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令和5年度阿倍野区子育て講演会の録画動画を掲載しました!

2024年6月20日

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令和5年度阿倍野区子育て講演会

令和6年1月27日(土曜日)に、子どもの発達相談室あおいとり室長の藤川典子氏を講師に迎え、講演会を開催しました。子どもの良いところを見つけ、褒めてのばしてあげるペアレントトレーニングのエッセンスをもとに、子どもへの関わり方のコツを学び、楽しい親子関係づくりのきっかけとなる内容となっております。動画は5つの項目に分かれておりますので、ぜひお時間ある際にご覧ください。


目次

1.「育む」子育てとは

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「育む」子育てとはの動画

講演で話された内容です

「育つ」と「育てる」と「育む」って、漢字は一緒でも送り仮名が変わると、言葉の感じは変わってくるよね。

「育つ」って、そのもの自体が伸びゆくことだから、主語だけ付けたらいけるよね。

子どもが育つ。人が育つ。花が育つ。犬が育つみたいに。

元々そのものが持っている本能、本能として育つという、伸び行くというように、本能として備わっているものなんです。

みんなそれはある。どんな存在でも、雑草であっても。

雑草というのはね、人間が勝手に(雑草と)決めているだけだからね、草花でも。元々本能として備わっている力が「育つ」ね。

でそれを、その本能が本能らしく、ちゃんと機能するように環境を整えるのが「育てる」。

だから環境の中には人も含まれてるよね。人も含めて、一番大きな環境が人だからね。

その本能が本能らしく、妨げられないように。本能を発揮できるように、いい感じに伸びていくように、環境を整えていくのが「育てる」ということ。

ここに来たら、「育つ対象」と「育てる対象」が、登場人物が二人になるよね。人物とは限らないけれど。

草を育てるのは人間やったり、子どもを育てるのは親であったり、先生であったり。「育つ」対象と「育てる」対象で、登場人物が二人になってきたところから、意図の食い違いが出てくるんよね。

本能としては、「こんなふうに育ちたい」という本能があるのに、育てる側が「こんなふうになってほしい」、「あんな風になってほしい」と。そこが一致している間はいいんだけど、食い違いが出てくると色々とややこしい事が起こってくる。

口で言って、言葉で聞いていると「そんなの当たり前でしょ」って思うでしょ。たいがい「なんか上手いこといかないな、しんどいな」と思う時は、そこが上手くいってない。そこが食い違っている、実はね。でもそこに気が付かへんのよね。

まじめで一生懸命であるがゆえに、「あーしなくっちゃ」という思いがどんどん、どんどん強くなるからね。

「育てる」と「育つ」、もう一つが「育む」。

この絵ね、羽包む。色々説はあるだろうけど、一説には、語源は「羽・包む」から来ていたりする。親鳥がひな鳥を羽でそっと、ふわっと包んでるみたいな。

「羽包む(はづつむ)」がなまってというか、「羽包む」が「育む(はぐくむ)」に発展した。

だからイメージは、この絵のように、羽でふんわり包むみたいな。

私てきには、語源はこの「ハグ+酌む(汲む)」ですね。

人間、どんな時にハグするかってね、大好きとか、愛おしいなというときに、ハグするでしょ。こんな顔ですよね、大体ハグするときって。怖い「しかめっ面」でハグしないもんね。

外国人同士の要人とかが、タラップから降りてきて、いきなりハグしたりしますよね、「初めまして」と。でも、あれは大好き(のハグ)と違いますよね。

「初めまして」でも、ハグをするというのは、「あなたの敵じゃないですよ。」「あなたのことを受け入れますよ。」「ようこそ」で、「あなたのことを受け入れますよ」というのもそう、「愛おしいな」、「大好き」というのもそう。

こっちの「酌む」は、お酌の酌で、お酒を酌み交わすの「酌む」ですね。お酒を酌み交わすときは、アルコールハラスメントなんていう言葉があるくらいだから、相手のペースに合わせて、相手の飲みたいものを、相手が「もういらない」と言ったら、こっちもやめとくし、相手に合わせて、お酒を酌み交わすでしょ。

こっちの「汲む」は、常用漢字じゃないから、括弧にしましたけど、さんずいが付いてるから水を汲み上げる。「すくう」という「汲む」ですね。

昔の水を汲むは、井戸の底に「カー」と下ろして、カーっと桶みたいなやつでね。「鶴瓶(つるべ)落とし」と言うでしょ。カーッと落として、ワーッと上げてきて、底の方から水を汲み上げてくるね。これの意味を全部合わしたのが「育む」なのよ。

どういうことか。

自分が「あーしたい、こんなふうに育てたい、こんなふうになってほしい」というよりは、相手の状況を、よく見て、相手の状況に合わせて、相手のテンポに合わせて、ペースに合わせて、で、今どんなことを感じてるのかな、どんなふうに思ってるのかな、どうしてほしいと思ってるのかな、というように相手の心情、心、見えないところに思いを至らせ、底にある思いを、底の方まで、見えないところまで、言ってないところまで、口ではそんなこと言うてるけど、本当はどんなことを思っているのかなと。

心の奥深いところまで汲み取って、そこを全部おもんぱかって、その上で全部を受け入れますよと。それが「育む」。

だから、「スパルタで育てる。」っていう言葉はあっても、「スパルタで育む。」はないでしょう。相手のペースに合わせているかどうか。

今日の話は、全部ここの1枚に集約されてるぐらいの、何を忘れても、この絵を思い出してもらったらいいよ。というぐらいです。

「育む」が出来なくなってるときは、「なんかイライラする」とか、「不安が募る」とか。

大人のイライラの要因は、「時間がない。」、「自分のコンディションが悪い。」。二大デンジャラスタイムです。

子どものデンジャラスタイムは、「お腹減った。」「眠たい。」ですね。これと同じ、コンディションが悪い。あと、「疲れた」(という)方の「しんどい」。疲れたという自覚がないのよ。「これだけしたら疲れるからもうちょっと加減しとこう」(という発想)はないんです。

これ(急いでいる、自分の体調が悪い)がなかったでしょ。子どもの4大デンジャラスタイムの中には。これ、大人だけなのよ。

だから、こっちはイライラとしてるのに、悠長にやってるように見えて、「早う(く)、早う(く)」って思って、余計にイライラするのよね。

だから、どれだけこっち側に心の余裕を持つか、時間の余裕を持つか、それが難しいんだけど。出来なかったとしても、この不安はどこから来てるのかとか、自分のイライラはどこから来てるのかとか、理由がわかるだけでちょっと落ち着いたりするからね。

「ああ、これや」と、「これや」と気づく。気づくためにはその冷静さがいるからね。冷静さがあったら気づくから。だから、何でイライラしているのかな、何で不安になっているのかなと考えることは、とっても大事です。考えると、本能とか感情の暴走を抑えられるからね。で、心の中には今こんなんがありますよって。 

「今この状態になってるから、不安になってるんだな。イライラしてるんだな。」と認めてあげる。自分の感情を。

「比べたらあかん、比べたらあかん。」とか「気にせんとこう、気にせんとこう。」とかね、「目に付かないようにしよう」と思えば思うほど、そっちに突っ走るから。

「ああそうやな。」「だからイライラしてたんだ。」「だから不安になってたんだ。」でいいからね。

理由がわかったら、ちょっとこれで落ち着くなと思う。イライラになっているときは、「ああそうか、これでイライラしてたんだ」「ああこれで不安になったんだ」と思った上で、「育む」に立ち返るには、「あゆみ」のペースを揃える。

