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ヴァイオリニストをめざして

2014年6月20日

ページ番号:17316

ヴァイオリニストをめざして

ヴァイオリンとの出会い

ヴァイオリンを持つ康一

 ヴァイオリンは母がたしなんでおり、また慶応義塾大学の学生であった叔父が、大学のオーケストラでヴァイオリンを弾き、夏休みに帰省すれば熱心に練習していたので、なじみ深い楽器でした。父は子どもたちの中で誰かが弾くだろうと考え、子ども用の小さいヴァイオリンを買いました。小学生の頃の康一はヴァイオリンとの出会いについて、「この玩具が案外面白いので、それを顎に挟んでは開放弦でピーと弾いて見て、とんきょうな音色が出るのを喜んでいた」と語っています。母のかつての恩師であった大橋純二郎が毎週家に招かれ、康一はヴァイオリンを、妹たちはピアノを、家族みんなでコーラスを学び、毎週土曜日には貴志家で学芸会や音楽会を催しました。
 ヴァイオリンを習いはじめた頃の康一は熱心な生徒ではありませんでした。先生が来る日に大急ぎで学校から帰り、あわてて練習していたため毎回しかられるほどでした。練習は熱心ではありませんでしたが、蓄音機の前で目を閉じ、ヴァイオリン曲をうっとりとしながら聴くのが大好きでした。

M.エルマンとJ.八イフェッツの演奏会

 1914(大正3)年に始まった第一次世界大戦や1917(大正6)年に起こったロシア革命のために、多くのロシアの音楽家たちは亡命したり海外に活躍の場を求めました。その一人のヴァイオリン奏者M.エルマンが、康一の人生を決定づけたのです。
 1921(大正10)年2月、甲南小学校6年生の時、神戸で催されたエルマンの演奏会に父に連れられて行き、ヴァイオリンの魅力に圧倒されました。音楽会には着飾った外国人もいて、華やかな雰囲気の演奏会は忘れられない体験となりました。それからは、夕食後の家族団欒(だんらん)の場で、ステージに登場してきたエルマンの真似をして、家族を笑わせました。そして、熱心にヴァイオリンの練習に励むようになりました。
 1923(大正12)年11月、康一が高等学校尋常科(現在の中学校に相当)の時、父と初来日のヴァイオリニストJ.ハイフェッツの演奏会に出かけています。その時の感動を「かの清澄な純な妙音にふれた(中略)輝かしい明るいハイフェッツの芸術は多大の憧憬と喜びを与えてくれた」と、後に留学先のスイスで聴いた演奏については「僕を*提琴芸術の本殿に手を取って導いてくれた」と書き残しています。また、1923(大正12)年10月にはF.クライスラー、続いて翌年にはE.A.ジンバリストといった一流のヴァイオリニストの演奏に触れ、音楽家になろうと決心しました。宝塚交響楽団、関西学院や神戸女学院の外国人教授によるものなど数多くの演奏会に家族と一緒に出かけています。

*提琴:ヴァイオリンのこと

ヨーロッパからやってきた先生達

左より 叔父、ヴェクスラー、康一

 1923(大正12)年の夏休み、14才の康一と叔父が夜おそくまでヴァイオリンの練習に励んでいたところ、その音色がたまたま家の前を通りかかったロシア人のヴァイオリニストM.E.ヴェクスラーの耳にとまりました。ヴェクスラーはヴァイオリンを習う意志があるならば神戸のスタジオに来るように告げました。
 芦屋浜には、海水浴のために夏の間、外国人が多く滞在し、ヨーロッパ出身の音楽家も集まっていました。康一はそこにヴェクスラーを訪ね、ヴェクスラーもまた海水浴の帰りに貴志家に立ち寄り交際を深めました。また、オーストリア人J.ラスカも滞在していました。ラスカは1923(大正12)年に来日し、宝塚交響楽団の発足とともに指揮者として迎えられた音楽家です。康一はこうして多くの外国人と交流を深め、真黒に日焼けしていたことからチョコレートボーイというあだ名でかわいがられるようになり、それぞれの家庭の夕食によく招かれました。その際は片言でも相手の国の言葉で話すように努力しました。
 ヴァイオリニストヘの憧憬はふくらみ、父を説得してヴェクスラーの生徒になり、ラスカに音楽理論を学びました。

