜の大空襲の時、私は塩草国民学校1年い組でした。私と同世代の人はほとんど疎開していましたが、私の家は親も祖父母も皆、大阪の出身なので田舎がないもんですから、ここでモロに戦災に遭いました。遠いところから見たら、大阪の人はほとんど焼死したのではないかと思うくらい、大阪の空は戦火で真っ赤だったらしいです。
大空襲の時、環状線の下に逃げました。それまでに親父が晩御飯の時に「もし戦災にあって家族がバラバラになったらガード下に集まろう」とよく言っていました。いよいよその時が来るという時に、私は祖母と一緒に先に逃げました。ちょっと遅れて両親が逃げて来たんですが、ちょうどその時に、今の東洋紙業に芦原国民学校があって、木造の校舎に焼夷弾が落ち、ものすごく綺麗に燃えるのを見ていました。ゴオーッと音がしたんですが、それは教室にある椅子と机が、教室の床が抜けて落ちる音でした。そうしたら火の粉がパアーと上がってね。見ている間にザーッと校舎が落ちていきました。すごいなと思いました。
明け方になったら、シトシトと雨が降り出してね。あとで聞くと、あれだけ大きな火事になると、上空に雲ができるらしいです。それが水に冷やされて一時的に雨が降るんです。それで翌日はずっと雨でした。煙たくて目をこすると、そこだけ真っ黒になって顔がタヌキみたいになりました。
そのうちどこから聞いてきたのか、塩草国民学校で食料配達をしているというので、母と2人で食料をもらいに行きました。学校の給食室のところでした。黄色いお香香(大根の漬物、たくあんのこと)を1本もらいました。
道端には焼死体が並んでいました。ムシロを被せていました。手や足が出ていて、それに雨が降って、子ども心に「地獄やな」と思いました。
塩草小学校の運動場にも死体が並べてありました。母が「あれを見て。うつむいて死んでいるのはみんな女の人やねん。横を向いたり仰向けなのは男の人やねん。女は本能的に子どもを庇うからうつむいて死ぬねん。」そう教えてくれました。なるほどなと思いました。
その近くに第1食料営団の倉庫があって、空襲ではそこにも火が入りました。その噂が広がって、両親が行きました。そうすると、缶詰に火が入ってポンポンとはぜていたそうです。はぜていない缶詰を男の人が持ち出してきて、箱を開けて缶をバラけさせるそうです。そうしないと憲兵が箱ごとは持っていかせてくれませんので。それで、缶をバラけさせて、それをみんなで拾うんですが、缶詰に入った火で缶が爆発して、みんなが帰ってきた時、頭から缶詰の中身をいっぱいかぶって、幽霊みたいな恰好でした(笑)。
それから2晩、野宿をしました。明けても暮れても食事はシャケの缶詰ばかりです。もう見るのも嫌でした。その後、両親と祖母と一緒に親戚のいる福島区まで歩いて逃げたんですが、途中、江戸堀川に住友倉庫がありました。その倉庫から真っ黒なコールタールのようなものが流れて固まっていて、皆、それを叩いて拾っていました。父がそれは何かと聞いたら、砂糖でした。砂糖に火が入ったら、コールタールのように溶けてくるんですね。皆と同じように叩き割って口に入れると、すごく苦いんです。でもちょっとだけ食べると甘いんです。それを袋に入れて持って帰って、水に溶かして飲みました。
区長
辻本さんは、お母様の戦争体験のことをよくご存じだとか。
辻本(邦)さん
私の母は88歳で亡くなりましたが、戦後50年にあたる平成7年に、3月13日付で「私の子どもたちへ」という手紙を書きました。空襲の夜のことを綴ったものです。少し読ませていただきます。
「思い起こせば3月13日、早くも50年になります。早いものですね。あの晩、家から出て、南の方、北の方を見れば、火の海、本当にぞっとしましたね。今思い出しても怖かったです。13日の夜中、さあ、どちらを向いて逃げたらよいのかわからず、何度も家で話したように、阿倍野の墓やと思い、東へ向いて歩きかけました。子ども3人、1人背負い、としえもまだ5歳でした。」
この一人背負い、というのは2歳の私のことです。
