第2回難波元町地域
2024年6月1日
ページ番号:627824
座談会
地域の皆さんにお話を伺いました
【参加者】(左から)位上 謙二さん、幡多区長、木村 次郎さん、竹立 威三雄さん
戦前から戦後にかけての難波元町
区長
昔、難波元町の地域は「難波村」と呼ばれていました。昔のこのまちについて、教えてください。
木村さん
明治24(1891)年生まれの祖父の話では、子どもの頃はこのあたり一面、葱(ねぎ)畑だったそうです。難波では米はとれなくて、染料の藍もとれましたが、ほとんどが葱だったと聞きました。
当時、「難波」は葱の代名詞で、食べ物の「鴨なんば」も本来、鴨と葱という意味なんです。関東などでは「鴨南蛮」と呼ばれますが、この辺りでは鴨と葱だから「鴨なんば」。難波八阪神社に難波葱の由来を記した石碑があります。
竹立さん
葱は肥料がたくさん必要で、昔は一軒一軒、肥料(人糞)をもらいに行って畑に流していました。元町の地主は、自分の長屋の肥料であれば全部、畑に持って行って使えるので、自分の畑にたくさん長屋を建てました。そこから家賃収入も入るので財をなし、どんどん大きくなりました。戦後に課された財産税のため土地が売却され細かくなっていきましたが、元町には覚道さん、弓場さん、津和さん、鍋釜さん、道円さんなど、古くからの資産家がたくさんいます。
大正時代になると、市電が走るようになりました。このあたりでは、湊町、賑橋、八阪神社前、元町5丁目、それから国道26号を通って大国町、恵美須町の方に上がり、阿部野橋に行く市電が走っていました。
区長
昭和に入ると、地下鉄もできました。
竹立さん
大阪の地下鉄は最初に梅田―難波間が開通し、その後、天王寺にまで延びました。幼稚園児だった頃、地下鉄の車両を元町2丁目北の交差点のところ(以前、ロータリーがあった場所で、現在はジャングルなんばがある)から搬入するのを見に行ったことを覚えています。
木村さん
戦後の話になりますが、私が子どもの時にも地下鉄を掘っていて、大きなやぐらを建てて、上からドスンと落とす、それを国道のところで端から端までやっていました。家が近くだったので、落とすたびに家が揺れたのを覚えています。
区長
戦前のこのまちは、どのあたりが賑やかだったのでしょうか。
竹立さん
戦前の元町は商売人のまちで、消防署の東側に「難波市場筋」という、駄菓子屋やおもちゃ屋、日用品などの問屋の商店街が南北に続いていました。河内の方からも関西線に乗って仕入れに来ており、とても賑やかな、今の空堀商店街のような石畳の商店街でした。
位上さん
官庁通りでもあり、郵便局や警察、消防署のほか、銀行もたくさんありました。
竹立さん
市場筋は戦争で焼けて、そこで商売をしていた人たちは戦後、松屋町筋や鶴橋の商店街、天王寺駅前の商店街で店を構えるようになり、このまちには戻ってきませんでした。
市場筋の石畳は立派なものでしたが、戦争で焼けて邪魔になったので、欲しい人にあげたり、難波八阪神社の境内に敷いたりしました。
位上さん
今、八阪神社の倉庫とトイレの建替え工事をしていますが、土の下から石がいっぱい出てきて難儀しました。トラック3杯くらいの量がありましたが、あれはその時の石だったのかもしれません。
忘れてはならない3月13日
区長
竹立さんは、昭和5(1930)年の生まれと聞いています。子どもの頃のことなどを教えてください。
竹立さん
私は卸問屋の五人兄妹の長男で、小学校は難波小学校の前身の難波新川尋常小学校に通っていました。当時の児童数は1,000人ほどいて、小学校では狭くて運動会ができないので、今の帝塚山小学校の近所の百姓家さんの広い土地を借りて運動会をしていました。戦争が激しくなる前まではそのように開催していたと思います。
中学1年生の時から、学徒勤労動員のため軍需工場で働きました。工場では飛行機のラジエーター用の部品を塩酸で磨く仕事をしましたが、胸を病み、その後は学校の事務を手伝いました。
学校で空襲に遭い、校長先生と数人の生徒と事務員でひとつの防空壕に入ったとき、六角形の焼夷弾が防空壕の天井を突き破って落ちてきて、私の隣に座っていた学生の頭を直撃しました。板の上に盛ってあった土と鉄兜を突き破って、頭を抜けてイスの板も突き抜けて地面に刺さりました。即死でした。
たまに学校に行っても学校らしさはなく、校庭にはイモ畑があって、防空壕が転々としているだけ。学生時代という印象はほとんどありません。修学旅行は、上本町六丁目から伊勢神宮へ日帰りで行きましたが、小学校の修学旅行の思い出しかありません。
当時、満腹を感じた覚えはなく、周りを見ても、ふっくらしている者はいませんでした。 ごはんは麦なんかが混ざっており、どんなものでも口にできるものがあれば感謝して食べました。