演奏会出演とオーケストラ

リサイタルの招待状

 家族、親類、知人が集まる貴志家の音楽会で、康一は腕前を披露していましたが、初めて多くの聴衆の前で演奏したのは甲南高等学校校内音楽会でした。そして1925(大正14)年 16歳時、ヴェクスラーの勧めで、大阪三木楽器ホールでリサイタルを行いました。
1925(大正14)年は東京と大阪でラジオ放送が始まった年です。
 大阪では三越百貨店屋上に大阪放送局が設けられ、その放送局のために大阪フィルハーモニー・オーケストラが結成されました。関西在住の音楽家が総動員され、康一は第2ヴァイオリンの団員になりましたが、大フィルの指揮者として知られた朝比奈隆も同じ第2ヴァイオリンでした。

留学へのあこがれ

 音楽を通して数多くの外国人と交際したことで、康一はヨーロッパ文化に触れる機会に恵まれ留学への憧れが強くなりました。この頃にスイス留学のきっかけとなったシュルツに出会いました。シュルツは良き音楽仲間で、彼の父はスイス国立ジュネーヴ音楽院の院長であったことから康一に留学を勧め、自分の部屋を康一に提供することを父に提案しました。留学の条件が整った1926(大正15)年9月に芦屋組合教会で、送別演奏会「貴志康一アーベント」を開きました。

ジュネーヴヘ留学

 1926(大正15)年、康一は甲南高等学校を2年生で中退し、12月神戸港を出港しジュネーヴ留学に向かいました。神戸新聞に「若き天才芸術家や芸術を漁る人」がヨーロッパに渡航したと記事になっています。同じ船に百貨店の高島屋社長、帝展で受賞した画家たちが乗船していたことからも分かるように、その時代に海外に出かけることができるのは、ごく限られた人たちだけでした。
 康一は寄港先の上海、香港、シンガポール、コロンボから日本の家族にあてて、近況と各都市の様子を絵葉書にしたためています。現在なら飛行機に乗れば1日でヨーロッパに着くところ、このように寄港しながらの船旅ですので、ジュネーヴに着くまで約40日間もかかりました。「淋しい一人旅にもかかわらず居ても立っても居られない様な嬉しさと未来の希望に酔わされていた」と留学への期待に夢を膨らませている康一でした。
 留学先は1835年に設立されたスイス国立ジュネーヴ音楽院で、シュルツ院長の家に下宿して家族同様のもてなしをうけました。スイスは永世中立国で、音楽院にはヨーロッパ各国から著名な演奏家を教授に招いていました。
 1918(大正7)年に指揮者・音楽理論家のE・アンセルメがスイス・ロマンド管弦楽団を創立し、一流に育てあげている時代でした。康一は1年半の滞在を次のように回想しています。
 音楽院ではヴァイオリンの他に理論、室内楽、管弦楽曲、ピアノについて学び、音楽で夜が明け、その余韻が残っている間に眠りについた。音楽院の雰囲気に刺激され一日8時間は練習に励み、世界各国の演奏と文化に触れる機会に恵まれた。真の西洋音楽の雰囲気を初めて知った。特に心に残った出来事は、ヴァイオリニストのブッシュによるヴァイオリン協奏曲を聞き大変感動し、学長とブッシュを訪ねた事である。ブッシュは珍しそうに日本について質問をしたり、自分の2つのストラディヴァリウスと康一の使っているヴァイオリンを弾き比べた。

スイスでの演奏活動

 19歳の康一は1928(昭和3)年5月と12月に、スイスの国際的保養地モントルーでの演奏会に出演しました。康一が演奏をした3日後には「愛のよろこび」を作曲したことで知られる有名なヴァイオリニストのF.クライスラーも同地で演奏しています。

ベルリンヘ

 1928(昭和3)年6月、ジュネーヴでの留学を終えた康一はさらなる研鑽を積むため、念願のベルリン留学に旅立ちます。途中ドイツの保養地バーデンバーデンで1ヶ月ほど滞在し、当地で開催されていたドイツ近代音楽祭を訪れ、世界各国から集まった音楽家の演奏を楽しみました。
 彼が滞在した一番の目的はベルリン高等音楽学校の教授となるC.フレッシュへの師事でした。フレッシュは、ハンガリー生まれのヴァイオリニストで、演奏活動を行うかたわら指導にも熱心で、数多くの一流ヴァイオリニストを育てています。
 バーデンバーデンにはカジノ、ダンスホール等の誘惑が多いことに困り、滞在していたホテルを離れて、山中にあるカソリック教会修道院の一室を借りて練習に励みました。バーデンバーデンには各国から学生が集まり、彼らから刺激を受けてますます練習に励む、と便りに書いています。