「後ろからも前からも焼夷弾が落ち、そのたびに頭を5つ揃えて、地べたにしゃがんでましたね。子ども1人ひとりに小さな小布団を乗せて、頭には防空頭巾で、火花が飛んでくるのを見ながら、持ってる非常袋を何度も捨てようと思いました。子どもたち、私のそばから絶対に離れるなよ。死ぬ時は、皆、一緒だよと何度も何度も言い返したおかげで、皆よく私から離れずに、ひろしも11歳で1番大きかったので、弟や妹の面倒をよく見てやってくれました。やれやれ墓に着いたのは朝方でした。墓の上から見ると、わたしたちの家は、どこにあったのかわかりません。すっかり焼けてしまって何もありません。なみだ、なみだで、どうして子どもたちを大きくするのかと、子どもの姿を見てかわいそうでなりませんでした。
けれども、おかげさまで子どもたちは皆、達者でそれぞれの仕事に就いて、一人前に育ってくれましたので、また世間様からは、ええ子持ちやなと言われて、そのたびによく育ってくれたと感謝しています。これも主人のおかげだとずっと思っております。」
区長
空襲では多くの方が亡くなり、家を失いました。浪速区は区域の約93%が焼け、人口も空襲前の4%にまで減少しました。これは当時の大阪市22区の中で一番激しい減少でした。
また、戦後のジェーン台風でも、大きな被害がありました。
樫原さん
その頃は、ジェーン台風とかキティ台風とか、台風は皆女性の名前がつけられていました。ジェーン台風は私が浪速西中学校2年生の、昭和25年9月3日にやってきました。日曜日でした。昼ごろに風がだんだん強くなってきました。当時はほとんどの家の屋根はトントン屋根という、瓦のない、杉の木の皮でつくった屋根でした。風がきつくなってきたと思ったら、バアーッと屋根が飛ぶんです。私の家は瓦の屋根でしたので、近所の人が30人くらい逃げてきました。風がおさまるまで、私の家族は家の奥に入って、逃げてきた人たちは家の入口のほうに入って避難していました。
その当時、今の難波中学校のグラウンドに木造の市営住宅が建っていましてね。2戸で1軒の住宅が将棋盤のようにきれいに並んでいたのですが、それが一瞬にして全部吹っ飛んでしまいました。その翌日か翌々日の新聞に「浪速区全滅」という見出しで、塩草小学校の屋上から撮った、その市営住宅が一瞬にしてなくなった写真が大きく掲載されました。
木津川から越えた水が私の家まで来ましたし、赤手拭のお稲荷さんの辺りにも膝の高さぐらいまで水が来ていると聞き、それで長靴を履いて様子を見に行きました。私の10メートルほど先を男の人が歩いていたんですが、急にその姿が見えなくなりました。あれっ?と思ったら、その人がボコッと浮き上がってきました。その当時、マンホールの蓋は木でできていました。鉄だと拾い屋が持って行ってしまうのでね。そのマンホールの蓋が浮いて開いていたわけです。それで、そこにズボッとはまって一瞬、見えなくなったんですね。びっくりしました。その後、近所の人が危ないからと言って、竹の棒に赤い布を結んだものを、そういう場所に差して回っていました。
その当時は水洗ではなかったので、水が引いた後、汚物や犬猫の死骸でものすごく臭かったです。
それから友達に誘われて大正区の方も見に行きました。大浪橋を越したところの大正区は、1階の軒まで全部水に浸かって、家の2階から出入りしていました。大正区ではその後、10年ほどかけて地上げをしましたが、道路の真ん中にマンホールがつくられて、それがちょうど竹の子が生えたようになっていました。
「全壊したナンバ元町市営住宅(浪速区塩草町)瓦屋根は勤労宿泊所」(大阪市立図書館デジタルアーカイブより)
区長
戦後、浪速区でも戦災復興の土地区画整理事業を行いました。皆さんの努力で復興と発展が遂げられました。塩草地域もずいぶん変わったと思いますが、そのことは後ほど伺いたいと思います。
小川さんは戦後生まれで、長く塩草地域に住んでおられるとのことですが、子どもの頃の思い出はなにかありますか。
小川さん
私はこの塩草で生まれて73年になります。さきほどの湊町駅近くの「たかばし」の横に以前、バラックの市営住宅のようなものがあって、そこに馬が2、3頭いたことを覚えています。
また、もう60年くらい前のことになりますが、「ロバのパン屋」がありました。馬車で「ロバのパン屋はチンカラホ~イ」という音楽を流して、パンを売りにまわってくるんですが、それが来るのがとても楽しみでした。
別に高級なパンではなく、アンパンとか蒸しパンなんですけど、昔は今と違ってパンを食べる機会はなかなかありませんでしたからね。
樫原さん