「あゆみ」のペースが「親子で」と書いてるけど、“今向き合ってる人”でいいよ。今向き合ってる人で。

お互いのペースが違う。「育てる」と「育つ」側と。何かちょっと食い違ってるみたいなときだからね、立ち戻るには、いい意味で「あきらめる」ね。

今はまだこれを求めるときじゃないんだ。今はまだちょっと早すぎたのかな。ちょっとこれじゃなかったかな。じゃあちょっと今は置いとこかって。

「ゆるす」は、相手を許すもそうやけど、自分も許すね。自分も許す。こうあらねばとか、こうするべきとか、なんかいろいろね、自分で自分をがんじがらめにしてる部分があるから、そこも、自分も許すね。

相手のことも自分のこともちゃんと「みとめて」、相手を「みまもる」。相手のことを見守る。信じて見守るね。

文章データ1(「育む」子育てとは)

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2.子育てでイライラしない為に

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講演で話された内容です

「何回言ったらわかるの」と思ったり、言ったりしたことある人。正直でいいですね。素晴らしいですね。あるね。

「何回言ったらわかるの。」はまだしも、「何回、同じこと言わせるの」ってあるでしょ。言っているのは自分なのに。おかしな話でしょ。

でも、そんな心境になってるのよ。自分が言ってるのに。まるで言わされてるかのように。

感じてるのよ、こっちのせいって。事実は変わらなくてもね、捉え方によって心情は変わってくるのよ。子どもの行動、相手の行動という事実は変わらなくても、見方、考え方、捉え方が変わるとイラっとするか、「しゃーないな」で笑えるかなのよ。

だから、同じこと言わせてるのって、言っているのは自分だよね。思っているのは自分だって。

「何回同じこと言うたらわかるの」と思うときは、同じことしか言ってない。ピンとくる?同じ事しか言ってない。

中高生とかだったら風呂入らないからね、なかなか。「風呂入りや」って普通に言って、「聞いてないな」となると。「風呂入りや」「風呂入りや」と。「同じことしか言ってないわ」と(思いますよね)。

「さきから何回言ったら入るの」「早くしないと片付かないでしょ」となって、ワーと、だんだんクレッシェンド(だんだん強く)になっていって、こっちが一人でイラッとするみたいなね。「風呂入りや」しか言ってない。

ちっちゃい子に対して「お片づけしよう」と同じことしか言ってない。だから「何回同じこと言ったらわかるの」になるのよね。

何回も何回も同じこと言ってる時というのは、大人も前頭葉が、思考を停止してるんです。

頭を使ってないから同じことしか言えない。「同じこと何回言ったら分かるの」と思ったり、言ったりしているときというのは、そういうセリフがよぎったときは、「あ、同じことしか言ってなかったな」って、「思考停止してたな」って、まず気づくこと。

1回目言って、「ああ通じてないわ」。「あのね、何回同じこと言ったらわかるの」となっているときって、こっちは「伝えた」、相手側からしたら「伝わった」だが、「伝えた」と「伝わった」がイコールになってるときは、「何回いったら分かるの」にはならない。

だけど「何回言ったら分かるの」になってるときとというのは、ノットイコール。「伝えた」と「伝わった」はノットイコール。伝わってないのよ、実は。伝わってないねん。伝わってると思うから、生返事したりするし、「わかってる」って言うし。

だから、伝わってると思っちゃうんだけど、「伝わってないな」って(気づけるように)。

大人同士でも「言った」「言ってない」、「聞いた」「聞いてない」っていっぱいあるでしょ。

大人同士でも、日本語もわかり合える仲なのに。仲って言ったらおかしいけれど、相手なのに、「言った」「言ってない」、「聞いた「聞いてない」となる。「そんなつもりで言ったんじゃないのに、どうのこうの・・・」って。あれも、「伝えた」と「伝わった」がイコールになってないんです。

大人同士でもそうだから、大人と子どもではもっとそれが頻繁に起こる。(子どもは)日本語初心者だから、「ああ、伝わってないな。」「1回目言っても伝わってないな」と思ったら、2回目は伝え方を変える。

2回目に言っても「ああ、伝わってないな」と思ったら、3回目は伝え方を変える。それでも伝わってなかったら、4回目も伝え方を変える。

「さあ、どう言おうか」「どうしようか」と思考を使うと、「イライラ!」とか、「ワーッ」というのが抑えられる。実は。

簡単な説明になるけど、思考を使えば使うほど、感情の暴走が抑えられる。

乳児さんは本当に快、不快だけに生きてるよね、感覚だけでね。

幼児さん、就学前から低学年、小学校、10歳以前ぐらいまでは、まだ人間の脳になれてない。猫の脳から犬の脳になって、まあまあ幼児から、小学校低学年、10歳くらいになるまでは、「おさるのジョージ」です。「ジョージって誰ですか?」って、『おさるのジョージ』です。子ザル。サルの中でもまだ子ども。

ジョージはめっちゃ賢いよね。ジョージは子ザルの中でのエリートだけど、その段階なんです。10歳ぐらいになったらやっぱりちょっと変わってくるから。

どうしてかというと、抽象的な思考がちょっとできるようになるのよね、今、目の前のことだけじゃなくて。それまでは、今目の前のことじゃないとわからないのよ、わかった風だけど。

だから、時間の概念とかもまだあやふやだったり、なかったりするから、だから子どもの中で「早く早く」とか「急ぐ」ってないのよ。今を生きているから。(おさるの)ジョージだから。

だけど、見た目がもう一丁前に喋って、一丁前に走って、一丁前に口答えするから、小さい大人と思っちゃうんだけど、ちっちゃい大人じゃないのよ。10歳超えて、まだ人間じゃないよ。ようやく大人のサルなってきたかな。なんですよ。

大人の人間の脳になるのは30歳だからね。いわゆる成人みたいなところで、ようやく人間の脳だな。人間として進化を始めて、大人の人間になるのは、脳で言えば30歳。

だから見た目で振り回されないで、言ってることに振り回されないで。今はまだ、脳でいえばまだ「(おさるの)ジョージだよね」と(考えて)。

『おさるのジョージ』に出てくる黄色い帽子のおじさんは、こんな風には言わないでしょ。「何回いうたらわかるの」と言わないですよね。何で言わないかと言ったら、相手をちっちゃい大人とは思っていないからね。

見た目がもちろんサルと言う事もあるけど、相手はそれまでジャングルで過ごしていたサルの子どもだから、人間の大人の社会のルールやマナーなんか知らなくて当たり前。

だからそこを求めてないし、わからへんのやったらわかるように教えてあげたらいいし、本能が本能のままに、ちゃんと心地良く伸びゆくように環境を整えてあげたりしてるでしょ。

おさるのジョージを好きなお子さんは多いけど、『おさるのジョージ』の皮をかぶったというか、形をした中身は子どもそのものですからね。ジョージが(何かを)やらかすから、物語になっていく。

「やらかすと」いうのが、「やってみよう」という伸びゆく本能だったり、「知りたいな」、「やってみたい」というのが、伸び行く本能なんです。最初に説明した「育つ」と言うところの、伸び行く本能なんです。

