旧藤田邸庭園
2024年1月15日
ページ番号:8801
旧藤田邸庭園
分野/部門
記念物/名勝
所有者
大阪市
所在地
大阪市都島区網島町
紹介

藤田伝三郎は明治9年(1876)、藤田組を組織し、その後鉱業や農林業にも従事し、関西を代表する実業家となった。また多くの企業の設立、経営にも関わり、大阪商法会議所を創設し第2代会頭を務めるなど、大阪経済の基礎を築いた関西実業界の中心人物であった。数寄者としても有名であり、茶の湯の道にも秀でており、美術品のコレクターとしても有名であった。3人の子息も同様に実業家として、数寄者として知られていた。
藤田伝三郎は明治26年(1893)、網島に住居の建設を始め、同29年に完成した。その後明治43年頃から新本邸の建設が開始された。新本邸は大正5 年(1916)までには完成したようである。敷地南側に表門(現存する)を置き、その北側に居室、食堂等、そして接客ゾーンを配していた。接客部分は洋風と和風で構成され、玉突き室や多数の茶室が配置されていた。藤田邸は近代和風と呼ばれる建築のなかでは、規模や格式においてわが国でも最上級の部類に入るものであった。
本邸の庭園もおそらく建築と同時期に築庭されたものとおもわれる。すなわち明治半ばに本邸の建築に伴って庭園づくりが始められ、明治43年の新本邸建設時にさらに整備され、本邸完成の時には庭園も完成したと推測される。
作庭者は“梅園梅叟”(ばいえんばいそう)という庭師で、大阪で代々造園業を営む家の6代目で、19歳から60歳の間に10余りの庭園を修築したという。それらの特徴は、自然の地形を生かし人工的手法を駆使し妙趣を尽くすというものである。
庭園は藤田本邸の東部やや北寄りにある。この場所は淀川左岸の平坦な地形であったことから、作庭にあたっては起伏に富んだ地形を人工的につくり出し、この高低差をうまく生かしたものとなっている。戦後長く手入れされない状態であり、周辺部はかなり変形しているところもあるが、築山や石組みなど主要な部分は良好な状態で残っている。
庭園は南北方向の築山、滝、流れ等を基本的な構成としている。特に北の高い滝石組みからの流れや築山中央の流れとその両側の急峻な築山の組み合わせが庭園の中心となっている。流れのなかには沢飛びがあり、木橋の架けられた跡もあった。かつて庭園内には多宝塔や石塔、寺院の礎石などがたくさんあった。多くは他の場所に移動しているが、現在でもいくつかの礎石は残存している。
横に広がりのある開放的な庭園ではなく、築山をスクリーン的に扱うなど、先の見えない意外性や、そそりたつ石組みの大胆さなどを求めたダイナミックな庭園の構成は江戸時代以前には例のないものである。おだやかな自然の景色ではなく、豪壮で荒々しい自然の情景を表現したものであり、梅叟の特徴をよく示す。わが国の近代庭園史を考えるうえで貴重である。
用語解説
数寄者(すきしゃ) 風流人、芸事に執心な人物の俗称。近代ではとくに茶道具の蒐集を趣味とする人をさす
築山(つきやま) 人工的に作られた山
参考文献
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