戦争に負けて、アメリカから進駐軍がやってくると同時に、一等粉、いわゆる純小麦も入ってきました。それで作るパンは真っ白なんです。初めてそのパンを見た時に、なんとこのパンは真っ白なのかと思いました。それまでは麦を曳いた糠(ぬか)とメリケン粉を混ぜて作ったパンしか見たことがなく、味もパサパサでした。でも一等粉のパンは真っ白で、食べてみるとものすごく美味しかったことを覚えています。昭和23、4年くらいまでは、パン屋にその一等粉を持って行かなければパンをもらえませんでした。
戦時中の話に戻りますが、家でパン、というかパンに似たものをつくって食べていました。イースト菌も何もないので、水とメリケン粉でつくります。木の弁当箱でね、両方にブリキの板をはさんで、電灯から電気をとってきて、メリケン粉を水で練って弁当箱に流し込んで、さつまいもなんかを賽の目に切って入れて、スイッチを入れるんです。そうしたらだんだんと生地が固まってきます。出来上がりはパンというか、お好み焼きの具のないようなものです。でも、停電になる時があって、そうなると半煮えのベチャベチャです。母親がそれを茶碗に入れて出してくれるんですが、何を食べているかわかりません。よく作っている最中に停電になったのを覚えています。
今後の地域に寄せる思い
区長
では、ここからは、戦後のこのまちの変化についてお尋ねしたいと思います。
幡地さん
昔は、八百屋や魚屋や本屋などの小さなお店がたくさんあって、そういうお店の人たちが子どもたちに「おい、早く学校に行けよ」とか「早よ帰りや」といって声かけや見守りをしていました。そういう店がなくなって、どんどんマンションが増えてきました。
辻本(邦)さん
私が平成12年に塩草に引っ越して来た頃は、染物工場や鉄工所など、いろんな工場がまだありましたが、それもなくなりましたね。
樫原さん
よそから浪速区に来た人が1番感心するのは、道路が広いことです。戦前は今の道路の半分でした。火災があっても、まず類焼は免れます。始めは、なんのためにこんなに道路を広くするのかと思いましたが、今、思えば道路が広いというのは、建築するにせよ何をするにせよ、とても便利がいいんです。他の人に迷惑をかけることも少なくなります。
ただ、もう一つ言えることは、区画整理のあと、小売業がなくなりました。以前は道路が狭かったから、小売業の店がたくさん並んでいましたが、道路が広くなったがために、そういう小商いをしている小売業が淘汰されていきました。
それでも高い建物も建てられるようになりましたし、区画整理をしたことはやはり正解だったと思います。
区長
いろいろとお話を聞かせていただき、ありがとうございました。最後に、皆さまにとって塩草地域とはどのようなところでしょうか。また、これからどんな塩草地域にしていきたいでしょうか。おひとりずつお聞きしたいと思います。
樫原さん
私は86歳になります。戦後1年余りの間、この地域を離れましたが、それ以外の85年間、浪速区に住んでいますので、とても愛着があります。でもだんだんマンションが多くなって、近所の交流が少なくなっています。私の町会の班も2世帯です。班や町会をもっと統合していかないと町会の運営が難しくなるのではないかと思っています。
区長
何か、思い切った見直しが必要かもしれませんね。
樫原さん
そうですね。道路が広くなったことをまちの発展に使っていくべきだと思います。
幡地さん
やはり活気のあるまちになってほしいですね。子どもたちには元気に育ってほしいし、お年寄りも元気であってほしい。イベントがあればぜひ参加してほしいと思います。
中川さん
伝統のよいところは大事にしていきたいと思います。難波八阪神社は獅子舞台があってSNS映えがするからなんでしょうけれど、今、日本の神社の中で人気ベスト4だそうです。神社の夏祭りでみんなで神輿を引っ張ったことは子どもの頃の楽しい思い出ですし、新しくマンションに引っ越して来た若い人が、今年それを経験して「感動しました」とおっしゃっていました。その言葉を聞いて、伝統のよいところは引き継いでいかないと、と強く感じました。よいことは継承しながら、もっともっと良くなってほしいと思います。
今は、小川さんをはじめ、皆さんが一生懸命、地域の活動をされています。学校も地域も良いメンバーがそろっています。まあ、もう少し若い人が入ってくれるといいんですが、皆、一生懸命やっておられます。その気持ちを引き継いでくれる人が育って、絶対によい塩草になってくれると確信しています。これからもがんばって盛り上げていただけたらと思います。