昭和20(1945)年3月13日の空襲で浪速区は丸焼けになりました。うちの家の2階に焼夷弾が落ちたので、それまで訓練していたようにバケツで水をかけて箒で叩いて蹴って、火を消そうとしましたがダメでした。そこらじゅうが火事になり、防空頭巾や着ているものを水で濡らして、ロータリーのあたりから髙島屋(現在の南海なんば駅)まで父と2人で走って逃げました。着いたら、濡らしたものはみんな乾いていました。
気がついたら朝になっていて、周りにあった家が一夜にして何もない。大きなつむじ風が吹いて、怖かったのを覚えています。家からは髙島屋が丸見えでところどころに、家の土蔵が点々と残っている状況でした。
木村さん
消防署は鉄筋だったので焼け残ったそうですが、たくさんの方が逃げ込んだので空気がなくなって、多くの方がそこで亡くなったと母から聞いています。
位上さん
防空壕に逃げ込んで蒸し焼きになって亡くなった人も多く、かえって防空壕に入らずに助かった人もいたようです。
木村さん
父が戦争から帰ってきたとき、難波村は丸焼けで「なんば焼け」という名前があったほど。うちの家も石の灯篭が1つ残ったくらいで、あとは全部焼けてしまいました。母がその灯篭の中に、疎開先を書いた手紙を入れておいたので、父がそれを見つけて疎開先まで迎えに来てくれたそうです。
位上さん
昭和24年ごろ、疎開先から帰ってきた時もまだ焼け野原で、湊町駅は木造の平屋の小さな駅でした。四つ橋線の線路のど真ん中に1トン爆弾が落ちて大きな穴が空きましたが、そこが大きな池になっていて、魚がいっぱいいました。元町1丁目から東を見ると上本町六丁目の近鉄百貨店、右手には髙島屋と千日前の敷島シネマと大阪劇場、千日前筋には歌舞伎座、北には大丸やそごうが見えました。
竹立さん
浪速区では、小学校にあった名簿も記録も焼けてなくなってしまいました。学歴を証明するものもなく、同窓会も開けない。私が通っていた難波小学校(現在の浪速スポーツセンターの場所にあった)の卒業当時には1,000 人ほどの児童がいましたが、ちりじりバラバラになってしまいました。
元町でも多くの方が亡くなりました。大きな穴を掘って遺体を埋めて土葬にし、何年かして鯨幕(葬儀の際、式場などで目にする黒と白の縦じまの幕のこと)で囲って遺体を掘り返して火葬にしました。
大空襲でこのまちは焼け野原になり、非常に多くの方が亡くなりました。そのため私はずっと、「大阪の3月13日は忘れてはなりませんよ」と言い続けています。
終戦後に復学しましたが厳しい家計を支えるために中退し、教育を受けることができませんでした。子どもたちには、かつて今とは違う時代があったということを知ってほしいですね。今はよい環境で勉強ができるので、教育を受ける機会があれば貪欲に受けてほしいと思います。
台風被害と戦後の区画整理
区長
そして戦後、浪速区は区民の皆さんとともに土地区画整理事業にとりかかりましたが、大きな台風被害にも悩まされました。
位上さん
6歳くらいの時にジェーン台風の被害に遭いました。当時、元町1丁目に住んでいましたが、畳の上に座っていたら畳ごと飛ばされました。家が木造で東と西で高低差があり、下から風が吹きこんで床が持ち上げられたのです。それで、千日前に住んでいた叔母の家に逃げようと家族でタクシーに乗りました。当時のタクシーはフォードの大きな車でしたが、かつての大阪歌舞伎座のあたり(現ビックカメラなんば店あたり)で、タクシーごと10メートルほど風に飛ばされて、地面に落ちたのを覚えています。
第2室戸台風の時は西商業高校(今の堀江中学校)に通っていました。学校は木津川のそばにあり、川には木造の手漕ぎ船が10も20も並べられ、堤防にひっかけられていました。台風の時に学校が水に浸かってしまい、その船を下ろして桜川の方角に漕いで皆で避難し、家に帰りました。それまで、なぜ船が置かれているかわかりませんでしたが、災害用のためだということがわかりました。
竹立さん
戦後、バラック住まいだったのを、やっと念願の家を建てたのに、台風で家がたくさん潰れてしまいました。
区画整理で土地を持っている者は皆、多い所では所有地の3割以上の土地を提供し、そのおかげで道路や公園ができました。区画整理後は消防自動車が通れない土地はなくなりました。浪速区は空襲でほとんど焼けて土地だけが残ったので、わりと早く復興したのではないかと思います。
木村さん
最初から審議会の委員をしていた祖父が亡くなった後、私もその委員を15年間しました。ある時、細長い土地を持っていた人が隣の空地をみて「もったいないので増し換地をしてくれ」と強引に言ってきましたが、不公平になるからと言って止めたことがあります。