快か不快かで生きてる。子どもはまだまだ本能で生きてるから。

大人も快、不快はあるけど、不快のスイッチが「ピッ!」とついたら、不快のスイッチがピッ!とついたら、もう本能的に逃げるか戦うかしかない。

快のスイッチが「ピッ!」っとついた時は、エンドルフィンとかドーパミンとか快楽物質が脳内伝達物質としてピュッと出るから、その中には意欲の物質も含まれてるから、快のスイッチが「ピッ!」とついたら、もっとそれをしよう、もっともっともっともっというのが本能的に出てくる。だから好きなことはやめられないんです。

好きなことやめようと思ったら、もう心ゆくまで堪能して。もういいって満足するか。

今これをやめても、今ここでしか生きてないからね。今ここでやめても、他にまだ楽しいことがある見通しがつく。今これをやめても、また別の機会で必ずできるっていう見通しがつく。

見通せる力って大事なんだよ。見通しがつけたらやめられるけど、そうじゃなかったら、だから、いかにわかる形で(教えてあげるか)。

いつもいつも100%満足してあげられたら、満足させてあげられたらいいけど、大人はとにかく時間に振り回されてるからね。とにかく時間に振り回されてるから。

だから、その子その子、その人その人によってね、見通す力には違いがあるからね、その人の理解や度合いに合わせて、これが終わっても、これをやめても別の楽しみがあるよ、これをまたいついつできるよという見通しをわかりやすく立ててあげる。

不快のスイッチが「ピッ!」と入ったら、戦うか逃げるか。

不快のスイッチが入って、戦うか逃げるになってるときは、もう何を言っても入らない。

言葉が通じないんです。

感情とか本能を司ってる本能の脳に、理性と思考の脳がかぶさっているのよね。

肉まんで言ったら肉の部分が本能の部分。肉まんの白いところ、皮って言わないかな、生地・パンが理性の脳。で生きるための脳だから、本脳って、強いのよ。そして先に作動するんです。

本能が作動して、理性の脳が抑えてというのをずっと繰り返してる。今この瞬間も、私達は、子どもだって大人だって、こっち(本能)が先に作動して、理性が抑えてというのをずっと、これの繰り返し。

不快のスイッチが「ピッ!」入ったら。生きるためには、不快のスイッチも要るのよ。

そこから逃げないと駄目だから。「やばい」って思って。「やばい」と思うというのは、命を守る行動だから、作動するようになっていて、不快のスイッチがパンと強く入ったら、こっちの理性の脳をパーンと飛ばしてまうんです。イメージですよ。

頭蓋骨があるから飛ばないけれど、それぐらい強いんです。

ワーとなっている時というのは、不快のスイッチが「ピッ!」と入っとるときに言葉が届かないっていうのは、飛んでしまっているから、こっちに思考が入ってるから。

言語の理解もこっちに入ってる。だから飛んでる状態に何を言っても入らないんです。

飛んでる時に、暴言を吐いたりしている時も、別にそれを言うたれと思って言ってるわけではないんです。飛んでしまっているから。

感情を司っている偏桃体、記憶を司っている海馬は、こっちの本能の脳の中でつながっている。隣同士にあるんです。

なので、不快のスイッチがピーンと入って、扁桃体が作動したときには、海馬っていう記憶を司っている所も一緒に作動して、不快なときに、何か仕入れた言葉が一緒に芋づる式に“つるつるつる”って出てくるんです。だから暴言になる。

だから、相手を傷つけるような言葉とか、「これを言うたれ」と思って言ったんじゃなくて、スイッチが入ってしまったら、扁桃体と海馬は繋がってるから、ツルツルツルツルって(言葉が)勝手に出てくる。

だから、それにいちいち傷ついて、「あんなこと言われた」、「こんなこと言われた」と

へこむんじゃなくて、「ああ、そんなこと言わないとあかんくらい、暴走したんやな。」と(気づいてあげてください。)

そんな行動をしないといけないぐらい、破壊行動するにしても、紙を破るにしても、何にしても、怒って何かを蹴散らすにしても、何をするにしても、そんなんせなあかんくらい、しんどい思いをして暴走してるんだな、本能が。(って思ってください)。

正常な理性が働いてない状態だなって。

で、戦いの状態になっている時はわかりやすいよね。暴言を吐いたり、ワーと言ったり。ちっちゃい子だったら、保育園ではよくあるガブットと噛んだり、何やかんや言うて暴れたり、ぎゃーっと言ったりするから。

「戦う」(という選択)を取っている時は分かりやすいですが、「逃げる」を取っとるときがね、ここ(本能)が飛んでるっている事が気づきにくいのよ、どうなってるか。

ちっちゃい時は本当にわかりやすいのよ。本当に逃げるから。大人と子どもってね、大きさが違うでしょ。当たり前だけれど。目の高さが違うでしょ。動物の本能として「でかい物は怖い。」って刷り込まれてるのよ。「でかい方が強いぞ」って。何かフグにしても、クジャクにしても、ハリネズミにしても、猫でも毛を逆立てて、できるだけでかく見せるでしょ。威嚇するとき、喧嘩する時。でかく見せるのは、自分の方が強いぞって、威嚇するために、膨らましたり毛を逆立てたりするわけ。

だから、本能的に、でかいものは怖いと刷り込まれてるんです。

大人と子どもって大きさが違うから、何か「ワー!」っとした空気出しながら、「がー」っと近づいてこられただけで、ちょっと飛びそうになるんです。「パカパカパカパカ」って。

で、何かそこで怒った口調で「わー」って言われたら「パーン」って飛ぶんです。

小さいうちは本当に逃げる。「何か来た。怒られる。」と思ったら、本当に体が逃げるのよ。赤ちゃんっていうか、動けるようになって、2歳とかね、そんな小さい時は本当に逃げる。

「逃げたな」って思うから、連れ戻されるでしょ。抱っことができる小さいうちは。連れ戻されると、もっと逃げる以外の他の方法を考えないとって、逃げることしか頭にないからね。

で、これは余計にしんどいと思うのよ。逃げたら連れ戻されるから。そしたら体は逃げないようになって、上から怒られるでしょ。ここから怒られたときに、大人の顔がここにあったら、こっちに向く(顔を正面に戻される)。

これ以上、不快の情報が入ってきたら、「もうもちません」って思うから、そこから逃げよう逃げようと、その情報を排除しよう排除しようという本能が働く。で、プイっとこっち向く(顔を背ける)でしょ。「お母さんの顔ちゃんと見なさい。」とやられる(正面に顔を向けさせられる)でしょ。「こうなったらもう何を言っても入らないな」ですよね。(と気づかないといけないのだけれど。)

けど、(しがちなのが)「お母さんの顔をちゃんと見なさい」と(顔を向けさせら)れるでしょ。じゃあ、また逃げ場なくなるでしょ。逃げ場がなくなったらまた進んでしまうんです、ステージが。

逃げ場がないなと思ったら、顔を見なさいと言われているから、プイっとはしなくなるけれど、顔を見られないから、目をつぶる。白目をむく。「目を開けなさい。」って言われるから、目をつむっても、白目をむいたりしても怒られるから、今度、ここに顔があったら、キョロキョロ、キョロキョロ、チラっ、キョロキョロ、キョロキョロって、ずっと目線が泳いでいるみたいな。

そうなったら、ものすごく「逃げる」のスイッチが入っている状態ですよ。「逃げる」のスイッチが入っているサインですね。そんな風に、逃げるのスイッチが入っている時に、「ワーワー、ワーワー」と言ってみても、どんなに丁寧に優しく言ってあげても、(話は)入らない。