辻本(康)さん
私はほかの地域の食事サービスや喫茶などの活動に行かせてもらっているんですが、塩草地域のお年寄りは年齢層が少し高いと感じています。だから、盆踊りをしようとしても参加できるお年寄りがいないんです。だから、もう少し若いお年寄りをお誘いして、参加を増やしていきたいと思います。
辻本(邦)さん
塩草立葉小学校は今、児童の数が528人で、浪速区で1番人数の多い学校です。でも、学校から家に帰ってきている時間帯に、子どもたちの姿を外で全く見かけません。自分が小さい頃は、学校から帰って来たらカバンをそこらに放って、遊んで回っていましたが、今の子どもたちは全然外にいないんです。
そんな子どもたちの憩いの場、遊べる場所が欲しいと感じています。学年が違っても一緒に遊んで育っていく。そんな地域にしたいです。
中川さん
私たちが小さい頃は池があったり、トンボを取りに行ったり、「たかばし」に上がりに行ったりしましたが、今はそういう遊び場がなくなりましたね。
樫原さん
昔は地蔵盆がありました。各町会にお地蔵さんがあって、8月24日と25日は道路を封鎖して、みんな踊って、後で駄賃をもらいましたが、それがなくなってしまいました。
それから、昔は家で葬式をしました。私が町会長をしていた時は20回~25回くらい葬儀委員長をやりました。普段、近所づきあいがなくても、誰かが亡くなった時は近所がみんな手伝います。手伝ってもらったら、次に近所で葬式が出るときは自分が手伝わないといけないと思います。葬式が近隣の輪だったんです。そういうことが今はもう、なくなってしまいました。それが近所のつきあいを疎遠にしていると思います。
小川さん
皆さんが言われたように、塩草地域はマンション、特にワンルームのマンションが多いです。町会の加入率が低くなっていて、マンションを建てる時は区役所と連携して町会加入の促進活動を進めていますが、なかなかワンルームのマンションには町会に入ってもらえないのが現状です。
でも、皆さんが安心安全に暮らせるよう、子どもたちも高齢者の方も含めてきちっと見守り活動をして、「住んで誇りに思える、魅力と活力あふれる塩草」にしていきたいと思っています。皆さんのご協力をお願いします。
塩草地域の歴史
昔の塩草
『難波潟潮干に立ちて見渡せば淡路の島に鶴渡る見ゆ』
7世紀前半から8世紀半ばにかけて詠まれた万葉集にあるこの歌は、当時の塩草地域の姿を表しています。このあたりは難波八十島といわれ、浅瀬や芦が茂り、潮の干満で島になったり消えたりする沼地でした。
その土地に毎年、淀川と大和川から多量の土砂が流下し、時には洪水で積み上げられ、だんだん陸地化していきました。
近世の難波村
江戸時代、大坂の町は「北組」「天満組」「南組」の三つの行政区画で形成され、総称して「大坂三郷」 と呼ばれていました。現在の塩草地域はその郊外にあり、「難波村」と呼ばれて、三郷への野菜の供給地として畑作が盛んでした。
難波村は葱(ネギ)の産地で、鼬(いたち)川の鴨をダシにして、葱を刻んだうどんを名物とし、その通称が「鴨ナンバ」となったという云い伝えもあります。
葱のほかに難波村でよく採れた作物として、1836 (天保7) 年の「新改正摂津国名所旧跡細見大絵図」や、1863(文久3) 年の 「大阪産物名物大略」に、「難波村胡蘿蔔 (こむら)」(ニンジン) が挙げられています。この「難波村胡蘿蔔」は現在、金時人参として「なにわの伝統野菜」に認証されています。
また、藍の名産地としても知られ、「摂津名所図会大成」巻之八(1855年)には、「難波村の藍を作るに妙を得たり。且土地に相応なるべし。一村中多く作りてこれを製法す」と記されています。この藍は、濃い色に染め上がる阿波産のものに対して、浅葱や空色など薄い色に用いられたそうです。
当時の塩草地域は一面の畑で、1813(文化10)年発行の地図をみると、1軒の家もなく、細いあぜ道が通っているだけです。ただ1つ、畑の中の松の大木の下に赤手拭稲荷神社の祠(ほこら)がぽつんとあります。ここは赤い手拭を祠の前にお供えすると「きつね」の害を避けられるということで難波村や木津村の住民に大変信仰されていたそうです。