土地は多めに没収するので余りが出てきます。その余ったところを未指定地にして、例えば指定した土地の下に大きな石があって使えないような場合は、未指定地に替えたりしたのですが、そのような未指定地について増し換地を求める人もいました。もちろん清算でお金は払うのですが。
事業が完了した平成3年はバブルのピークに近い時期で、土地の値段が高くなっている時に本換地になったので、土地の値打ちが上がった人は精算金を受け取りました。しかも公共に土地を売ったことになり、非課税になるので、本換地にはあまり文句が出ませんでした。
区長
区画整理事業でまちは大きく変化したと思います。特に変化を感じられたことは何ですか。
木村さん
昔は関西本線が地上を走っていて、踏切が1か所、跨線橋もあったと思いますが、渡る場所があまりなかったので、子どもの頃は一度も西の方に行ったことがありませんでした。区画整理で広い道ができて、西の方にも行きやすくなりました。
区長
今の「JR難波駅」は地下にありますが、昔は地上にあって「湊町駅」という名前でした。その頃のエピソードがあれば教えてください。
竹立さん
昭和30(1955)年頃、結婚式を終えた新婚夫婦が夜、湊町駅から「やまと」という特急に乗って新婚旅行に出かけるのをよく見送りに行きました。あの頃の新婚旅行は熱海や伊豆のあたりが多かったと思います。
位上さん
私も昭和38(1963)年に東京に進学するとき「やまと」に乗りましたが、野球部の部員や友人、親戚など多くの人たちが湊町駅まで来て万歳三唱して送り出してくれました。
変わりゆく南海なんば駅周辺
区長
ところで、南海電鉄の難波駅から南のあたりも大きく変わりました。
木村さん
今、高速道路が走っている下には昔、「新川」という川がありました。昔の川は物流のための川でしたが、私がこどもの頃はすでにそういう働きもなくて、汚いどぶ川でした。そこでザリガニやカエルを釣りました。髙島屋の西の方に蓬莱などの店がありましたが、あの辺りの家は皆、どぶ川に背を向ける形で西側を正面にしていましたが、高速道路ができてきれいになったので、いつのまにか東側が正面になっています。
今のなんばパークスのところには昔、大阪球場がありました。子どものときは「南海ホークス友の会」に入っていたので月2回、無料で球場に入れました。球場の下には、スケートリンクや卓球場、こどもスポーツクラブなど民間の施設が入っていました。そのスケートリンクから出たのが山下一美さんで、札幌オリンピックの日本代表になりました。
位上さん
球場の東側には昭和25(1950)年に大きな「難波プール」ができました。弟が小学2年生の時、近所の子どもを集めてプールに連れて行く時、車に轢かれて亡くなりました。父が「小学校にプールがあればこんなことにはならなかったのに」と言って、昭和32(1957)年に学校、役所にプール建設のお願い・陳情を行い、浪速区の小学校では元町小学校のプールが1番早くできたと記憶しています。
区長
小学校のお話が出ました。小学校について何か思い出はありますか。
木村さん
昔の小学校の暖房器具は石炭ストーブでした。学校の隅っこに石炭置き場があって、石炭係の当番になると、そこに行ってバケツに石炭を入れて、新聞紙と火をつけるための小さい木も入れて、教室に持っていって火をつけるのがこどもの仕事でした。その時にやけどをした跡が今も残っています。
空襲で校舎が焼けてしまったので、難波小学校の児童は元町小学校に通っていましたが、元町小学校の3階も、爆弾が落ちて天井に大きな穴が開いていて、雨の日は水が駄々洩れでした。児童も増えてきて、難波小学校を元町小学校の分校にすることになり、それが何年か続きました。
難波小学校は東洋紙業が工場として使っていましたがその工場が立ち退き、難波小学校が復活して自分たちもそこに戻りました。
難波小学校がなくなる最後の時分は、上の子どもが入学する時の入学予定者が7人、下の子の時は4人で、そのうち2人ほどは私学に行ったのでさらに少なくなりました。そのような状況になり、元町小学校と合併しました。
区長
以前、この地域には難波小学校と元町小学校の2つの小学校がありましたが、児童の数が減ったため統合し、難波元町小学校として開校しました。大阪市では初めての出来事だったと伺っています。
竹立さん
今は我孫子に移転しましたが昔、月江院という大きな寺がありました。その寺のなかに難波小学校が生まれました。今、その跡地に浪速スポーツセンターが建っています。
木村さん
月江院の跡地は「大タク(大阪タクシー)」というタクシー会社になり、その後、パチンコ屋になり、今はマリオットホテルとマンションが建っています。
位上さん
土地は700坪ほどあったと思います。
区長
浪速スポーツセンターは難波小学校の跡地につくられたんですね。ところで、センターのある難波地域の町名は、以前は「難波中」ではなかったと聞きました。
