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大阪市の歴史-タイムトリップ20,000年(飛鳥・奈良時代以降)

2017年6月19日

ページ番号:10252

飛鳥・奈良時代

仏教が盛んとなり、593年聖徳太子によって四天王寺が建立されました。この頃に遣隋使・遣唐使の出発点であった難波津は、国際交流の一大拠点となりました。そして、大阪が歴史の表舞台に立つのが645年の「大化の改新」です。孝徳天皇は、強大な隋唐帝国の圧力に対抗するため、それまでの伝統的な都の地であった飛鳥を離れ、都を難波長柄豊碕宮(前期難波宮)に移し、中央集権化を急ぎます。その後、都は奈良に戻りますが、この地には、副都として後期難波宮が建設され、引き続き国際交流の窓口としての役割を担います。

四天王寺の写真

四天王寺

平安・鎌倉時代

河内湖がしだいに埋り、陸地化してきた時代です。この時代には天満橋から北浜の南岸にあった渡邊津が、当時盛んになった熊野詣の起点になります。四天王寺は西門から望む海に落ちる夕陽が浄土信仰と結びつき、多くの参拝者を集めていました。渡邊津から四天王寺、住吉大社を経て熊野へ通じるコースは参拝と行楽をかねて多くの人々が行き来し、街道の整備も進みました。

室町時代

浄土真宗の第8代宗主蓮如は、1496年現在の大阪城がある場所に、後に大坂本願寺(石山本願寺)となる大坂坊舎(石山御坊)建立に着手しました。その頃、上町台地の突端にあった小坂(おさか)という地名が、「おおさか」の語源といわれています。その後、御坊周辺は寺内町として栄え、現在の大阪の基盤が誕生しました。また敵から攻められにくく、見晴らしがよい「上町台地」に、織田信長も着目し、「そもそも大坂はおよそ日本一の境地なり」と唱えました。上町台地は大和川と淀川による水運も良く、国際交流の歴史も深いため、ここを手に入れることはわが国はもちろん世界を手に入れることと同じ意味と考えられました。

蓮如の肖像画

蓮如

安土・桃山時代

第11代宗主顕如が、織田信長に石山本願寺を明け渡したのは1580年。その後、信長の意思を継ぎ、大坂を拠点に天下統一を成し遂げたのが豊臣秀吉でした。石山本願寺跡に大坂城を築城し城下町大坂を築きました。東横堀川、西横堀川、阿波堀川などを堀り、海運・水運の拠点大坂を築きます。また、各地から商人を移住させ木綿、油、薬種、金属加工業などの産業の集中を図り、さらに、海外交易にも力を入れ、東南アジアへも商人が雄飛しました。しかし、秀吉の城下町大坂は、1614年、1615年の大坂冬の陣、夏の陣で焦土と化します。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉

江戸時代

焼け野から復興した経済都市大坂が「天下の台所」として全国的に名を馳せたのは江戸期です。全国からの物資が集まり出荷されていく「流通拠点」となり、国際貿易にも結び付いた国内最大の経済都市として栄え、なかでも米は堂島米市場の米相場が全国相場の基準とされました。商いと共にそれを支える町人文化も開花してゆき、竹本義太夫率いる人形浄瑠璃(大阪で発展した人形浄瑠璃は「文楽」として知られ、2008年にユネスコの「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載されました。)が近松門左衛門とのコンビで大成功をおさめ、井原西鶴、上田秋成などの文芸文化も開花しました。また学術・教育文化も「懐徳堂」と「適塾」の開設で大きく飛躍し、富永仲其は懐徳堂に学び、発想発展の法則的把握や固有の文化類型などを発見し、当時の思想界に大きな影響をあたえ、徹底した合理主義者として知られる山片蟠桃など、多くの町人学者を輩出しました。緒方洪庵が開設した「適塾」は幕末維新に活躍した福沢諭吉や大鳥圭介を育てた蘭学・医学の学問所です。適塾は日本の薬種商の中心地であった道修町の近くに開設され、全国から集まった英才達は自由闊達な町人の町大坂で蘭学を学びました。さまざまな物資が交流する天下の台所大坂に人が集い、文芸、文学、教育、学術の花が咲く。江戸期に咲いたこれらの文化は、今も大阪の町に息づいています。

錦絵 菱垣新綿番船川口出帆之図の写真

錦絵 菱垣新綿番船川口出帆之図

写真提供:大阪城天守閣

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