塩草地域の北側には道頓堀川(1615年完成)が流れ、その南に平行に湊町から木津川まで細い堀(後に「桜川」と称す)が流れて、畑の灌漑や水運路として活用されていました。地域の南側には、川幅の広い鼬川(いたちがわ)が難波村と木津村の間を東西に流れ、木津川に流下していました。この川は聖徳太子が四天王寺を建立(593年)する時、諸国から木材がこの地(木の津)に集まってきましたが、浅瀬で運搬に困っていた時、地元の有力者「多嘉丸」が夢枕に一匹のイタチのお告げを得て、ここを開さくし容易に運搬ができたとの伝説が木津村の願泉寺に残っています。
このように塩草地域は江戸時代、大阪三郷の南端から外れた都市近郊農村地帯でした。
明治時代から戦前
鉄道の開通
明治時代に入ってもしばらくは、塩草地域は野菜畑の上にありました。桜川や鼬川から畑地に引かれた小川は船運や灌漑用で、子どもが水遊びができるほどの清流でした。難波村の集落は非常に狭く、現在の元町や難波中1丁目の範囲しかありませんでした。
そしてこの集落を挟むように鉄道が引かれます。最初は1885(明治18)年の阪堺鉄道(後の南海電鉄)で難波新地から大和川まで完成、次は1889(明治22)年の大阪鉄道(後に国鉄)で湊町から柏原まで開通し、その後の大阪の発展のもととなりました。
1897(明治30)年の第1次市域拡張により、塩草地域を含む難波村全域が南区に編入されました。1900(明治33)年の地図をみると、桜川1丁目、西円手町の全域と桜川2丁目の半分くらい(現在の桜川1丁目、2丁目)に家が建ち並んでおり、人が住み着きはじめたことがわかります。
そして1909(明治42)年の地図をみると、塩草全域がぎっしりと家で埋まっています。1900(明治33)年に汐見橋から堺東まで高野鉄道が開通し、先に完成した大阪鉄道、南海電鉄によって近郊農村地域から多くの労働者が当地の会社や工場へ通勤し、あるいは物資の流通も大変盛んになっていきました。
急速な近代化と人口増加
明治20年代から30年代にかけて、塩草地域ではたくさんの会社や工場がうぶ声を上げました。マッチやたばこ、コークスやレンガ、染物や鉄工など、さまざまな製造工場が生まれ、近代化が進んでいきました。
しかし、急速な近代化は、それへの反発を引き起こします。1903(明治36)年3月に恵美須町や茶臼山を中心に第5回内国勧業博覧会が開催され、その足として巡航船が出現しました。横堀川、土佐堀川、木津川、道頓堀川にポンポン蒸気の音を響かせ、夏は夕涼みにと市民に大変好評でした。しかし、これには人力車夫が黙っていません。ついに同年6月、湊町乗降場付近で難波新川町の車夫、内藤房之介をリーダーとして約百人の車夫にやじ馬も加わって約3千人が集まる中で巡航船めがけて一斉に投石、乱入、破壊と乗客や駆け付けた警官隊も全部川の中へ叩き込まれるという大事件が発生しました。しかし、これら巡航船や人力車もやがて出現する市電に取って代わられる運命でした。
1894(明治27)年の日清戦争、1904(明治37)年の日露戦争によって大阪の町は急速に工業都市へと変貌します。その真っただ中にあった塩草地域は、すでに人口飽和状態にあった桜川1丁目、西円手町を除く全域で人口が大きく増加していきました。現在の塩草地域に含まれる人口を推定すると、約3万3千人となり、今の3倍の人が住んでいました。
人口過密とともに、伝染病の大流行もありました。1904(明治37)年10月、英国の船から陸揚げされたビルマ米を伝馬船で難波新川まで運んだ経路上にペストが発生しました。新川町から桜川町一帯にかけて路上にねずみの死骸が見られました。そして翌年4月、西神田町の古着屋でペスト菌を持ったねずみを発見しましたが、時すでに遅く5月、その隣に住む3歳の女の子が突然発熱し死亡。続いて市内各地で続発し半年間に134人、翌39年160人、40年548人と流行は拡大の一途をたどりました。患者が発生するとその消毒が大変でねずみを外に逃がさぬようブリキ板で家の周囲を囲み、桜川町ではこの囲いの延長が5kmにもなったそうです。大阪市民の恐怖は大変なものでしたが、1908(明治41)年ようやく大流行に終止符が打たれましたが、患者総数940人、死亡者822人、死亡率は90%となりました。
尋常小学校の開校