木村さん
「難波中」は、もとは「新川」という町名でした。区画整理の時にいったん「新川」という町名に決まりましたが、「難波」という名前がついていないと、「新川」ではどこのことかわからないということで「難波中」に決まりました。
昔は、「船出町」という町名もありました。船が出てきた(発掘された)ので「船出町」と名付けられました。「髙島屋 船出別館」という建物も、今の住宅展示場のところにありました。今ではその町名もなくなり、そのこともほとんど知られていません。
ちなみに、私の母はずっと同じところに住んでいますが、はじめは西成郡難波村、次に南区難波元町、そして浪速区元町4丁目、最後の住居表示の変更で2丁目に変わりました。自分は全然、移動していないのに、町名変更等でこれまでに3回も住所が変わったことになります。
難波元町の史跡について
区長
難波八阪神社には毎日、多くの方が訪れています。なにか思い出はありますか。
位上さん
私は神社の獅子舞の「獅子子」(ししこ)で、今では巡行も午前中だけですが、昔は朝から、氏子の区域を中心に1日かけてまわっていました。難波から堺筋まで行き、千日前通りを行き、西は木津川までまわりました。高校生のころまで参加していたと思います。
木村さん
綱引きの巡行でも巻き寿司やアイスクリームをもらったり。あちこちの接待所でいろいろなものをもらえるので、それを楽しみにしていました。
全国の八坂神社の「さか」の字は「つちへん」の「坂」ですが、難波八阪神社は大阪の「阪」にあわせて「こざとへん」になっています。大阪市制ができた時かなにかに、神社もあわせようかということで変更したと聞いたことがあります。
区長
鉄眼寺も有名ですね。
木村さん
正式には瑞龍寺といい、その寺の鉄眼禅師という方がお経を版木にして日本に広めました。お経は昔、手で写していましたが、印刷にしたらたくさんの方に見てもらえます。それをされた方ということで有名になっており、俗称は鉄眼寺と言われています。
竹立さん
震災などに遭った人たちに寄付されたのが鉄眼和尚でした。
位上さん
鉄眼和尚は有名で、教科書にも出ていました。鉄眼寺はミイラでも有名です。
木村さん
カッパのミイラがあるといいます。顔がなんやら手がなんやらとか3種類ほど組み合わせられたものらしいです。
今と、これからのまちづくり
区長
難波元町の歴史についていろいろと伺ってきました。最後に、このまちのことを、どのようにとらえておられますか。
竹立さん
難波元町は信仰心の篤い、結束力の強い、良いまちだと思います。自慢をしたいのは、この狭い元町には「1社7カ寺」があること(難波八阪神社と7つの浄土真宗仏光寺派の寺のこと)。地域の人たちが相当努力しなくては、これだけのものを維持し続けることはできません。老人クラブもみんな仲が良く、勢いがあります。
位上さん
戦後は、新しい人が入って来て、商売人が一代で店を起こして活気のある町になりました。以前は個人事業者の社長がたくさんいましたが、少子化やサラリーマン化が進んで、地域の組織を運営するのが難しくなったと感じます。それでも今、50歳前後で頑張ってくれる人たちがいるので、また良い時代が来ると期待しています。
木村さん
私はまちは生き物だと思っています。日本橋も、昔は秤屋(はかりや)と古着屋の町だったのが電気屋のまちになり、今はポップカルチャーのまちになっているように、まちは変わっていきます。元町は、昔はいろんな商売屋がいましたが、その後一時、「元町パチンコ村」という地図があったくらい、鉄眼寺から八阪神社の南の正門までの間に、パチンコの機械をつくる会社、パチンコの修理をする会社、椅子やのぼりを売る店など、パチンコ産業に携わる事業所がびっしり入っていました。土地が売りに出れば必ずパチンコ屋が買うといった状況でした。
今はインバウンドのまちになり、特区民宿がたくさんできて、外国人観光客がいっぱい来ます。八阪神社の前は門前町のようになり、ジュースやベビーカステラ、お芋を売る店ができ、着物であたりを散策できるように貸衣装の店もあります。
元町というエリアは、泊まってあちらこちらに出かけるには程よい距離にあるので、一軒家を出ていかれると、二階は民泊ができて一階は店舗、といった格好になります。
これからの元町がどこに行くのか危惧を感じますが、今はそんな状況も踏まえて、これからのまちの発展を考えることが大事かなと思っています。
難波元町地域の歴史
昔の難波
昔々、大阪湾はこの地にまで入り込み、波静かな入り江には大小の船が浮かんでいました。その証拠が、浪速郵便局のかたわらに建つ「鼬(いたち)川くり船発掘の地」の碑(難波中3丁目)。くり船とは丸木をくり抜いた古代の船の呼び名で、1878(明治11)年、鼬(いたち)川と難波新川の連絡工事中に発掘されました。少なくとも千年以上前に使用されたものとみられています。
