平野川と玉津橋(ひらのがわとたまつばし)
2024年4月12日
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東成区の歴史と文化を語るとき、東西に走る暗越奈良街道とともに南北に流れる平野川・猫間川の歴史を忘れることはできません。街道は大坂の東の玄関口玉造の二軒茶屋を起点として猫間川に架かる黒門橋(通称石橋)を渡り、しばらく行くと玉津橋に至り平野川を渡ることになります。
黒門橋は大正13年(1924年)に撤去され、猫間川も埋立てられて今ではその面影を見ることはできません。
平野川と暗越奈良街道とが交差する玉津橋は、交通の要所として賑わっていました。「津」という字は、港を意味しますが、船着き場もあり、玉造の港ということから玉津橋の名称が生まれたのではないかと思われます。玉津橋は昭和61年(1986年)12月に架け替えられ、歴史の橋として江戸時代の絵地図「増修改正摂州(ぞうしゅうかいせいせっしゅう)大坂地図=文化2年(1805年)」をエッチングしたパネル6枚が欄干に取り付けられ、歩道部分も暗峠につながる雰囲気を出すために石畳風に仕上げられています。
平野川は、寛永13年(1626年)頃から、柏原舟が河内の柏原と大坂の八軒家の間を輸送水路として利用し、最盛期には70艘の柏原舟が上り下りしたと言われています。
一方、大坂市中は運河の開削や河川の整備が行われ、水運が発達し、「人云う、天下の貨七分は浪華にあり、浪華の貨七分は舟中にあり」と言われるほどで、輸送の主役は上荷舟(うわにぶね)・茶舟で営業権を独占していました。当時、柏原舟と上荷舟・茶舟との間に水運の競合が激しく、紛争や訴訟が絶えず、柏原舟仲間は中道村に番所を設け、荷物の量などを記録し、訴訟に対応したという記録もあります。かつての平野川は生野区の「俊徳橋」北辺から東成区の「中本橋」までは極めて曲折して流れ、しばしば氾濫の元になったので大正12年(1923年)に直線に改修され、現在の流れに変わりました。
明治19年の玉津橋付近図
平野川は、奈良朝より平安朝にかけて百済郡が置かれ、その中央を流れていたことから、古名「百済川(くだらがわ)」と呼ばれていました。
また、猫間川の名称の由来についても、一説には百済川に対して高麗川(こまがわ)と呼ばれていたのが、訛って猫間川(ねこまがわ)と呼ばれるようになったと言われています。古代の大坂は、渡来文化の窓口としての役割を果たしながら発展してきました。
玉津橋
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