ストラディヴァリウスを購入

 1928(昭和3)年9月、康一はベルリンに向かう途中演奏用のヴァイオリンを求めてパリに立ち寄りました。ヴァイオリンーつ一つの製造社と価格、もとの所有者、音色などを調べ両親に報告しています。その後ベルリンでもヴァイオリンの商店を巡り、同じように便りを送っています。「熟考の上、いよいよきめたいと思います。(中略)ここで僕の一生の価値が築かれるのです。」とあり、ヴァイオリンとベルリン留学への情熱をうかがうことができます。
 1929(昭和4)年に、当時の時価で6万円、現在の貨幣価値に換算すると1~2億円もする1710年製の*ストラディヴァリウスを購入しました。このヴァイオリンは、19世紀初めにはイギリスの国王ジョージ3世が所有していた貴重なものでした。現在はハビスロイティンガー・ストラディヴァリウス財団が所蔵しています。

 

*ストラディヴァリウス:アントニオ・ストラディヴァリ(1644~1737)は北イタリアのクレモナで活躍したヴァイオリン製作者です。彼が作ったヴァイオリンは名前の通りストラディヴァリウスとよばれ、世界中の著名なヴァイオリニストに愛用されています。澄んだ美しい音色が特徴ですが、だれもが簡単にすばらしい音色を響かせることができるとは限りません。美しい音色を引き出すためには何年もかかる特別なヴァイオリンといわれています。

ベルリンでの生活

 1928(昭和3)年9月、19歳でベルリン高等音楽学校に入学しました。音楽を学ぶかたわら、演劇学校にも通いドイツ語や演劇史を学びました。
 ドイツ留学中はコロンビア、フィリピン、ロシア出身の留学生たちと親しく交際し、同じ境遇を励まし合い、堅い絆で結ばれていました。4人は毎日のように顔を会わせ、そろって演奏会に出かけては音楽談議に花を咲かせ、生活費に困った時は食べものを分けあいました。
 ベルリンで同じ下宿に住んでいた声楽家の中川牧三氏が当時を次のように回想しています。
 康一は下宿していた邸宅の広いサロンで、チェロを勉強していた斎藤秀雄、ピアニストのA.シュナーベルに学んでいた荒木道子の三人で室内楽曲を演奏していた。指揮法をO.クレンペラー、作曲法をP.ヒンデミットに学び、ヒンデミットにお茶に招かれ日本文化や音楽について語りあった。夜は演劇学校に通い振り付けや化粧を覚え、タキシードに身を包みステッキを片手に白い手袋を持ち、黄色人種を誇張するために顔に黄色いドーランを塗って高級レストランに出かけた。

フルトヴェングラー

左より 康一、フルトヴェングラー、京極高鋭

 当時は指揮者のW.フルトヴェングラーがベルリンとウィーンだけでなく、ロンドン(1924年)、ニューヨーク(1925年)でもデビューを果たし、地歩を確立した頃でした。彼は1920(大正9)年にベルリンの国立歌劇場の指揮者を務め、1922(大正11)年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に迎えられています。フルトヴェングラーが指揮した、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会にC.フレッシュがヴァイオリニストとして出演した際、フレッシュの娘は和服を着て康一の前に現れたというエピソードも残っており、こうしたことからもフレッシュー家の康一に対する親愛の情がうかがい知れます。
 このように社交性や行動力によって人脈を広げ、留学中の日本人の音楽仲間や海外の一流音楽家と交際しました。

ヴァイオリンの練習成果と演奏活動

 ジュネーヴに留学するまでに演奏していたのは小品が主でしたが、留学中にレパートリーを増やしました。曲はメンデルスゾーン、パガニーニのヴァイオリン協奏曲や、ベートーヴェン、モーツァルト、グリーグ、バッハのソナタ、そしてヴァイオリンに導いてくれたサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」等の難曲です。
 1928(昭和3)年、ベルリンに到着して間もない頃、昭和天皇の即位記念演奏会に、留学中の作曲家の弘田竜太郎、アルト歌手の柳兼子、舞踊家の藤間静枝とともに出演し、ジュネーヴでの成果を披露しました。

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