旭区内のスポット
2016年8月16日
ページ番号:572
●城北公園・菖蒲園
旭区生江3丁目
鶴見緑地公園事務所 電話:06-6912-0650
城北公園は、明治に行われた淀川付け替え工事で、空き地となった旧淀川の河川敷を利用して造られ、昭和9年に開園しました。広さは約9.5ヘクタールで、大きな池や菖蒲園などがあります。菖蒲園が開園する毎年6月頃にはハナショウブが咲き乱れ、多くの市民で賑わいます。
交通のご案内
市バス 大阪駅前発34系統、天満橋発10系統
いずれも「守口車庫前」行き乗車「城北公園前」下車
●城北ワンド
淀川左岸河川敷 菅原城北大橋~赤川鉄橋付近
交通のご案内
市バス 大阪駅前発34系統、天満橋発10系統
いずれも「守口車庫前」行き乗車「城北公園前」下車
淀川の本流沿いにある水のたまっている所で、本流とつながっているか、水が増えた時には連なってしまうような所をいいます。語源ははっきりしませんが「入江」や「川のよどみ」「淵」のことをワンドと呼ぶ地方があることなどから、淀川でもワンドと呼ぶようになりました。
ワンドは、イタセンパラをはじめとする淡水魚にとっての格好の生息場所として、淀川の多様な生態系を支えています。
●大阪市立芸術創造館
旭区中宮1丁目
電話:06-6955-1066 FAX:06-6955-7901
ホームページ
大阪市立芸術創造館は平成12年1月15日オープンし、劇団やバンドの皆さんが新しい作品づくりに取り組んでいただける創造活動のための拠点として利用され、旭区から全国に向けて、大阪の芸術文化を発信しています。
交通のご案内
- 京阪「森小路」駅下車徒歩10分
- 地下鉄谷町線「千林大宮」駅下車徒歩10分
- 阪神高速守口線「城北」出口すぐ
- 市バス「旭区民センター(西行)」「旭区役所(東行)」停留所下車
●千人つか
昭和20年の大阪大空襲で、市内いたるところに身元不明の遺体が多数放置されていました。それらの遺体は、市民奉仕で城北公園裏の淀川の堤に集められ、千数百体の遺体がだびに付されました。「鬼哭啾々 黒煙天に柱し、三日三晩に及ぶ」といわれて、その冥福を祈って区民の方が庭石に「千人つか」と刻んで安置されました。
●赤川廃寺跡碑
赤川寺(別名 大金剛寺)というお寺がありましたが、いつのころからか廃寺になってしまい、伽藍の正確な位置がわからなくなってしまいました。しかしお寺の僧であった覚賢が写した大般若経が残っています。
●平田の渡し跡碑
東淀川区豊里と旭区太子橋を結ぶ渡船の碑で、昭和45年の豊里大橋開通にともない、渡船場はなくなりました。なお、石碑の「平太」は渡船業者名であり、一般的には地名である「平田」と呼ばれています。
●森小路遺跡碑
昭和6年に発見された弥生期から古墳時代までの集落跡で、新森中央公園を中心に東西500m、南北600mにわたり、主な出土品としては、弥生式土器・石器・木器・須恵器・土師器・製塩土器・玉類などがあります。(出土品の一部は、区民センター郷土資料室に展示しています。)
●京街道
●七曲がり
京街道の一部で、豊臣秀吉が大阪城築城のとき城の上から敵兵の軍容や兵数を知るため、わざと道路を狭く、しかも曲がりくねらせてつくらせたといわれ、今もその名残をとどめています。
●北大阪周遊自転車道
北区中之島から、大川、淀川沿いを通り、茨木市を横断し、吹田市万博記念公園まで続く20.1kmのサイクリングコースです。淀川を見ながら風を切り、自転車で心地よい汗をかいてみてはいかがですか。
●江野川筋遊歩道
●大阪工業大学の正門
中央公会堂をモチーフにした赤煉瓦造りの「片岡メモリアルゲート」(正門)が目を引きます。
●淀川河川敷
新緑のかおる季節、川風の涼しく吹きわたるころなど、四季折々のすばらしい眺めは、訪れる人の心を和ませてくれます。
●城東貨物線赤川鉄橋
戦前からあるトラス型の古いもので、人と列車が渡る珍しい鉄橋でしたが、平成25年10月31日に赤川仮橋(人道橋部分)を閉鎖しました。今後は、複線電化され、客車が走る予定です。
●新森中央公園
●城北川と遊歩道
●旭公園
●天然記念物大楠(寶龍寺内)
お願い/寶龍寺敷地内への立ち入りはご遠慮ください。