1897(明治30)年に難波村より大阪市南区に編入された塩草地域は人口の急増とともに学校が必要となり、尋常小学校が開校されました。
塩草地域の子どもたちが通う小学校は難波第5尋常小学校(難波塩草尋常小学校)、第6尋常小学校(難波稲荷尋常小学校)、第7尋常小学校(難波桜川尋常小学校)の3つの学校がありました。
現在の塩草立葉小学校のもととなる塩草小学校は1907(明治40)年5月、難波第5尋常小学校として難波第1小学校(難波新川小学校、難波小学校)より分離し創立されました。その後、1921(大正10)年4月に「難波塩草尋常小学校」、1941(昭和16)年には「塩草国民学校」と校名が改称されました。
学校の開校にあたっては、敷地の提供から校舎、備品に至るまで費用の多くが地元民の負担で行われたそうです。また1学級の児童は60名ほどでした。当時は家業の手伝いや丁稚奉公に出されるために学校へ行けない子どもも多かったので、第5尋常小学校、第7尋常小学校では各3学級の夜間授業が行われました。
市電の開通と鉄道の延伸
また塩草地域の近代化として市電があります。まず安治川2丁目―湊町駅前―上本町6丁目間が1915(大正4)年11月に桜川を埋め立てて開通しました。この路線は初め道頓堀川の北岸を通す計画でしたが、宗右衛門町通りが大反対して難航していた時、偶然1912(明治45)年1月に南の大火があって今の千日前通りが丸焼けになりました。そこで焼け跡を通すと土地買収費用が安上がりになるうえ、そのまま西へ進んで桜川を埋め立てる案が急浮上し湊町駅での大きな迂回も無くなるはずでしたが、今度は大阪ガス会社が大反対して当時の市長が辞職するという大きな騒動の内に、大迂回のみそのまま残ってしまい、1915(大正4)年8月に大正橋が完成して市電も全通しました。1989(平成元)年に湊町駅の南への移転工事が完成して千日前通りが直線になり、長年の課題がようやく解消されました。
市電はそのほかに、桜川2丁目―大国町―天王寺西門の間が1915(大正4)年1月に、桜川2丁目―堂島大橋の間が1921(大正10)年7月に開通しました。
湊町駅は1907(明治40)年に国鉄となり、名古屋まで開通した関西本線の一等駅として運転事務所、機関車、修理工場もあって貨物、乗客ともに全盛時代に入りました。特に貨物の大半は木材で、駅構内の堀割から道頓堀川に出て幸町通りの木材業者に運ばれました。
戰災、復興、そして再開発へ
戦災と土地区画整理事業
1945(昭和20)年3月の第1次大阪大空襲により、浪速区は区域面積の約93%を焼失し、一面焼野原となりました。これ以降も空襲はやむことなく、終戦前日までの市内への空襲は28回に及びました。
戦後の浪速区は、人口が戦災前のわずか4%に激減し、当時、浪速区内の閑散ぶりを、俗に「浪速村」と称されたほどでした。
戦災復興土地区画整理事業は、浪速区では5つの工区において実施されることとなり、塩草地域は「湊町工区」として1947(昭和22)年に事業計画が認可されました。
土地区画整理事業は施行対象の区域が広範かつ事業内容が多様で、施行期間が長期に及ぶため、区域内外の道路や交通事情、社会情勢の変化が生じます。浪速区も例外ではなく、「湊町工区」では1963(昭和38)年頃から難波中学校の移転、貨物施設を含むJR関西線湊町駅の移転、新今宮から湊町駅までの連続立体交差事業の推進などの課題が生じ、また駅の周りにはまだ移転しなければならない建物が残っていました。その後、湊町駅の移転については1984(昭和59)年6月に貨物駅の廃止の方向性が打ち出され、それ以降、連続立体交差事業を含む新しい新都市拠点整備事業が浮かび上がり、その調査が始まりました。その事業を進めるために駅周辺部の建物の移転が本格的に進められ、1987(昭和62)年度にすべての移転が完了し、1991(平成3)年、ようやく区画整理事業が完了しました。
この事業により、広い道路やみどり豊かな公園が配置され、整然とした街並みができあがりました。塩草地域では、浪速公園や塩草公園、稲荷町公園がこの事業により整備されました。
なお戦前の塩草国民学校は戦後まもなく元町国民学校に併合されましたが、1952(昭和27)年に元町小学校の分校となり、1954(昭和29)年には塩草小学校として再開校しました。2014(平成26)年には立葉小学校と統合し、塩草立葉小学校として再出発することとなりました。
