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日本での活躍

2014年6月20日

ページ番号:17410

日本での活躍

ヴァイオリニストとしてデビュー

左:ヴァイオリンを持つ康一 右:演奏会のプログラム

 1929(昭和4)年秋、康一は約3年ぶりに帰国しましたが、その道中シベリア鉄道の中で、ピアニストのR.シロタに出会いました。シロタは1931(昭和6)年から東京音楽学校で教え、日本の著名なピアノ奏者を育てた人物です。
 1929(昭和4)年に康一はヴァイオリニストとして日本デビューし、翌年、東京、京都、大阪で演奏会を催し、ストラディヴァリウスでの演奏会は話題を呼びました。各地でシロタの伴奏で数々の小品、ベートーヴェン、バッハのソナタを演奏しました。

 音楽評論家の野村光一氏は「貴志氏が、*洋琴の名手シロタ氏に従って、あれだけ大曲をこなした力量及び努力は十分認められる」と評しました。「貴志康一第二回演奏会『コンチェルトの夕』」では近衛秀麿が指揮する新交響楽団(現在のNHK交響楽団)のもとで、ブルッフとメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」を演奏しました。
 1931(昭和6)年には大阪、神戸、和歌山、奈良など主に関西地方で演奏会を催しています。

*洋琴:ピアノのこと

ヴァイオリンと作曲を披露

 康一はヨーロッパに日本文化を紹介するため、日本情緒あふれる曲を作ろうと考え、弦楽器と邦楽器による合奏曲と、弦楽器と邦楽器伴奏の歌曲、ピアノ伴奏の歌曲を作曲しました。
1932(昭和7)年5月に大阪朝日会館で催した「貴志康一作品発表提琴演奏会」では「甚だ未熟乍ら、唯我々日本人のみがもつ特殊な味を私のむねに響いたまゝ書き下したものでございます」と自分の作品を紹介しています。
 1935(昭和10)年9月、「帰朝記念貴志康一作品発表音楽会」を大阪朝日会館で、康一の指揮、関種子の独唱、宝塚交響楽団によって催しました。その演奏会では自ら作曲した歌曲6曲と交響組曲「日本組曲」を発表し、ベートーヴェンの「コリオラン」序曲、シューベルトの交響曲第8番「未完成」を指揮しました。

新交響楽団を指揮してデビュー

 1935(昭和10)年11月に東京で「貴志康一第一回帰朝演奏会」を催しました。その演奏会で康一は新交響楽団を指揮して、べー卜ーヴェン、シューベルトの他にチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」、ヴァグナーの「ニュルンベルグのマイスタージンガー」序曲を全曲暗譜で演奏しました。新交響楽団は現NHK交響楽団の前身で、1926(大正15)年に発足した日本最初の本格的な交響楽団です。新交響楽団を指揮したことによって、指揮者として東京デビューを果たしたといえます。そして作曲家の深井史郎に「われわれの世界にはじめて指揮者らしい指揮者を得たことを大いに祝福すべきである」と評されました。
 1936(昭和11)年2月、「貴志康一第二回演奏会」を東京の日比谷公会堂で、康一の指揮、関種子の独唱、新交響楽団によって催しました。ここでは「日本組曲」と歌曲5曲を発表し、ベートーヴェンの交響曲第7番を指揮しました。
 この後、東京では新交響楽団を、関西では宝塚交響楽団を指揮し、指揮者としての活動を本格的に始め、2月には、新交響楽団第164回定期演奏会でべ一トヴェンの交響曲第9番を暗譜で指揮しました。音楽評論家の山根銀二には「かれは今日迄のわれわれの持った最も才能ある指揮者である」と評され、作曲家の諸井三郎から「最高の『第九』演奏であった」との賛辞を受けました。また、作曲家で指揮者のK・プリングスハイムには「演奏会は若い日本の指揮者貴志康一のお陰で私が終生忘れることの出来ない日本音楽生活に於ける超特別の出来事」と高く評価されたのです。

ピアニストのW.ケンプと共演

ケンプと康一

 1936(昭和11)年4月、文化使節として来日したピアニストのW.ケンプをソリストに迎え、東京の日比谷公会堂でベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番と第5番を指揮し、5月には「ケンプ告別ピアノ演奏会」で共演しました。

ケンプ・新交響楽団とリハーサル

 ケンプは1954(昭和29)年に再来日したとき、毎日新聞紙上で「私の思い出の中にある悲しみをともなって居ます。この前私が日本を訪問した時、ともにベートーヴェンの曲を演奏した才能ある日本の指揮者貴志康一氏が、余りにも若く死んでしまったからです。彼はたしか大阪の人でした」と語っています。

映画制作

 康一は色彩映画、美学、心理学を研究していた研究家たちと「貴志学術映画研究所」を設立し、色彩映画の制作にとりかかりました。当時としては珍しい天然色のトーキー映画「海の詩」の制作には音楽分野で参加しました。トーキー映画とは、それまで主流だった音が無い映像だけのサイレント映画に対して、音と映像がフィルムに収められている映画です。康一のねらいは、映画を通じてヨーロッパの人々に日本の文化を伝えることで、作曲の動機と同じでした。そこで、「鏡」「春」等の作品では京都の渡月橋や舞子の姿、奈良の東大寺の映像に自分の音楽をつけたのです。

日本文化の紹介

 康一は芦屋の自宅を関西における拠点とし、東京では銀座に「貴志康一事務所」を構えて活躍しました。
 大阪の街の照明を増やしてライトアップしたり、欧米から一流演奏者やオーケストラを招いて音楽会を開いたり、外国映画を輸入したり、逆に日本の音楽、文学、美術、映画等をヨーロッパに伝えることなど多彩なアイデアを育んでいました。

早すぎる死

 ヴァイオリニストをめざし、また作曲にも力を注ぎ、そして指揮者として活躍した康一は、日中戦争の始まる前年1936(昭和11)年に病気で倒れ、盲腸炎をこじらせて腹膜炎を併発しました。山田耕筰に「ジョークマイスター」とあだ名されていたように、性格の明るい康一は病床に苦しんでいても訪問客に対して愛嬌を振りまきました。しかし闘病のかい無く、1937(昭和12)年11月17日、わずか28歳の若さで大阪大学病院で死去しました。康一の没後、日本は日中戦争、第二次世界対戦へと突入していきました。そのさ中の1944(昭和19)年1月に「貴志康一遺作発表演奏会」が大阪で催されています。

貴志康一記念室

 康一の手書き楽譜などの貴重な遺品は1976(昭和51)年多くの資料とともに遺族から甲南高等学校に寄贈されました。その2年後には同校に「貴志康一記念室」が設けられ、偉業の発掘・整理がされています。甲南高等学校が中心となって演奏会が催され、作品はレコード、CD化も行われるなど、誰もが手軽に聴くことができるようになりました。

偉業の顕彰

 1996(平成8)年3月、大阪市は康一が育った都島区網島町に「貴志康一生誕の地」の史跡顕彰碑を建立するとともに、1999(平成11)年3月、大阪の芸能の発展に貢献した功績をたたえ、「上方芸能人顕彰」を授与しています。
 また、都島区役所では毎年「貴志康一コンサート」を開催するなど、康一をふるさと都島の生んだ偉大な音楽家として、その名と業績をより多くの人々に伝える事業に取り組んでいます。

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