で、「キョロキョロキョロキョロしないでちゃんと目を見なさい」って言われるから、見ている風を装えるようになるんです。見ている風ね。直視できないのに、本当は。これ以上情報を入れたくない。

無理と思っているのに、見ている風を装って、本能に反した行動をするから、これ(聞き流す事)ができるようになるんですね。何か音だけ聞いて、ふわーっと聞き流して、頃がいい所で相づちだけ打てるようになるんですね。「もうわかった。もうしませせん。ごめんなさい。気を付ける。」とね。

「こんなことしていいの?」には「あかん」が答えだし、「わかってる?」には、「わかった」「気をつける」「絶対しない」と言っても、直後に同じ事するでしょ。

「わかったんだったら今度から気をつけるのよ」って言われても、直後に同じことする。

次の日にもまた同じことする。だから余計怒らないといけなくなる。「あなたさっき怒ったばかりでしょ、わかったって言ったじゃないの。」と。

だけど逃げてる時には、もう反射だから、「うんうん」「わかった。」とかは。そこが、逃げてるというサインがわからないまま一生懸命言うて、こちらもエネルギーを使ってするから腹立つんですよね。

じゃなくて、「逃げのスイッチが入ってるな。」です。逃げのスイッチが入ったときは、飛んだものが帰ってきてからじゃないと通じないんです。

もう一つ、もっとそれが行き過ぎると、自分を壊さないようにする為に、自己防衛反応ね。

これ以上不快が入って、これ以上つらくなったら、自分が壊れてしまうと思うと、自分で自分を守る防衛反応(本能)が働いて、心を壊さないように、「へへへーん」、「ヘラヘラ」と笑うんです。

人間困ったら笑うんやで。困りすぎると。笑って誤魔化すってあるんです。自分で自分を守るために笑って。

だから、分からなすぎたり、困ったり、怒られてるのにヘラヘラ笑うっていうのは、もう心が壊れるのを予防するために、防衛反応で笑うぐらい追い詰められてる状態、追い込まれてる状態。おかしくて、「お母さんの顔おかしいな」って笑っているんではないんです。「血管浮いてわ」って笑っているんじゃないんです。

それだけ追い詰めているんです。逃げるのスイッチ(が入ったんだな)です。「この子はしぶといな。全然通じへん」じゃなくて、「だからどんどん強く言わなくちゃ」じゃなくて。それぐらいすごく追い込まれてるんです。

逃げるのスイッチ入ってる方がすごくわかりにくいでしょ。

逃げるのスイッチはこういうサインだよっていうのを知っておけば、子どもの心を壊す必要もなくなるし、大人同士でもそうよ。ヘラヘラ笑っている人ね。ニコニコとヘラヘラは違うからね。

ニコニコとヘラヘラの違いね。実は困ってるんじゃないかなと。

じゃあ戻ってきたらいいんだけど、飛ばさない様に伝えないとあかん。

飛ばさないように伝えるためにはどうしたらいいか。

普段から、よくね、近くに行って、ボディタッチしながらいっぱい褒めておく、普段から。それをした上で、何かこれを伝えないといけないという時は、これね(CCQのスライド)。

近づいて、こちらが、ワーッていう雰囲気を出してではなくて、近づいて、高さを同じにして、小さい子だったら抱っこして、もう重たくなった子やったら、椅子に座ってお膝に乗せて、お膝に乗せられなくても同じぐらいの高さになって、どこかに触れて。

触れられるのが嫌な人は触ったら駄目よ。触れられるのが嫌な人で出なかったら、触れると安心物質とか落ち着き物質の脳内伝達物質が出るので、先に触れた方が(いい)。

だから、大人の感情のコントロール。で触れられた方は、それから遅れて落ち着き物質が出るから、だからボディタッチは大事。触れられるのが嫌じゃない人に対しては。

高さを揃えて。でかかったらまたパカパカするからね。高さを揃えて、抱っこなり、しゃがんだり、高さを揃えてボディタッチして、お手々を繋ぐなり、背中をさするなり、肩に手を置くなり・・・、ボディタッチして。

ボディタッチしようと思ったら、近づくでしょ。

だからここが一番大事で、遠いとこから言うと、大きな声になっちゃうから。

大きな声になっちゃうと、怒られてると、何か言われてると、すごい不快のスイッチが入りやすくなっちゃうから。

近づくと静かな声になるし。「何回言うたらわかる」を言う前に、最初から足しげく通うとこれ(近づく)もできるし。

これ(近づく)をしようと思ったら、普段からボディタッチをしながら、褒めておく必要があります。なんかこれやってほしい、これ伝えたい。これ何かわかってほしいというときだけ行ってしまうと、「また何か言いに来た」となる(逃げる)でしょう。「あっち行け」ってなるから。

だから普段から、近くに行ってボディタッチしながら褒めてもらっていると、ウェルカムになるから。ウェルカムの状態で、「こうこうこうしようね。」「こうこうこれは危ないから今はこうしておいてね」とか、どこかをタッチしながら、で飛ぶことを予防する。

自分も飛ぶことがあるのよ。大人も。「ワー」っと言ってしまって、「ああ、あんなにきつく言うんじゃなかった。」「言い過ぎたな」「怒鳴りすぎたな」って、自己嫌悪に陥るってあるでしょ。自己嫌悪に陥るのってしんどい。

あれ、何が起こってるかって、海の表面上に理性の脳を残して、本能の脳を海の底にバーッと沈めてるんです。沈んでいくからとてもしんどいんです。

自己嫌悪に陥っている暇は勿体ない、自分もしんどいからね。

大人が、いつも子どもコミュニケーションのモデルになっています。大人が言うように言ってるし、振る舞うように振舞ってる、外へ行ったら。口調がそっくりやったりとか。

だから、子ども同士同じ年齢とかだったら未熟同士、発達が似通っているから、喧嘩するのは当たり前。喧嘩はいいのよ、ちゃんと向き合って、主張し合える証拠だからね。大事なのは、どう仲直りするかです。

それは喧嘩しないのがもちろんいいけれど、関わらなかったら喧嘩にならないし、もう譲ってばっかりで我慢してばかりだと喧嘩にはならないし。

じゃなくて、喧嘩はちゃんと向き合ってる証拠で、主張もできてる証拠だからいいのよ。大事なのはそこからどうわかり合って仲直りするか。

それの一番いいお手本になれるのが、「わー」っと言い過ぎて自己嫌悪のときを、そこをチャンスにする。「さっきは大きな声出しちゃってごめんね」、「怒りすぎてごめんね」「こういうことをわかって欲しかった」「こうして欲しかってん」というように、

自分も落ち着いた状態、子どもも落ち着いた状態のときに、ちゃんとCCQを使って伝える。「さっきはごめんね」「こうこうこうしちゃってごめんね」、「これを伝えたかったんだよ」と。「わかってくれたら嬉しいな」って。

仲直りのモデルを、いつもお父さん、お母さん、先生が、そんなふうにしてくれてるなと思ったら、それをお友達にもできるし、できるようになるよ。

文章データ2(子育てでイライラしない為に)