1986(昭和61)年塩草小学校新校舎竣工記念
再開発で進む多機能複合のまちづくり
戦災復興土地区画整理事業の完了後、湊町地区では、JR関西本線の今宮駅とJR難波駅の間の連続立体交差事業、JR難波駅の地下化による広大な貨物ヤードの跡地を有効活用して国際都市大阪の都市機能の充実をめざすこととなり、1994(平成6)年から「大阪市湊町土地区画整理事業」がスタートしました。
2000(平成12)年まで続いたこの事業により、関西国際空港(1994年に開港)に直結するJR難波駅、阪神高速から直接乗り入れるバスターミナルのあるOCATビルを中核施設として、商業施設やオフィス、文化施設、住宅などさまざまな施設が誕生したほか、地区内の主要な道路や広場なども整備されました。
OCATは1996(平成8)年に開業し、JR難波駅からは地下鉄なんば駅、近鉄難波駅、南海難波駅まで地下街で直接アクセスできるほか、伊丹空港や関西国際空港へのシャトルバスや全国主要都市へのハイウェイバスが発着し、主要な交通拠点となっています。
また、2002(平成14)年には湊町リバープレイスがオープン。八角形の宇宙船のような形が特徴の施設はJR難波駅などと地下通路で連絡しており、音楽・パフォーマンスイベントや展示会に幅広く使用されています。
塩草地域ではJR難波駅付近以外でも、その街並みが大きく変化しています。昔は多くあった木工所や鉄工所などの中小製造業が減り、その代わりにワンルームを中心とするマンションの建設が大きく進んでいます。
年表
- 明治22年(1889年) 大阪市が誕生。大阪鉄道(現JR関西本線)湊町-柏原間開通
- 明治30年(1897年) 難波村を大阪市南区に編入
- 明治40年(1907年) 難波第5尋常小学校(のちの塩草小学校)創立(難波第1小学校から分離)。鉄道国有法が公布され、大阪鉄道が国鉄となる。
- 大正 4年(1915年) 市電西道頓堀天王寺線(桜川2丁目-芦原橋-大国町-恵美須町-天王寺西門)開通。市電九条高津線(安治川2丁目-玉船橋-見橋-桜川2丁目-湊町駅前-千日前-上本町6丁目)開通。市電九条高津線(安治川2丁目-玉船橋-汐見橋-桜川2丁目-町駅前-千日前-上本町6丁目)開通
- 大正10年(1921年) 市電桜川中之島線(桜川2丁目-堂島大橋)開通
- 大正14年(1925年) 第2次大阪市域拡張、第1次浪速区ができる(人口149.890人)
- 昭和 2年(1927年) 桜島・堂島大橋・桜川2丁目・大国町・阿部野橋間 市バス開業。阪堺電鉄が芦原橋-三宝間開通(昭和19年に市電が買収、市電阪堺線)。
- 昭和 9年(1934年) 室戸台風襲来
- 昭和19年(1944年) 浪速保健所 塩草町に開設
- 昭和20年(1945年) B29約90機が大阪地区を空襲する。浪速区は区域の約93%が焼失する。終戦。
- 昭和21年(1946年) 塩草国民学校が元町国民学校に統一
- 昭和22年(1947年) 戦災復興土地区画整理事業の設計認可(湊町工区)
- 昭和25年(1950年) ジェーン台風襲来
- 昭和27年(1952年) 元町小学校分校として開設
- 昭和29年(1954年) 塩草小学校として再開校。浪速公園開設。
- 昭和34年(1959年) なにわ筋開通
- 昭和36年(1961年) 第2室戸台風襲来
- 昭和37年(1962年) 難波中学校が現在地に移転
- 昭和38年(1963年) 市電九条高津線のうち、玉船橋-上本町6丁目間廃止(全線廃止)
- 昭和39年(1964年) 阪神高速道路(土佐堀-湊町)開通
- 昭和40年(1965年) 地下鉄(四ツ橋筋)西梅田~大国町間開通
- 昭和42年(1967年) 阪神高速道路(道頓堀-湊町)開通(環状につながる)
- 昭和43年(1968年) 市電桜川中之島線(桜川2丁目-堂島大橋)廃止。市電西道頓堀天王寺線(桜川2丁目-天王寺西門)廃止。
- 昭和45年(1970年) 阪神高速道路(湊町-堺)開通
- 昭和52年(1977年) 浪速区民センター開館
- 平成元年(1989年) JR湊町駅の移転工事完成
- 平成 3年(1991年) 戦災復興土地区画整理事業が完了(湊町工区)
