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天水分豊浦命社社号標石・神須牟地社社号標石・多米社社号標石・阿遅速雄社社号標石

2019年1月9日

ページ番号:9080

天水分豊浦命社社号標石・神須牟地社社号標石・多米社社号標石・阿遅速雄社社号標石

あめのみくまりとようらのみことしゃ しゃごうひょうせき・かみすむぢしゃ しゃごうひょうせき・ためしゃ しゃごうひょうせき・あちはやおしゃ しゃごうひょうせき

分野/部門

有形文化財/歴史資料

所有者・所在地

天水分豊浦命社(あめのみくまりとようらのみことしゃ)社号標石  

  宗教法人 止止呂支比賣命神社(とどろきひめみことじんじゃ)・大阪市住吉区沢之町1

神須牟地社(かみすむぢしゃ)社号標石

  宗教法人 神須牟地神社(かみすむぢじんじゃ)・大阪市住吉区長居西2

多米社(ためしゃ)社号標石

  宗教法人 神須牟地神社(かみすむぢじんじゃ)・大阪市住吉区長居西2

阿遅速雄社(あちはやおしゃ)社号標石 

  宗教法人 阿遅速雄神社(あちはやおじんじゃ)・大阪市鶴見区放出東3

 

紹介

 江戸時代中頃の儒学者並河誠所(なびかせいしょ)(1668~1738ナミカワとも)の考証に基づき、所在が紛れていた式内社(しきないしゃ)に比定された神社のうち20社に設置された標石のうち、市内に所在する4基である。
 式内社とは、『延喜式(えんぎしき)』の巻9・10、いわゆる「神名帳(じんめいちょう)」に載せられた国家祭祀の対象神社であるが、古代国家の解体とともに多くその所在が不明に帰していった。
 江戸時代には考証主義の発展によって、これら所在の紛れた式内社を解明し、顕彰しようとする気運が高揚してくる。並河誠所は、享保14年(1729)から6年を費やして同20年(1735)に完成した『五畿内志(ごきないし)』編纂過程で、畿内の所在の紛れた式内社の全てを、当時存在していた神社に比定し、その顕彰を意図する。しかし、費用面から全社を対象とした顕彰は困難であったため、さしあたって摂津国内の20社について、標石の建立による顕彰を行った。建立は、元文元年(1736)から翌2年にかけて、誠所の指示を受けた弟子の久保重宜(摂津国東成郡赤川村〔現旭区赤川〕の庄屋)によって、幕府の支持を受けて遂行された。この時建立された標石は全て現存し、うち4基が大阪市内にある。
 市内で社号標石が建立された神社は、誠所の比定以前は、天水分豊浦命社が歩王、神須牟地社が三宮、多米社が多祢伽志宮、阿遅速雄社が八剱と別の社号で呼ばれていた。誠所の考証には、現在からみれば不十分な点も多く、必ずしもその説が歴史的に正しいとは限らない。しかし、これらの標石は、近世における考証主義・尚古主義の進展を示す資料として重要である。
 標石は山状角柱と二段の台石から成り、角柱正面に式内社号、左側面に村名が陰刻され、中台石の側面中央には、短冊形の彫込枠の中に「菅廣房建」と陰刻がある。材質は花崗岩で、ほぼ一定の規格である。角柱は高さ96cm(約3尺)、一辺24cm(約8寸)、中台石は高さ24cm(約8寸)、一辺42cm(約1尺4 寸)、下台石は高さ43cm(約1尺5寸)、一辺61cmである(約2尺)。「菅廣房」とは、この顕彰に賛同し、資金を拠出した大坂の山口屋伊兵衛であるが、彼については不明な点が多い。
 なお、天水分豊浦命神社(元安立町5丁目)は明治40年(1907)に止止呂支比賣命神社に合祀されたため、社号標石は止止呂支比賣命神社境内に移設されている。

天水分豊浦命社社号標石 写真

天水分豊浦命社社号標石

神須牟地社社号標石 写真

神須牟地社社号標石

多米社社号標石 写真

多米社社号標石

阿遅速雄社社号標石 写真

阿遅速雄社社号標石

参考文献

武藤 誠「並河誠所の古社建碑」 (『兵庫県史蹟名勝天然紀念物調査報告』14 1939)
井上 智勝「並河誠所の式内社顕彰と地域 -摂津国式内社号標石の建立を中心に-」(『大阪市立博物館研究紀要』32 2000)

 

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