「難波」という字は古くから「なにわ」と読まれてきました。これを「なんば」と読むことは、平安時代の歌謡が文献上の初見と言われています。ところが、大日本地名辞書は「なんば」を「なにわ」の転訛とすることに疑義を持ち、むしろこの地の「縄(なわ)の浦」の縄がなまって、なば・なんばとなったのであろうとしています。「なんば」の語源については、いずれとも断定できませんが、この呼称の古いことは間違いありません。
近世
難波村について
江戸時代、大坂の町は「北組」「天満組」「南組」の三つの行政区画で形成され、総称して「大坂三郷」 と呼ばれていました。現在の難波元町地域はその郊外にあり、「難波村」と呼ばれて、三郷への野菜の供給地として畑作が盛んでした。
難波村は葱(ネギ)の産地で、鼬(いたち)川の鴨をダシにして、葱を刻んだうどんを名物とし、その通称が「鴨ナンバ」となったという云い伝えもあります。
葱のほかに難波村でよく採れた作物として、1836 (天保7) 年の「新改正摂津国名所旧跡細見大絵図」や、1863(文久3) 年の 「大阪産物名物大略」に、「難波村胡蘿蔔 (こむら)」(ニンジン) が挙げられています。この「難波村胡蘿蔔」は現在、金時人参として「なにわの伝統野菜」に認証されています。
また、藍の名産地としても知られ、「摂津名所図会大成」巻之八(1855年~)には、「難波村の藍を作るに妙を得たり。且土地に相応なるべし。一村中多く作りてこれを製法す」と記されています。この藍は、濃い色に染め上がる阿波産のものに対して、浅葱や空色など薄い色に用いられたそうです。
一方、江戸時代初期には難波村の中心地は東ノ町・西ノ町・北ノ町・中ノ町・上ノ町・山之町・下円之町・弓場ノ町の8力町から成り、法照寺をはじめ大小二十余りの寺院が建ち並んでいたといわれています。
難波御蔵・難波新川について
1732(享保17)年、近畿から九州にかけて雨が数十日間降り続いたことにより、イナゴやウンカなどの害虫が大量に発生し、西日本各地が凶作に見舞われました。江戸三大飢饉の一つに数えられる「享保の大飢厳」です。
これを機に、幕府は災害時の救援米の備蓄と年貢米の集散を兼ねた米蔵を難波村に設置し、東西70間(約127m)・南北180間(約327m) に及ぶ敷地に米蔵 8棟を建て、天領からの年貢米を収納しました。
翌年には、輸送路として道堀川大黒橋付近から御蔵に至る、長さ473間(約860m)、幅8間(約15m) の水路を開削しました。これが、「新入堀川」とも「極貧堀」とも呼ばれた「難波新川」です。「極貧堀」と称された由縁は、貧民に土砂を運搬させ賃金を交付して救済に努めたことによります。
この御蔵のあった地は、後に専売局大阪第一煙草製造所→大阪球場→なんばパークスとなりました。また、難波新川は埋め立てられ、その跡地に阪神高速道路が建設されました。
明治時代から戦前
近代工業の勃興、南海電鉄の開業
明治初期、難波村は市街地に接していたこともあり、民間による各種製造業が次々と創業されました。
難波元町のエリアでは、1879(明治12) 年に株式会社ニッピの前身である大倉組製革場が船出町1丁目(現在の難波中2丁目)に創業。1890(明治23)年、株式会社クボタの前身である大出鋳物が御蔵跡町(現在の中央区日本橋)に創業、1901(明治34)年には北高岸町(現在の敷津東) に新工場を設置しました。
難波御蔵は明治維新後、大蔵省の所管となっていましたが取り壊され、その跡地に 1904(明治37)年、大阪第一煙草製造所が設置されました。
また、1885(明治18)年、南海電気鉄道株式会社の前身である阪堺鉄道株式会社によって関西における私鉄第1号として難波~大和川間が開通しました。
1916(大正5)年には、このエリアにも市電が開通し(賑橋~八坂神社前~大国町)、1938(昭和13)年には地下鉄御堂筋線の梅田~天王寺間が全通しました。また、1932(昭和7)年に高島屋がターミナルビルとして全館オープン。1937(昭和12)年には御堂筋が開通し、ネギ畑だった難波は見違えるばかりの発展を遂げました。戰災、復興、そして再開発へ
戦災について
1945(昭和20)3月の第一次大阪大空襲により、浪速区は区域面積の約93%を焼失し、一面焼野原となりました。煙草製造所やクボタは焼失し、難波の駅舎も全焼し線路は破壊されました。ターミナルビルの高島屋は、全焼を免れたとはいえ、相当な被害を受け、ニッビ大阪工場も同様でした。これ以降も空襲はやむことなく、終戦前日までの市内への空襲は28回に及びました。
戦災復興土地区画整理事業について
