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大阪市の歴史-タイムトリップ20,000年

2017年6月19日

ページ番号:10244

さまざまな表情を持つ私たちの街大阪は、高層ビルが建ち並ぶ現代も、温かな人情が息づく街。活気と希望あふれる大阪の歴史をたどるタイム・トリップに出かけてみましょう

約20,000年前(旧石器時代)

ナウマンゾウ


20,000年前の地球は、気温が低く、大陸には氷河が発達していました。そのため現在よりも海水面が低く、瀬戸内海や大阪湾も陸地で、北海道とサハリン、シベリアをとおして大陸と陸つづきとなっていました。そこを通りナウマンゾウやオオツノジカなどが日本へ渡り、大阪付近にもノシノシ歩いていたことでしょう。当時の人々は、サヌカイトと呼ばれる石器を使い、狩猟と採集をして暮らしていたようです。

20000年前

20,000年前の日本列島古地理図

紀元前7,000年頃(縄文時代)

土器

気温の上昇に伴い、海水面が上昇(縄文海進)し、大阪湾にも海水が侵入してきました。その結果上町台地が 半島のように突き出し、上町台地の東側は、河内湾と呼ばれる内海が広がりました。河内湾は西側の大阪湾と比べ、波が穏やかで、冬の季節風を受けないなどの自然条件に恵まれていました。上町台地の東側にある森の宮遺跡は縄文時代中期(約5,000年前)から弥生・古墳・歴史時代にわたる複合遺跡で、西日本有数の貝塚が発見されており、そこで生活した最初の「大阪人」たちが残した遺物といえます。

弥生時代(紀元前3世紀~3世紀)

この時代になると河内湾は淡水化し、河内潟へ、さらに河内湖に姿を変えていきます。稲作技術の伝播により、人々の生活も狩猟・採集から農耕生産へと変化し、土地への定着が進みます。また環濠(集落を取り囲む溝)をもつ大規模集落が出現するなど、時代は大きな転換期を迎えます。一方、豊富な水路を利用した物流ルートも形成され、森ノ宮、玉造、桑津、杭全など上町台地東側の港が拠点となって近畿各地や九州、さらには大陸との交易が行われていました。

古墳時代(3世紀末~6世紀末頃)

中国大陸や朝鮮半島との関係が深まり、難波津は、古代日本の玄関口として、大陸からの渡来地、さらには使節往来の拠点として発展しました。渡来人の手で持ち込まれた窯業・鍛冶・建築・土木・宗教などのさまざまな文化や技術が、日本各地へ広がっていきました。この時代、大阪平野の各地には、仁徳天皇陵を始めとする王権の象徴ともいうべき巨大な古墳が出現しました。また、南の大和川の水を大阪湾に流すため、難波堀江の開削がされたり、堺や大和へ至る南北東西の道が整備されるなど土木工事がさかんに行われました。また、巨大倉庫群が作られるなど、難波津を拠点として、大阪は交易、商業都市としての役割がますます重要になってきます。

5世紀難波の倉庫(復元物)

5世紀難波の倉庫(復元物)
写真提供:大阪文化財研究所

大阪湾の地形変化


海域


淡水域

  • 河内湾の時代約7000~6000年前
  • やじるし(右へ)
  • 河内湾の時代約5000~4000年前
  • やじるし(右へ)
  • 河内潟の時代約3000~2000年前
  • やじるし(右へ)
  • 河内湖の時代約1800~1600年前

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