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3.反抗期とどう向き合うか【自己肯定感を育む子育て】

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反抗期とどう向き合うか【自己肯定感を育む子育て】の動画

講演で話された内容です

「いやいや期」って、よく言うけど、「いやいや」って言うから、大人がつけたのは「いやいや・・・」っていう名称だけど、子どもから言うたら「わかってよ期」なんです。

いやいや、今はそっちが食べたいと思ってるのに、これと違う。今はそっち食べたいのに、いやとかね、そんな急に言われたって、まだ心の準備もできてへんから嫌なのよ。全否定じゃないのよ。全否定ではなくて、「今はまだ心の準備ができてないから無理だよ」とか、「いやいやそっち」と思ってるから、

お着替えだって、「お着替えすること自体が嫌」。そんなときもあるかもしれへんけど、「いやいや、こっち着たいと思ってるのに、それは嫌」、「今はまだこれしてるから、このタイミングはちょっと無理やけど、後でやったら着替える。けど、今すぐにはちょっと嫌」とか。そんな説明できないよね。

だから何でも「嫌や」と答えるけれど、「ギャーギャー」言われるから、イヤが増えてしまって、何が嫌か分からなくなってくる。

だから、それだけ自分の主張ができるようになってきて、わかるようになってきて、「そうか今は嫌なんだね」と、「後でね」と言って心の準備ができるまで待ってあげる。

「どっちがいい」みたいなんとかね。

大きくなってきて、10歳超えてきたら、10歳とは限らないけど、いわゆる、反抗期みたいなね。あれは自己主張期。

今日は思春期がテーマじゃないけど、思春期の脳はね、感情とか、前頭葉がブワッと大きくなる時だから、感情が暴走するように出来てる。

青虫からサナギになって蝶になるでしょ。サナギの中で、青虫だった形のが全部溶ける。溶けるのよ。固く包まれている。

なぜ隙間なく、あんなにカチコチになるかというと、サナギの背中から羽が生えてチョウチョになるんではなくて、一旦全部ドロドロに溶けるのよ。細胞レベルにもう一回分解されるんです。で、もう一回組み直して、あのチョウチョの形になるんです。だから、細胞がこぼれて、外に出て足りへんとならないように、あんなに硬い、隙間の無いカチコチのサナギというあんな状態になるんです。

あれぐらいのことが脳で起こってるんです。溶けないよ、脳は。溶けないけれど、それぐらいの大きな変化がグワーと。

イヤイヤ期の時もそうだし、自己主張期。いわゆる反抗期、信じてよ期の時もそうなんだけど、脳がグワーと大きく変化して、ニューロンという神経細胞が、グワーと交通網をワーッと広げる時に出てくる、実は。

だから生きるので精一杯になってるときなんです。大きな変化だから。

こっちのね、自己主張期のときは「信じてよ期」なんです。「わかったとるわ。うるさいな。」「信じてない。」から、こっちはこっちのタイミングでずっとね。お母さんの小言というやつ。ずっと言うみたいな。(子どもの気持ちは)「信じてよ。」なんです。

実はここが大事でね、子どもの人生が自分の人生って、ちっちゃいときはね、なんかここに入ってるからだけど、別なのよ。

そんな当たり前やんと思うかもしれへんけど、小さい時はそんな時もあるけど、ちっちゃいときも本当はそうよ。別なのよ。そこは全部自分の思うように動いてほしい、自分の思うようにしてほしいと思うから、「信じてよ」が出てくるんだけどね。

「どこかに書いてるよ」と話したコミュニケーションのモデルっていうのはこれ。「あかんよ」だけじゃ通じないのです。

ではどうすればいいか、をちゃんと教えてあげる。何がいけないのか。

ではどうすればいいのかが、わからへんかったら、繰り返すしかないからね。

ドぺーっと羊羹みたいに、延べ棒みたいなものをボンボンボンと積み重ねてあるけど、積木みたいな物をどんどんどんって積み重ねてあるけど、これ、ちまちまちまちま、ちまちまちまちま石垣で積んでいくイメージです。レンガとかブロックじゃない。石垣。

レンガとかブロックって、同じ大きさの同じ材質のね、同じ形のをセメントでくっつけて積み上げていくでしょう。だからもろいんです。石垣というのは、大きさも違えば形も違えば、何なら材質も違えばみたいな物を咬ませていくでしょ。

同じ人から同じことで同じようにというのを繰り返していくのが、レンガとかブロックとかのイメージ。石垣はいろんな人からいろんな場面でいろんなことでいろんな方法でというイメージやから、私は石垣って言ってる。石垣を積み上げていく。

絶対的安心感ってね。安心感ってそりゃ、普通の安心感と絶対的って、何がどう違うか、普通の安心感と・・・。「条件付きの愛」じゃなくて、「無条件の愛」です。

どう違う?条件付きの愛と無条件の愛と。条件付きの愛は、「たら」がある。「れば」がある。「できたら」褒めてもらえる。「頑張れば」認めてもらえる。「たら」が付いている。条件付き。なんかしたら、受け入れてもらえる。親の期待に、大人の期待に応えたら受け入れてもらえる。「たら」が付いている。

絶対的というのは、無条件やねん。「たら」とか「れば」はない。出来ない時があっても、「そんなときもあるよね」って。「そんなあなたでも大丈夫」。「頑張れないときがあっても、そんなときもあるよね」って、「またいつか頑張れる」「元気が出たときに頑張ればいいよ」って、「頑張れないときは休憩したら良いんだよ」。

親の、大人の、周囲の人の期待に応えられへんかったって、ちょっとこっちの期待や方法が違ったり、量が多すぎたのかな、水準が高すぎたのかもしれへんなと。

だから、「れば」「たら」がない。どんなあなたでも、そのままのあなたで、ちゃんと、「育む」の所ですね、受け入れますよ。受け止めますよ。そのままのあなたでいいんだよ。「たら」がないって大事ですね。

ここが盤石だったら、朝からの話題でなんですが、自分で自分の人生を途中で終わらせることはないです。ここが盤石だったら。朝からの話題と言っても、こんな話題は朝にした方がいいですよ。夜にしたらダメなんです逆に。夜はマイナスの考え事はしないよ。夜にすると、意識がそっちに引っ張られて現実がそっちに向かっていくから。

脳ってね、まだまだ未知のことがいっぱいあって、人間の意識ってすごいというのが、いろいろ研究でわかってきつつあってね。

ここで話に戻りましょう。

無条件の愛を、こっちは与えてるつもりでも、向こうがちゃんと感じられているか。

相手がちゃんと感じられているのが大事で、だから、一番最初のあれが大事なんです。大好きとハグすることが。

大好きとハグする。兄弟ができたら、下の子が生まれたら、上の子に程それ(ハグ)

をする、大好きって。上の子の方がパイオニアだからね。

基本的信頼感、また「基本的」がついてる。ただの信頼感じゃなくって、普通の信頼感は、自分の期待に応えてくれるとかね、この人信用できるなとか、そういう信頼感でしょ。基本的だから、「人っていいな」ぐらいの、もうそこまでの基本的。

「人っていいよね」って、「大人っていつでも頼りになるよね」、「どの大人でも助けてくれるよね」って、「人っていいよね」って思える。ここができてないと。「人っていいよね」、「いつでも大人って包容力があって助けてくれるよね」と。「人っていいよね」がないと。

また朝から、朝にしたらいいんや。「無差別何ちゃら」になってしまう。「無差別なんちゃら」ってピンとくる?無差別殺人とか傷害事件とかいろいろあるでしょ。事情聴取、聴取されたら、「誰でもよかった」と言ってます。誰でもよかったっていうのは、「人っていいな」が、これまで築けてなくて、ずたずたに傷つきまくってきた人です。