この大楠は大阪府の天然記念物に指定されており、樹齢は約800年といわれています。大阪城築城のとき天守閣の棟があがらず困っていたところ、豊臣秀吉の夢枕に大きな白蛇が現れ「城北の大楠の主である」と告げて消えてしまい、調べさせてみると、見たこともない大楠があるという報告に「さては神のたたりだったか」と鬼門除けの祈とうを行い"楠玉大王"をまつる「楠玉殿」を建てました。これにより、天守閣の棟が無事にあがったと伝えられています。
●強頸絶間(こわくびたえま)伝承案内板
『日本書紀』によると、仁徳天皇のころ淀川の治水対策として、茨田堤(まんだのつつみ)を築いたとあります。
当時、堤防を築いても大雨が降るとすぐに決壊して築堤が困難でした。ある夜、仁徳天皇の夢に「武蔵の人強頸(こわくび)と、河内の人茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)の二人をいけにえとして、河の神にまつれば、崩れない築堤が成就する」という神のお告げがあり、この二人が人柱として選ばれました。衫子は策を用いて難を逃れましたが、強頸は泣く泣く人柱にたち、堤は完成したといいます。これはその伝説にもとづいた址の案内板です。
●日吉神社
かつてこの地に赤川寺(せきせんじ)という大寺院があり、室町時代の文安年間(1444~1448)にその境内に山王宮(さんのうぐう)という大津の日吉大社の分霊を祭った神社がありました。それがこの神社であると言われています。
赤川寺は洪水、戦乱によって廃寺となりましたが、この神社は難を免れ、戦前まで本殿・拝殿・絵馬堂などがありました。しかし空襲でそのほとんどが大破しました。その後、復興され現在に至っています。
祭神は穀物の守護神である大年神(おおとしがみ)・大山咋神(おおやまくひのかみ)です。
●八幡大神宮
別名を「不焼宮(やけずのみや)」と言われています。これは建武・延元(1334~1339)の頃、浄土宗本山来迎寺の開祖誠阿上人(せいあしょうにん)が師法明上人(ほうみょうしょうにん)の遺命を受け、男山八幡宮の宝物を授かって、故郷の北河内佐太に寺院を建立するために帰る途中、これをねたむ法明上人の弟子たちに追われて当宮に身を隠しましたが、見つけだされて火を放たれました。しかし、火はたちまちにして消えてしまい、追ってきた弟子たちは誠阿上人の徳に接し、ついには上人に帰依したと言われています。以来、「不焼宮」と称されるようになったと伝えられています。
八幡大神・春日大神・蛭子(えびす)大神の3神が祭ってあります。
●大宮神社
文治元年(1185)、源義経は平氏追討のため、一の谷に赴く途中、この地で霊光を見ました。義経はこれを宇佐八幡宮の顕現であると考え、後鳥羽天皇に奏上しました。これを聞いた天皇は、霊光のあった場所に神社を営み、大宮八幡宮と称しました。
また、豊臣秀吉も大阪城を築く際、この神社を大阪城の守護神として神殿などを造営しました。明治45年に現在の大宮神社と改称されました。
祭神は応神(おおじん)天皇・神功(じんぐう)皇后などです。
●豊里大橋
都市計画道路 新庄大和川線(大阪内環状線)の旭区太子橋と東淀川区豊里を結ぶ全長0.9km、幅18mの橋で、昭和45年3月に完成しました。
この橋は斜張橋と呼ばれる形式で、大阪北部と東部工業地帯、さらに南港を結び、道路は市内の主要動脈の一つとなりました。
●菅原城北大橋
都市計画道路 豊里矢田線整備事業の一環として計画されたもので、大阪市北部と都心部との連絡をより充実させることを目的としています。
旭区中宮と東淀川区豊里を結び、全長約1.4km、幅21.5m、大阪市では初めての有料道路橋(現在は無料)として、平成元年6月に完成しました。
橋梁の形式は、わんどやヨシ原など周囲の景観と調和するよう、河川のほぼ中央に2本の塔を有する斜張橋となっています。
●千林の長屋
昭和12年(1937年)建築の2階建長屋。9軒(4軒と5軒)が軒を連ね、通りに玄関と台所が面し、台所部分の屋根は入母屋式となっています。
●橋寺廃寺
昭和34年(1959年)、現淀川の河川敷において、井戸や古代の瓦、中世の土器などが発見され、このあたりに寺院が存在したと推定されています。当地の旧地名から「橋寺廃寺」と名付けられました。