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貴志天国で育った才能

2014年6月20日

ページ番号:17123

貴志天国で育った才能

貴志家

貴志康一、網島町の家の庭での写真

 「貴志」は大阪では珍しい姓ですが、康一の祖父の出身地である和歌山には「貴志川町」という町があり、「貴志」という姓は少なくありません。祖父、彌右衛門(やえもん)は、大阪心斎橋筋で繊維問屋を営み繁盛させました。大阪の肥後橋に住んでいましたが、1899(明治32)年に現在の都島区網島町に広い邸宅を構えました。
 祖父はとても信心深く、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺・徳雲院を修復して、貴志家の菩提寺としました。毎朝4時に起きて仏壇にお経を唱えるだけでなく、寺参りと墓参りはもちろんの、毎月京都から僧侶を何人も家に招き、家の前を流れている淀川(現在の大川)にお経を唱えながら魚を放していました。これは、命の尊さを思いむだな殺生をひかえる放生(ほうじょう)といいます。また茶道にも造詣が深く、網島町の邸宅に茶室「松花堂」を設けました。江戸時代の文人僧侶・松花堂昭乗は、書画に秀でるとともに茶道も学び京都府八幡市石清水八幡宮に茶室「松花堂」を建てました。彌右衛門が邸宅に建てた茶室は、この「松花堂」をモデルに江戸時代末期に建てられたものを再建したものです。また「松花堂弁当」とは料理の香りが別の料理に移らないように、弁当箱を十文字に仕切り、ふたをかぶせた会席弁当のことですが、昭乗が絵具箱や煙草盆として愛用していた四つ切り箱の器をもとに考案されたと言われています。
 康一は、父奈良二郎と母カメの間に、二男六女の最初の子として1909(明治42)年3月に生まれました。
 父は家業の繊維問屋を継ぐ時に、彌右衛門の名前を襲名(しゅうめい)しました。東京帝国大学(現在の東京大学)哲学科で美学を専攻しましたが、教育の振興にも熱心で、私立甲南高等女学校の創設に貢献し、名誉教授をつとめました。また茶道について研究した文化雑誌「徳雲」を発行して、知識人や文化人と親交を深めました。父は商人であり学者でもあり、芸術・文化への理解が深かったことが康一を音楽家に導いたといえます。

西尾家

 康一の母の里である西尾家は吹田市にあり、代々天皇家に献上米を納めてきた豪農・庄屋の旧家です。邸宅には1895(明治28)年に建てられた母屋、明治時代から昭和にかけて活躍し、関西建築界の父といわれる武田五一が設計した離れのほか、茶室や露地があります。西尾家住宅は、文化的価値が高く評価され、現在は文化遺産として「吹田市文化創造交流館」となり、一般公開されています。
 母は琴、ヴァイオリンを習っていました。明るい性格の康一は、厳格な父よりも母の性格を受け継いだようです。母は亡くなる前に長女あやに「貴志天国」という言葉を残しているように、8人の子宝に恵まれて幸福な人生を送ったことがわかります。無念だったのは、嫁いだ次女が出産のために亡くなり、まもなく夫と若い康一を続けて失ったことでした。母と妹たちは遺品を保管し、それらを後に甲南高等学校に寄贈しました。康一は28歳という若さで亡くなったために「幻の音楽家」といわれていますが、母と妹たちの愛情が康一を蘇らせたといえます。

大阪で過ごした幼少時代

妹たちと網島町の家の庭での写真

 大人になった康一は「恋」という短い自伝小説を書きました。自分の名前を「茂」に変えるなどの脚色をしていますが、初恋の思い出とともに、祖父母、両親、妹などと網島で過ごした幼少時代の思い出や、音楽家になった動機を語っています。
 「恋」の中で造幣局の通り抜けについて次のように記しています。

 「花見の客、お酒呑み、出稼ぎの店、舞子、芸者、巡査、子供……なかなかの賑わいだ。それが又子供の時分には楽しみで春の花盛りのやって来るのを待ちこがれていたものだ。花見客がおいおい出だす時期になると毎日の様にお母さんにお小遣いをねだり、それでいけない時には内緒でお婆さんに頂いて下男の肩の上に乗せられ花を見にではなくて、人出と見世物を下男の頭上より意気ようようとながめるのが、とても痛快な事だった。」(原文のまま)
康一と妹あやの写真