これまで出会ってきた人と、そんな関係を築けてなかったんだなって。誰でもよかったっていう事は。

だからすごく大事です。それを積み重ねて、これも石垣よ。石垣をガーッと積み重なった上に、自己肯定的存在感。

あのね、「私って自己肯定感が低いんですよね、へへへ」って言える人は、自己肯定感がちゃんとある。自己を肯定してるから。高ければいいのではないんですよ別に。高くないといけませんみたいな風潮になってるじゃないですか。

そりゃ高かったら過ごしやすいし、生きやすいよ。だけど、低かったらいけないじゃないんです。それで何か自分を追い詰めたりとか、「高くしなければ、しなければ」と自分を否定してしまうのが自己否定。自己否定に繋がるわけでしょどんどん。

「自分って自己肯定感低いんだよね、へへへ。」はめっちゃ肯定できている。それでいいです、それで。否定しないのが大事だから。

そんな自分では駄目だとか。もっとこうあらねば、こうあるべき、ここは駄目。「自分なんてこんなんじゃまだまだ駄目だ」と思うのが、否定だからね。

だから低い高いが、何か優れている劣ってるとか、もうそういう何か発想自体が、ちょっと実はナンセンスで、否定しないが大事だからね。ここ(自己肯定感)がズタズタで築けていなかったら、心がちょっと病んだりして、みんな一斉に、一斉にというか、みんなが口を揃えていうのは「消えてしまいたい」とか皆言われるんです。「消えてなくなりたい。」。存在を消したくなるのよ、ここが積み重ねられてなかったら。

だから、「別にどんな自分でも自分らしく、ここにいていいんだよね」って思える感覚。「存在してていいんだよね」って。「自分は大切にされる価値がある」、「自分は愛されるべき存在」ってちゃんと思える。

それは、ここからの積み重ねが大事なんだよね。それがあって「自分は何かできるぞ」って、「何かやれそうな気がするぞ」ってね。

なんかね、さっき「義援金の募金箱を置いてますよ」とかって言ってましたけど、「誰かの力になりたいな」という気持ちとか、何か役に立てている感覚。「役に立てて嬉しいな」とか。だから、「ありがとう」って言ってもらう事が、一番ここは感じられる。

「ありがとう」って、魔法の言葉だから、言った方も言ってもらった方も幸せになれる。この図はすごく大事でね。それを、子どもの側から言うとこれになるんです。

さっきの解説でね、子どもの側から言ったら、「尊重されたい。」「安心したい。」「信頼できる人に出会いたい。」「できることがあると感じたい。」。どれにも通じてるのがこれ。

本当は大人もこうなんだけれど。「楽しみたい」って。だから、楽しい方向へ楽しい方向へ、本人が好きなこととかね、そういうことに絡めて、楽しい方向へ、楽しい方向へ持っていってあげられると、ここはちゃんと積み重ねていくし、やってほしいなって思うこともちゃんと、寄り添って、向こうがちゃんとお願いしたら答えてくれるようになったりとかね。

楽しんで、もう何というか、生真面目に「こういきましょう」じゃなくってね、どうしたら楽しんでくれるだろうかというぐらいでね・・・・。

文章データ3(反抗期とどう向き合うか【自己肯定感を育む子育て】)

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4.完璧主義ではなく当たり前を沢山認めよう

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完璧主義ではなく当たり前を沢山認めようの動画

講演で話された内容です

都会でというか日本で、昔はね食べるのに精一杯。私の昔は原始時代ですが、食べるのに精一杯だったから、大人も食べるのに精一杯だったから、子どもに「あーせい、こーせい」なんかはなかった。

もっともっと時代が経って、つい最近の昔、戦中、戦後とかその辺、戦争時代ね。戦争時代も食べるのに必至。生きるのに必死ね。だから、そんな細かいことをごちゃごちゃごちゃごちゃ言わなかった。何なら子どもは動物だから、動いて当たり前。動いて当たり前の時代だった。

食べる・寝る・着る、衣食住、そんなにもう不自由なくなってきたら、目が「あーせい、こーせい」になるんやね。「ああなってほしい、こうなってほしい」。「じっと座っとけ。」

昔はね、もうそれこそ、縄文時代じゃないけど、原始時代はみんなで子育てをしていましたし、原始時代を超えても、戦争時代、戦後まもなく、昭和何年ぐらいまでかは、おうちの人が「そんな言うこと聞かないんだったら出ていきなさい」と。出ていったら近所のおっちゃん、おばちゃんがね、「僕どうしたんや、またお母ちゃんに怒られたんか」と言って、話を聞いてくれたり、しおった。

それが全部核家族になって、家の中で完結するようになってから、1人何役もしないといけなくなったから、とても大変です。

ワインと日本酒をちょっと比べます。何で比べるか。お酒と・・・

民族の思想、見方、考え方、捉え方ってすごく密接な関わりがあって、西洋はワイン、日本は日本酒。ワインの品評会ね。

まあ普通というか、一般的な・・・「ここがいいね」「ここがいいね」「ここがいいね」って。足し算方式。加算方式。チェック項目があって「ここがいいね」「ここがいいね」「ここがいいね」って。比べるという事は違うのよ。

日本酒はこれなのよ。昔ながらの品評会はね。「ここがちょっとな」、「ここが惜しいな」「ここがちょっといまいちだな」「ここが足りてないな」「ここがな・・・」って。「ちょっとな・・・」っていう所をチェックして、チェックが少なかった方が上位入賞となる。

独特なのよね。なんでこんなんになっているかって言ったら、お神酒(おみき)ってあるでしょ。神様のお酒。元々太陽も神様。太陽が作ってくれた国土の中で、神様が与えてくれた稲と水とで作ったお酒。今年こんなに素晴らしいお酒ができました。おかげさまで、神様のおかげです。ありがとうございます。とお返しする。奉納するのがお酒ね。元々は。だから完璧で当たり前なのよ。神様からいただいた材料で作ってるから。

それだけで初めは良かったんだけど、どんどんどんどん人口が増えて、日本中でいろんなお酒が作られるようになって、土地が違うから水も違うし稲も違うし。だからいろんな種類ができるでしょ。

じゃあどれを代表として神様にお返ししようかな、奉納しようかな。というので比べる必要が出てきたから品評会ができるわけ。必要になるわけ。完璧なものを、より完璧なものを、だから、完璧という理想の枠があって、「こういうのが理想だよね」という、できた枠があって、そこからちょっと外れてるやつをチェックして、より完璧に近いやつを、神様に代表して、今年の代表として、奉納、お返ししましょうみたいなのが始まりやから、減算方式。

だから、こっち(ワイン)は、加算方式やから、「グッド」、「グッド」、「グッジョブ」で褒めてもらえる。

こっち(日本酒)はグッドどころでは褒めてもらえてなくて、当たり前。グッドは当たり前。できていないところ、足りていないところ、そこが目につくように、ちょっと違うところが目につくようにもうできてるんです。DNAに染み込んでいるんですね。神話の時代から。できてないところ、至らないところ、足りない所ばっかり指摘されていたら、そりゃむっちゃしんどくなるよね。

だから、意識をこっち(ワイン)へ、こっちへ、こっちへ、こっちへ寄せていかないと、ものすごく生き辛いのよ。

昔はそれでも良かった。そんなことよりも、もう食べるのに必死だったから。食べるのに必死だったから、そこ(マイナス)も、そんなにそんなに重箱の隅をつつかれなくて済んでいたのよ。