戦後の浪速区は、人口が戦災前のわずか4%に激減し、当時、浪速区内の閑散ぶりを、俗に「浪速村」と称されたほどでした。特に急速に発展する南区内(現在の中央区)の繁華街に隣接することから、区民の復興に対する熱意はきわめて大きいものがありました。
戦災復興土地区画整理事業は、浪速区では5つの工区において実施されることとなり、元町地区は「湊町工区」、難波地区は「東部工区」として、それぞれ1947(昭和22)年、1949(昭和24)年に事業計画が認可されました。
土地区画整理事業は施行対象の区域が広範かつ事業内容が多様で、施行期間が長期に及ぶため、区域内外の道路や交通事情、社会情勢の変化が生じます。浪速区も例外ではなく、「湊町工区」ではJR湊町駅の南側への移転、「東部工区」では阪神高速道路大阪1号線の建設、国鉄と南海電鉄本線の立体交差に伴う南海電鉄新今宮駅の建設など、新たな動きも出てきました。これらの動きや変化に対応するため、湊町工区で5回、東部工区では7回に及ぶ事業変更が行われ、1991(平成3)年、ようやく両校区の事業が完了しました。
この事業により、広い道路やみどり豊かな公園が配置され、整然とした街並みができあがりました。難波元町地域では、新川公園(現在の難波中公園)や元町中公園などがこの事業により整備されました。
大阪球場の建設と南海ホークス
戦争により、まちは焦土と化しましたが、復興の槌音は次第に高まっていきました。
1948(昭和23)年頃、南海電鉄は大阪市内の土地を利用した集客事業の展開を図ろうとしていました。そんな折、焼失した煙草製造所の跡地 1万2,000坪(約3万9,600平方メートル)が処分されるとの情報を得、この土地を取得して南海ホークスのホームグラウンドを建設することにしました。当該土地は戦災復興土地区画整理事業の区域であったため大阪市と協議し、集合換地手法によって球場の敷地を確保することになり、1950(昭和25)年、ついに大阪球場が完成しました。まさに難波地区復興のシンボルでした。
難波新川の埋め立てと阪神高速道路の建設
かつて難波御蔵の輸送路として使われた難波新川は明治維新後汚濁が進み、1879 (明治12) 年に鼬川とつなげられました。戦後、土砂や瓦が堆積し、悪水が停滞していたことから埋め立てられることとなりました。1958(昭和33)年までに大部分が埋め立てられ、 一時的に大阪市バスターミナルが設置されました。
昭和30年代に入ると、日本はようやく戦後体制から抜け出そうとしていました。1956(昭和31)年度の「経済白書」は「もはや戦後ではない」と記し、当時の流行語となりました。自動車保有台数も増加し、本格的な道路整備が始まろうとしていました。
京阪神では、1970(昭和45)年に千里丘陵で開催される大阪万国博覧会に向けて、道路整備が急ピッチで進められ、大阪市内でも高速道路が建設されはじめました。その用地の一部として新川の埋立地が活用され、1967(昭和42)年3月、阪神高速1号環状線「道頓堀~湊町」が開通しました。
変貌する難波地区
時代が進むにつれ難波一帯は商業地区として発展していきました。1965(昭和40)年、ニッビ大阪工場が移転し、跡地にニッビゴルフセンターが建設されて1970(昭和45)年にオープンしました。1972(昭和47)年には、南海電鉄が難波駅の大改造に着手し、「CITY構想」のもとに三期に分けて工事が行われ、1980(昭和55)年、商業施設「なんばCITY」が全館開業しました。
一方、1988(昭和63)年、南海ホークスが株式会社ダイエーに譲渡されました。大阪球場で南海ホークス最後の公式戦が行われ、40年近くにわたり親しまれてきた球場はその歴史を閉じました。
関西国際空港の建設が決定され、南海本線が空港へのアクセスルートとされたことから、難波を新空港の表玄関として位置づけ、周辺地域一帯を再開発して新しい都市づくりを行おうといく機運が高まっていきました。
新空港開港の2年後にあたる1996(平成8)年、「難波地区再開発地区計画」の都市計画が決定され、事業が本格的に動き出しました。
1998(平成10)年、大阪球場の解体撤去工事に着手。その跡地で「なんばパークス」の建設が始まり、2003(平成15)年に第1期部分の工事が完了・開業し、2007(平成19)年、全館グランドオープンしました。
また、1997(平成9)年、「なんばパークス」の南側にあったニッビゴルフセンターが閉鎖され、その後、しばらく住宅展示場となっていましたが、跡地の西側に2006(平成18)年、「ヤマダ電機LABI1なんば店」がオープンしました。東側はしばらく駐車場として利用されていましたが、新街区の整備が計画され、2023(令和5)年に日本初進出の高級ホテル、ライフスタイル型ホテル、ショップ&レストランなどで構成される「なんばパークス サウス」がオープンしました。新街区の誕生により、これまで不足していた宿泊や働く場(オフィス)、多様な飲食店の機能が提供されることとなり、観光やビジネスなどの拠点として、難波エリア全体の価値の向上に寄与することが期待されています。
