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杭全神社連歌所 1棟

2019年1月9日

ページ番号:8782

杭全神社連歌所

くまたじんじゃれんがしょ

分野/部門

有形文化財/建造物〔寺社建築〕

所有者

宗教法人 杭全神社

所在地

大阪市平野区平野宮町2

紹介

杭全神社連歌所写真

 杭全神社は平野郷東北の一角に位置している。平安時代初期の征夷大将軍坂上田村麻呂の子、広野麻呂がこの地に入り、その子が貞観4年(862)に創建したといわれる。その後、平野郷は鎌倉・室町時代には摂関家の荘園となり、戦国時代には堺に次ぐ自治都市となり、近世には大和・河内と巨大都市大坂を結ぶ交通の要衝として栄えた。

 「杭全神社連歌所記」によれば、当社の連歌は鎌倉時代に始まり、坂上家の後裔と称する平野七名家を中心として室町時代に盛んになったという。中世以来の連歌所は慶長19年(1614)、大坂冬の陣の際に破却された。現存する連歌所は宝永5年(1708)に再建されたものである。

 現在の連歌所は桁行4間半・梁行2間半、入母屋造り本瓦葺きで、12畳の主室と4畳の控の間があり、控の間の西側が玄関となっている。主室の東側に半間の縁側、控の間の南側に半間の濡縁がつく。主室の北側正面は、中央1間を「床」、その東側を収納スペースとしているが、この部分はもとは西側と同様に半蔀窓であった。西側に間口1間半の玄関が連続する。

 連歌所は大阪府下でも菅原神社(堺市 1666年以前)、佐田天満宮(守口市 1759年以前)、大阪天満宮(1793年以前)、住吉大社(1860年以前)、開口神社(堺市 1860年以前)などに存在したが、現存する建物としては、全国的にみても極めて少ない。簡素な中に気品があり、近世連歌所として極めて重要な建築物といえる。

用語解説

平野七名家(ひらのしちめいけ) 七名家は坂上氏の同族と称する、土橋・三上・辻葩(つじはな)などの各氏を言う。この七家が中心となって堺と並ぶ自治都市を築いた
濡縁(ぬれえん) 雨戸の敷居の外側に付けられた縁
半蔀窓(はじとみまど) 蔀は光線・風雨を防ぐ建具で、格子の裏に板を貼ったもの。半蔀は上下2段に分かれたものであり、開ける時にはこのうち上1枚を金具で水平に吊り上げる

参考文献

『杭全神社連歌所調査報告書』(大阪市教育委員会 1997年)
林野全孝「杭全神社連歌所調査報告」(『大阪の歴史と文化財』創刊号 1998年)

 

⇒「大阪市指定文化財(平成11年度)」にもどる

 

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