だけど、だんだんこれ(マイナス)が際立ってきて、こっち(ワイン)は「あなたの生まれた年のワインです」って(勧められる事が)あるでしょ。「信じて待つ」ができるんです。ワインは。

日本酒は、あなたの生まれた年の日本酒ですと言われて、「大丈夫かな」って思うでしょ。よう飲まんでしょ。何年開封してないんだろうって。こっち(日本酒)は、すぐに変化。すぐに結果。「すぐ」と言うのがすごく求められる。

こっち(日本酒)は完璧で当たり前。工業、産業、農業とかなんでもそう。そういう面ではこっちが良かったんよ。

日本の製品は昔はね、日本の製品は不良品がないし。農業やったらどんどん品種改良を、工業やったら、どんどんどんどん新製品が開発されて新機能が付加されていくみたいに、どんどん便利なものができていって。

その変化がすごく早くて、でも、部品のネジ一つね、下の方の部品も一つ一つ全部正確で、精密で、もう完璧で当たり前だったから。「不良品はないですよ」だったから、輸出がパーっと広がって、戦後の復興もものすごく、経済的にも発展が“ぐわっと”いったんでしょ。

だからそういう面では良かったんだけど、一気に大量生産みたいになって良かったんだけど、それで上手くいったものだから、教育とかそんなものも、そっちに行ってしまったんよ。「これはいいぞ。」って。一気に大量生産。同じものをばーっという風に。人はみんな違うのに。

子育てとか教育はこっちなのよ。ワインなんです。工業製品じゃないから。こっち(ワイン)なのよ。だから意識を、こっち(ワイン)へこっちへ、こっちへこっちへ寄せていく。

目の付けどころを肯定的にする。

意識をしないと、もうDNAに、神話の時代からこっちへ組み込まれてるから、ほっておいたら、こっち(お酒)になってしまうんです。あかんところ、足らんところ、みんなと違うところが、目につくようにできてる。

それを、子育てとか教育はこっち(ワイン)やからね、工業製品を見るんじゃないから。

こっちへ、こっちへ意識を寄せていく。その意識がとっても大事。

それを、肯定的着目の意識を定着させるためのポイントが、A:当たり前のことも、B:馬鹿にしないで、Ⅽ:ちゃんと認めるのABⅭね。私のこじつけなので、ちゃんとの「ちゃ」のⅭね。めっちゃこじつけです。

これずっと言い続けてるけど、今は一番イメージしやすいと思うんです。

当たり前がどんなに大事なことか。地震の後だから、一番イメージしやすいでしょ。当たり前に命があって、当たり前に水が出て、当たり前に着る服があって、当たり前に雨露がしのげて。当たり前がどれだけすごいことか、今すごく感じられるでしょ。

当たり前のことも馬鹿にしないでちゃんと認めるって。当たり前がどんどん高くなりすぎて、当たり前が見えなくなって、気が付かなくなって、どんどんどんどんなっちゃうけど、

そこが一番大事なのよね。

日本酒的視点がすごくこびりついててね、至らない所、足りてないところ、できないところばっかり指摘され続けて育ってきてるから、我が国と諸外国の若者の意識に関する調査っていうのが「私は自分自身に満足してる」とか、「自分には長所があると感じている」とか、「自分の親から愛されてる(大切にされていると思う)」とかね、そんな何か自己肯定感を測るような項目がダーッと続いて、他にもいろいろあるんだけど、やってもやっても、やってもやっても、日本は最下位、ダントツで。何回やっても。昔から。

そりゃね。ずっとこれ(日本酒的視点)で育ってきてるからね。親の世代もその親の世代もその親の世代も。それは生きにくい。

ちょうど昨日の夕刊に2023年の自殺者の暫定値が出てたけど、2年ぶりに減りましたよと言ってたから、どんだけ減ったのかと思ったら、0.3%。数にしたら63人。2023年の暫定値だけど、2万1818人自殺されているんですね。まあまあ減りましたって言っても、63人減りましたっていうけど、小中高。

これね、若者っていうのは12歳から入っているからね。12歳から29歳。だから小学校6年生と中学生以上ね。小学生、中学生、高校生の自殺者は高止まりしてます。

減ったのは、その63人減ったので一番多いのは、成人女性。貧困とかがコロナとかで少しマシになったからかなと分析されていましたけれど。

小学生、中学生、高校生は、一番ピークのときから高止まり、減ってないんです。数にして507人。その前が五百十何人だからずっと高止まり。自ら人生を終わらせてしまうって、そんな子どもがよ。このね、肯定的着目の意識を周りがみんなしていくことがどれだけ大事か。

よくね、自分自身がこれを積み重ねて来れなくて、子どもの時から虐げられてきて、虐待とかを受けてきて、こんなん積み重ねられてないから、自分の子どもにできないと思ってしまう人もいるんだけど、もし親からそうされてたとしても、いくつからでも積み重ね直すことができるから。親からじゃなくても、今から出会う人で変わってくるから。

今接している先生たちとか、子どもがもしそうだったとしても、先生たちが関わることで変わってくるしね。

保護者にだって、そうやって関わってあげたらいいし。お父さんお母さん、自分自身が子どもの頃からそういう関わりをしてもらってきてなかったなと思っても、今関わっている人たち、これから関わる人達と一緒にここを積み重ねることは、いくつからでもできるからね。だから「無理」って思わなくても大丈夫。

意識ってすごく大事だから。意識するには、これです。当たり前のことも(A)ばかにしないで(B)ちゃんと認める(C)ですね。「当たり前のことも、馬鹿にしないで、ちゃんとみとめる。」のワークをちょっとしようかなと。

“やってはいけない叱り方”、とか“逆効果ワード”とか色々と書いているけど、絶対やって欲しくない事が、自己肯定感を一発でズタズタにするのが、「失敗を叱る」。だからここは目立つように大きく書いたけれど。失敗した時点でもう自分は傷ついているからね、その傷口に塩をすり込む必要はないから。

失敗には叱るじゃなくて、失敗には心配。失敗には心配をしてあげる。そして一緒にどうリカバリーしていくか。「次の失敗を生まないため、どう工夫していったらいいかな」っていうのを、一緒に、親の手元におる間に、一緒にそれを経験していく。乗り越えていく。

だから、失敗には叱るじゃなくて、失敗には心配ね。

当たり前のことを馬鹿にしないで、ちゃんと認めるってどういうことか。

今できていることが、まるでできてないことがペケで、できたりできなかったりしたのが三角としたらね。めっちゃ褒めるのは、このバツから三角に、初めてできた時とかですよね。

褒め上手な人、できたりできなかったりが、できたときにものすごく褒めるとかですよね。

当たり前のことに目を向けるという事は、中身は一緒で、周りの黄色い全部丸になっている事は、つまり前にできていて今はでき続けている事。ここ(当たり前のことをちゃんと認める)を忘れちゃうんです。ここだよって。ここを変わらずできてるって、すごく大事なんです。

文章データ4(完璧主義ではなく当たり前を沢山認めよう)

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5.子どもが当たり前にできている事を認める為のポイント

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子どもが当たり前にできている事を認める為のポイントの動画

