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071 平等橋付近の今川と息長川(おきなががわ)論

2022年2月14日

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平等橋の北側は今川緑道で、桜トンネルのような桜並木と、ユキヤナギが美しい堤の南端ですが、昭和の中頃まではこの橋から東に向かって現在の常磐会短大(旧巽池と北池)に至る平等堤の西端に当たり、さらに平野に向かう八尾街道(住吉-中野-平野-八尾)の中間点になり、また喜連環濠を水源とする喜連川と今川との合流点でもありましたので、主要街道の交差点や水路の合流点として重要な橋でした。
実際に江戸時代中頃に書かれた土橋家文書の中には、平等堤とその北側にあった元平等院の寺領であった字・平等との文字が読みとれ、平等堤がその北側にある平等院の寺領を、喜連川の洪水から守るために構築された堤だと云われていました。
しかし今川や喜連川は、江戸中期に「悪水抜」と表記されるような農用と生活廃水の細い水路であり、排水用水路として昭和中頃まで同様な形態で残っていました。
しかも、当時の平等橋の南側一帯は一面水田であり、川幅やその水量から到底奈良時代の息長川を想定できるものではありませんが、江戸時代の古伝承を伝える並河誠所や森幸安(注1)などは、今川や喜連川が奈良時代には息長川であったと主張し、東住吉区史も並河誠所の摂津志の記述を認めて、今川が息長川であると表示しています。

今川
(注1)森幸安
京都出身。伊能忠敬など後学にも大きな影響を与えた歴史地理学者。江戸時代に畿内と日本全国の歴史地理情報のほか天文図、世界図、地球図、東アジア図などを500点以上も、彩色・手書きで書き残し、各地に現存しています。後年、平野(ひらの)にも居住していました。

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