年表
- 明治11年(1878年) 鼬(いたち)川と難波新川の連絡工事中に、くり船を発掘
- 明治18年(1885年) 阪堺鉄道開通(難波―大和川)関西初の私鉄電車の開業となる
- 明治22年(1889年) 大阪市が誕生。大阪鉄道開通(湊町―柏原間)
- 明治29年(1896年) 阪堺鉄道が南海電鉄株式会社と改める。
- 明治37年(1904年) 難波御蔵跡にたばこを専売する大阪地方専売局大阪製造所設置
- 明治40年(1907年) 鉄道国有法が公布され、大阪鉄道が国鉄となる
- 大正5年(1916年) 大阪市電難波・木津線開通(賑橋―八坂神社前―大国町)
- 大正14年 (1925年) 第2次大阪市域拡張、第1次浪速区ができる(人口149.890人)
- 昭和13年(1938年) 地下鉄難波~天王寺間開通、南海線難波―天下茶屋間の高架工事完成
- 昭和20年(1945年) B 29約90機が大阪地区を空襲する。浪速区は区域の93 %が焼失する
終戦
- 昭和22年(1947年) 戦災復興土地区画整理事業の設計認可(湊町工区)
- 昭和23年(1948年) 浪速税務署設置
- 昭和24年(1949年) 戦災復興土地区画整理事業の設計認可(東部工区)
- 昭和25年(1950年) ジェーン台風襲来、大阪球場開設
- 昭和27年(1952年) 府立体育会館開館
- 昭和36年(1961年) 第2室戸台風襲来
- 昭和38年(1963年) 市電賑橋―大国町間廃止
- 昭和40年(1965年) 地下鉄(四ツ橋筋)西梅田~大国町間開通
- 昭和42年(1967年) 阪神高速道路(道頓堀―湊町)開通(環状につながる)、浪速郵便局設置
- 昭和55年(1980年) 住居表示一部を残し実施、なんばCITYオープン
- 昭和60年(1985年) 住居表示完了、難波小学校・元町小学校閉校、難波元町小学校開校
- 昭和62年(1987年) 府立体育会館建替え
- 昭和63年(1988年) 大阪球場で南海ホークス最後の公式戦
- 平成元年(1989年) 浪速消防署設立
- 平成3年(1991年) 戦災復興土地区画整理事業が完了(湊町工区、東部工区)
- 平成6年(1994年) 関西国際空港開港、JR湊町駅をJR難波駅に改称
- 平成8年(1996年) 難波地区再開発地区計画の都市計画決定
- 平成10年(1998年) 大阪球場の解体撤去工事開始
- 平成15年(2003年) なんばパークス第1期計画完了、開業
- 平成17年(2005年) 浪速スポーツセンターオープン
- 平成19年(2007年) なんばパークス全館開業
- 令和5年(2023年) なんばパークス南側に「なんばパークス サウス」開業
難波元町地域の史跡と名所
瑞龍寺(鉄眼寺)及び鉄眼和尚 (元町1丁目10番)
黄檗宗萬福寺の末寺で薬師如来を本尊としています。当初、この寺院は薬師堂と呼ばれていました。
鉄眼和尚(1630~1682)は、当時、輸入に依存していた一切経を日本人自身の手で出版することを発願し、隠元禅師から一切経を譲り受け、宇治の宝蔵院で開刻に着手しました。資金は全国を托鉢し勧募することとし、この地を拠点とするために1670(寛文10)年に瑞龍寺名で再興し、13年後に一切経の木版6,956巻32万頁を完成しました。その間、洪水と飢饉に苦しむ人々を救うため、二度も一切経の募財を救済に投じ、三度目に目的を遂げ、「鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり」といわれました。1682(天和2)年、おりから大飢饉が近畿地方を襲い、鉄眼和尚は事業のための資金を全て投げ出し難民救済にあたりましたが、53歳で歿しこの地で荼毘に付されました。人々は「救世大士」と称え、以来、鉄眼寺の名で親しまれています。
一切経は700巻もある大般若経から264文字の般若心経に至るまで、総計6,956卷、版木約6万枚というぼう大なものでした。印刷技術のもとを聞いたもので、その当時までは写経にのみ頼っていた学問僧に一切経の教材を大量に提供し、その功績は世界の学界にも高く評価されています。
惜しくも1945(昭和20)年の空襲で往時の堂宇は全てが焼失しましたが、鉄眼和尚が作った一切経は重要文化財に指定され、現在も印刷が続けられています。
境内には大阪市史跡顕彰碑「鉄眼禅師荼毘処地」の碑のほか、俳人の半時庵淡々や八千房一世~十世の墓または碑、芭蕉の碑などがあります。