- 平成 6年(1994年) 湊町土地区画整理事業の事業認可。関西国際空港開港、JR湊町駅をJR難波駅に改称。
- 平成 8年(1996年) 大阪シティエアターミナル(OCAT)開業
- 平成12年(2000年) 湊町土地区画整理事業の換地処分
- 平成14年(2002年) 湊町リバープレイスオープン
- 平成26年(2014年) 立葉小学校閉校、塩草立葉小学校開校
敷津地域の史跡と名所
鼬(いたち)川と芦原橋
かつて塩草3丁目の南端を東西に流れていた鼬(いたち)川は、上流を恵美須町付近から高津入堀川へ、下流は十三間掘川(現在の難波支援学校及びなにわ高等支援学校の東側)に入り、そこを南折して木津川へと流れ、やがて大阪湾へと注がれていました。
この鼬川にあみだ池筋が架かっていた橋が「芦原橋」です。当時は市電の停留名であり、現在はJR環状線の駅名となっています。
赤手拭稲荷神社(稲荷2丁目6番)
祭神は豊受皇大神(とようけのおおかみ)ほか三神で、あみだ池筋の1つ西の通りにあります。慶長年間(1596~1614)、このあたりは海水が打ち寄せる新田で、土堤に浪除松と呼ばれる老木があり、その樹下に祠(ほこら)をつくり松の稲荷と称されていました。ご利益があらたかであることから参詣者が多く、紅染めの手拭をそなえる風習が生じて赤手拭稲荷といわれました。1945(昭和20)年3月の空襲でご神体を残して焼失し、現在の本殿は1048(昭和23)年に再建されました。境内に整然と並ぶ朱の鳥居、手洗石の上の数十本の赤手拭が昔を今に伝えています。
赤手拭稲荷神社
JR湊町駅(現在のJR難波駅)(湊町1丁目4番)
かつて湊町駅は関西本線始発駅として東京・名古屋への列車の発着駅でもあり、「湊町リバープレイス」と現在の千日前通りの場所にありました。1989(平成元)年に南へ200m移転し、1994(平成6)年の関西国際空港開港を機に「JR難波駅」と改称され、1996(平成8)年にOCAT誕生とともに地下化しました。
OCAT(湊町1丁目4番)
JR難波駅、旅に関する情報発信や商業機能、郵便局の各施設を併せもつ複合ビルとして1996(平成8)年にオープンしました。関西国際空港へのアクセス便利な関空快速、関西国際空港行きシャトルバス、伊丹空港行きリムジンバス、地方への都市間高速バス等の発着機能を持つ一大交通拠点となっています。2000(平成12)年には、生涯学習拠点施設「難波市民学習センター」、都会のオアシス
「屋上ガーデン」が開設されました。
現在周辺地域には高層マンションや商業ビルが立ち並び、湊町地区開発の中心となっています。
湊町リバープレイス(湊町1丁目3番)
2002(平成14)年に竣工した本棟、立体広場、サンクンガーデンから成る施設で、本棟は八角形にデザインされ、1500人を収容するスタンディングホール「なんばHatch」が核となっています。道頓堀川の遊歩道と一体となった立体広場は、水辺のプロムナードとして心癒す空間を生み出しています。これらの施設を通して音楽を中心とした大阪の新しい文化を創出し、全国に発信しています。
湊町リバープレイス
浪速公園(塩草1丁目1番)
1959(昭和29)年に整備された浪速区最大の公園で、グラウンドや散歩道があるほか、木々も豊かなこの公園では季節の花なども多く見ることができます。また、平和や人権に対する区民の思いなどを詰めたタイムカプセルが収められた広場や野外ステージなども整備されています。浪速公園は憩いの場所としてだけではなく、災害時の広域避難場所でもあります。区民まつりなどのイベントにも利用され、区民に愛されている公園です。
参考資料
- 社協塩草
- 「塩草」創立100周年記念誌
- 難波土地区画整理事業誌
- 難波小学校創立百周年記念誌
- 「ルネッサなんば」、「湊町土地区画整理事業」のリーフレット
- 甦えるわが街、懐かしの風景画、語り部たちによる浪速区歴史の継承
- 「なにわ四方山話」(樫原実男様)
- ウィキペディア、奈良県立万葉文化館のHP など
(注)この記事は地域の語り部の方々の発言をもとに作成しております。歴史考証はしておりませんので、予めご了承ください。
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