 康一は花見の頃に出る屋台の金魚すくいに熱中し、食事の時間を忘れるほどでした。金魚すくいの面白さから釣りに興味を持ち、すぐ家の前を流れる淀川で魚釣りをしましたが思うようには釣れず、金魚を買って、自分で釣ったのだと言って家族に大笑いされた、という幼い頃の思い出も書き残しています。
 音楽作品にはヴァイオリン曲「花見」や歌曲「さくらさくら」がありますが、幼少期の花見や屋台での金魚すくいの体験、そして美しい桜の印象を曲に表したのではないでしょうか。
 1915(大正4)年、康一は、偕行社(かいこうしゃ)小学校(現在の追手門学院小学校)へ入学しました。この学校は「見るもの触るもの自然軍隊的」でした。鉄砲片手に近所の子を引き連れて遊び、祖父の勲章をこっそり持ち出したり、庭の立派な苔にサーベルを突きさしたりして大目玉をもらいました。四年生になると関心は兵隊ごっこから少年雑誌や活動写真、つまり映画に移りました。学校や家族にとがめられても、中学生だった叔父と一緒に活動写真を見に行くのを楽しみにしていました。

芦屋への転居

芦屋の家にて両親と6人の妹と弟との写真

 1920(大正9)年に大阪・神戸間に阪神電車、阪急電車が開通し、それに合わせて、大阪の富豪が少し離れた芦屋市、西宮市、神戸市、宝塚市に別荘を建てたり邸宅を構えることが流行しました。
 貴志家は1918(大正7)年の夏、康一が四年生の時に芦屋市伊勢町に転居しました。夏には、ほど近い芦屋浜の親戚を訪れ、海水浴に興じることができたので、康一と妹たちは芦屋を気に入っていました。父もまた海と六甲山に囲まれた芦屋の自然を愛していました。
 後に洋館が増築されましたがこの洋館は1995(平成7)年1月の阪神・淡路大震災で半壊し、取り壊されてしまいました。しかし、階段の踊り場を美しく照らしていた彩り豊かなステンドグラスは、芦屋市立美術博物館で保管されています。
 この洋館の玄関には「La maison des enfants 子どもの家」とフランス語で記された額がかけられました。父の親友の画家が作ったものです。その名のとおり絵画室、音楽室、演芸室、裁縫室などの部屋がそれぞれ子どもに与えられ、康一は絵画に興味を持っていたので絵画室を与えられました。

絵画と音楽

 貴志家の子どもたちは両親の愛情に包まれ、自然と文化豊かな環境のもとで育ちました。その様子を康一は自伝小説「恋」の中で次のように表現しています。
 「父の書斎の四面には子供の画を彼の親友の画家に描いて頂き、子供の室は各々趣味希望に依り、茂(康一のこと)には絵画室、或る妹には音楽室、演芸室等、又洋館の好きな者には洋館、母など坐らないと落ち着かないと云う者等には日本館-兎に角家全体が子供本位で生活も子供本位の生活だった。毎朝通学前の海岸の散歩、時々の遠足、毎土曜の学芸会音楽会、子供の会、芋掘デー、庭の芝生でヤンヤと云ってやる運動会-まるで幼稚園の様だ」
 芦屋に引っ越した康一は甲南小学校に転校しました。以前の学校では隊列を組んで規律正しく整列して登下校し、道で将校に出会ったら立ち止って敬礼していましたが、甲南小学校の自由な校風にあっては、草原の草を摘み、竹の葉で小舟を作って小川に流し、女の子と手を取り合って歌を唄いながら通うようになりました。
 この頃の康一は芸術に興味を持ち、芦屋に近い打出焼の窯に土をひねりに出かけたり、妹や風景の油絵を描いたりしています。後日、「芸術の輝きを見そめたのは此の時からだった」と回想しています。父の友人に画家がいたので、その影響を受けたのでしょう。
 また、甲南小学校6年生の時に書いた2つの作文『さまぎまの音楽』『修養』には、音楽についての関心の芽生えをうかがい知ることができます。
 『さまぎまの音楽』では家で過ごしている時に聞こえるさまぎまな音について触れ、松林の風にふかれる音、波の音、電車の音、かえるの鳴き声などが、あたかも、音楽であるかのように聞こえたのでしょう、妹の泣き声を、「涙をながしながら歌を唄っている」とも表現しています。
 「人は修養してはじめて天才というものがあらわれるのだ」との父の教えを受け、「修養を積んでいたので天才ベートーヴェンは耳が聞こえなくなっても音楽を好んだのだ」と『修養』で記しています。
 康一は天才音楽家といわれていますが、業績を追っていくと、才能とチャンスを生かした努力家であることがわかります。作文に書いたとおり父の教えである修養をおこたりませんでした。

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