講演で話された内容です

本当はね、子どもの、自分が今接してる子どものいいところで、やりたいところなんだけど、子どものことからすると、自分のことを棚にあげるからね。まず、自分のことから。

一般的なよいところって、優れてるところとか、長所とかそういう事ではなくって、

ここでABCね。人より優れているところじゃなくて、継続してできてる行動。

例えば、外が寒いから、寒くなくても、今みんな誰も裸足で来ていないし、パジャマで来てないし、ちゃんと外出用の服で来てますよね。それは今日たまたまではないですよね。継続してできていますよね。そういうことです。

靴だって右・左とお揃いですよね。右はブーツで左はサンダルとかね。いくら急いでいたって、左だけトイレのスリッパで来たという人はいてないでしょ。こう(互い違い)もなっていないですし。ちゃんと履いてるでしょ。今日たまたまじゃないでしょ。そういうこと。

考えてみてね、いっぱいあるから、朝起きて、何してきたかなって思い浮かべたらいっぱいあるよね。服着てとか、いっぱいしてきてるよね。今、椅子に座ってることもすごい事。

「さあ帰りましょう」ってなったらどうする?さあ帰りましょうって、これ終わって、今の状態から。さあ帰りましょうって、これ終わって、「さあ帰りましょう」ってなったらどうする。いっぱい(物を)出してるから、ペンを持ってるから、筆箱へ入れたり、もらったプリントとかをカバンも中に入れるよね。

カバンの中に全部入れたらどうする。上着着て、立ち上がって、歩いてね。そんな一つ一つ、あっという間にここが埋まりますよね。

スモールステップって言うけど、本当はもっともっとちっちゃくってね。とても沢山ある、フタを開ける、フタを閉める。一日どれだけのフタを開けてフタを閉めているか。さっきは筆箱って言ってたけれど、

カバンのフタだって、筆箱のフタだったり、お茶を飲むときのフタでも。家のドアだって開けたり閉めたり、鍵しめたり開けたり、いっぱいしてきたでしょ。努力してるところ。いつも継続してできとることでも、「よっし、やるぞ!」と思って、気合を入れてしていることは全部、努力してるところ。人によっては洗濯物をたたむのが面倒くさいわと思っているけど、やっているんだったら、それはとっても努力してるところ

毎日毎日難なくやってるように見えるけど、「内心は面倒くさい。」と思いながらしているんだったら、もうそれはものすごい努力。

子どもが、「これしてね」ってお願いしてやっとるときに、ものすごくふてくされながらとか、渋々やっている時は最大限の努力中だから、ものすごい褒めポイントなんです。「何やのその態度」と怒りたくなるけれど、そんな時ほどすごい努力中だしね。いっぱいあるよ、これもね。

何なら自分が子どものときから、これ苦手やなって(いうものが)あるでしょ。大人になった今でも。昔から変わらず苦手なこと。やってはいるけれども、苦手なこと。やってるけどもではなく、やれていないことも、もしかしたらあるかも知れない。苦手なこと、大人になっても苦手なことってありますよね。大人になっても苦手なことってあるやん。困ってるところで、苦手なことって。

一番最初のここですね。「困っているところ」というのは、自分の「苦手なこと」として持ちながらでも、ちゃんと社会に適応できてるよね。苦手なことは無くさなあかんとか、じゃないねん。自己否定に繋がるね。

苦手なこととして持ちながらでも、何とかかんとか、ここまでやってこれている。今もちゃんと生きていけている。上々です。

だけど、何か困るな、困るな、できないな、できないなと思うのは、“完璧”をめざしてないかなって。完璧をめざしちゃうのよ。誰かと比べてるのよ。誰かと比べる時は「ない物ねだり」。自分の足りないところ、できてないところを誰かの何かと比べてるのよ。完璧をめざすと、そりゃ完璧な人はいないからね。最後の「チョンチョン」は、“ギリギリセーフ”。完璧をめざすのは自分の得意なことでめざせばいい。

「自分の苦手なこと」と「誰かの得意」を比べるからしんどくなって、自分の得意と誰かの苦手を比べるから腹がたつ。なんでこんな当たり前のことができないのかって。じゃなくて、自分の得意なことで完璧をめざして、苦手なことはギリギリセーフでいいんです。アウトじゃなければいい。

アウトというのは、きっとみんなが思ってるより低くて、生きられてたら上々。今日は具体例を話す時間がないから、割愛しちゃうけど、みんなが思ってるよりもアウトのラインって低いのよ。ちゃんと生きてるでしょ。生きて伸びてるでしょ。ここまで。アウトはそうそうないよ。

アウトは自分で自分に見切りをつけて、人生を終わらせることだからね。自分で自分の苦手を、自分で自分の得意でカバーできたらもう上々だよ。自分の苦手を自分の得意でカバーできたら。

自分の苦手を自分のところでカバーできないときは、誰かの得意を借りてくる。だから一番大切な力は、「ちょっと困ってるんだ」、「ちょっとここ苦手なんだ」「助けて欲しいんだ」って。ちゃんとヘルプを求める力。そして、ヘルプを借りられた時に、してもらえたときに「ありがとう」と感謝ができる心。

「助けてもらってよかったな、嬉しかったな」って思う経験をどんどんどんどん積めてる人は、大きくなったときに「じゃあ自分も・・・」と。

さっきの自己肯定感ね、誰かを助けてあげたいなっていう気持ちが、どんどんどんどん育っていくし、自分の得意で誰かの苦手を助けてあげられる。

だから、「苦手なことは無くさなければならない」じゃなくて、苦手なことを「アウトでなければいい」、「ギリギリセーフでいいんだよ」って思う。大人も子どもも。

「努力無効の法則」ってあってね。「これこれせえへん」と言われたら。「怒ったらあかん、怒ったらあかん」って思ったら怒ってしまうとか、「比べたらあかん、比べたらあかん」と思えば思うほど比べてしまうという話を、最初の方にしたでしょ。「これこれしたらあかん」と思ったらそうしてしまう。という性質があるんです。

いつもやる実験。聞いててね。「キリンを思い浮かべない。」。一瞬たりともよぎった人、キリンが。おー。ほぼ。

思い浮かべたらあかんって言ったのに。語順の問題じゃないんです。「日本語ずるいわ」って思うでしょ。

「キリンを・・・」って最初に言うたら「そりゃなるわ」と思う。でもこれ、人間の本能なので、「ドント・リマインド」って言われても一緒なんです。

「今から言うものを思い浮かべたらあかんで。亀」。なるんです。「浮かべたらあかんあかん」ってなるでしょ。

だから「こうしたらあかん、こうしたらあかん」と思えば思うほど、そうなっちゃうのよ。だから、伝えるときも、「これこれしたらあかんよ。」じゃなくて、「これこれするよ」って言った方が、そうなりやすい。

これは脅し、「これこれせえへんかったら、これこれできないよ。」ではなく、「これこれしたら、これこれできるよ」ってね。

努力してるところの解説を、ちょっと飛ばしちゃったけど、思った時点でもう努力が始まってるからね。「ああしよう、こうしよう」って思った時点、考えた時点、気づいた時点で努力が始まってるから。

「早くしなさい、早くしなさい」と言いたい時でも、「しないといけないなー」ってわかってるけども、「動けないなー」ってなってる時が一番の努力中。

もうすでにいっぱい頑張ってるからね。「がんばって」よりは「がんばってね」って声をかけてあげた方が、認める声かけになるよね。「これ以上、頑張ってるのにどう頑張れというねん」という話だからね。

文章データ5(子どもが当たり前にできている事を認める為のポイント)

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