難波八阪神社 (元町2丁目9番)
古来、難波下の宮と称し、難波一帯の産土神(うぶすなのかみ)で、後三条天皇の延久年間(1069~ 1074)には牛頭天王の古社として知られ、かつては七堂伽藍が立ち並んでいました。明治維新後、神仏分離により寺は廃絶し1872(明治5)年に郷社となりました。
当社の祭神、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治され、民の困苦を除かれた故事に基づき始められたという年頭恒例の神事である綱引神事は、現在は毎年1月の第3日曜日に行われ、祭り当日の朝から神事参加者が縄を綯い合わせ八頭八尾の「八岐大蛇」形の綱をつくり、境内でその年の恵方に引き合った後、綱を担ぎ、神社の周囲を巡行します。1719(享保4)年 初演の「平家女護島」(近松門左衛門作)にこの神事が登場します。また「摂津名所図会」 (1796年・寛政8年)や「摂津名所図会大成」(1854~60年・安政元年~万延元年) にも紹介されています。2001(平成13)年度には、大阪市で初めての無形民俗文化財に指定されました。
1945(昭和20)年の戦災で焼失しましたが、1948(昭和23)年に復興、1974(昭和49)年に改築され、都心部の社として近代的に生まれ変わりました。境内には、高さ12メートル、幅11メートル、奥行10メートルの巨大な獅子頭の形をした舞台があるほか、江戸時代に木津、難波村の市場開設にあたって幕府の認許をとるため大いに力を尽くした、時の代官篠山十兵衛を祀っています。
難波葱発祥の地の碑 (元町2丁目9番)
難波八阪神社の境内にあり、碑文として、以下のことが書かれています。
「難波村の葱栽培は享保10年(1725)に所見され、明治初年には50町歩あり、難波一帯は広大な葱畑であった。難波葱は葉の繊維が柔らかく、強いぬめりと香り、濃厚な甘みが特徴で、九条葱、千住葱などのルーツと伝わっており大変古い葱といえる。平成29年(2017)「なにわの伝統野菜」に認証された。」
鼬(いたち)川くり船発掘の碑 (難波中3丁目10番)
1878(明治11)年、鼬(いたち)川と難波新川の連絡工事中に、くり船が発掘されました。くり船とは丸木をくり抜いた船のことです。長さ二丈五尺六寸(約7.7メートル)、幅四尺二寸 (約1.3メートル) 、深さ二尺五寸(約0.75メートル) の複材式で、前後2本のくすのきで造られ、継ぎ目の部分は釘を使わず、巧みな仕組みになっており、一千年以上前のものであったそうです。くり船は、大阪城天守閣前に展示されていましたが、戦時中爆撃で破壊されてしまいました。
くり船の発掘は、かつての大阪湾はこの地域まで入り込んでいたことを示しています。くり船が発掘されたことから、そのあたりの町名は「船出(ふなで)町」と名付けられました。
浪速郵便局の北側に設置されており、碑文として、以下のことが書かれています。
「明治11年、難波入堀川と鼬川との連絡工事中、このあたりから大阪でははじめてくり船が発掘された。船出町の名はこれによったものである」
難波御蔵・難波新川跡の碑 (難波中2丁目10番)
なんばCITY本館との間にある、通りの歩道脇に設置されており、碑の隣にたてられた大阪市教育委員会の解説板には、以下のことが書かれています。
「江戸時代、このあたりには難波御蔵とよばれた幕府の米蔵がありました。享保18年(1733)につくられたもので、寛政3年(1791)には、今の日本橋3丁目にあった天王寺御蔵(高津御蔵)を合併しました。白い塀と松並木で囲まれた、約4万3千平方メートルという広大な敷地には、10数棟の建物が立ち並んでいました。その中には、三間×二十間(約200平方メートル)という大きな藏もあったといいます。
難波御蔵に米を運搬するために、難波御蔵と道頓堀の間に掘られた水路が難波新川です。幅は15メートル、全長は852メートルありました。
明治になって難波御蔵は廃止され、その跡は煙草工場になりました。難波新川も昭和33年(1958)頃から埋め立てられ、姿を消しました。」
大阪球場 (難波中2丁目10番)
江戸時代、そのあたりには白い塀と松並木で囲まれた幕府の米蔵である「難波御藏」がありましたが、明治になって難波御蔵は廃止され、その跡は専売局の煙草工場となりました。
戦後プロ野球の隆盛と大阪復興への願いが重なり、この工場跡地に球場を建設しようと、南海電鉄株式会社が1949(昭和24)年「大阪スタヂアム株式会社」を設立しました。
建築面積7,500坪、フィールド3,340坪、内外野スタンド3,980坪の広さで、スタンド収容人数3万5千人の大阪球場は、翌年、猛烈な突貫工事により起工8ヶ月で完成しました。また内野観客席には日本の球場で初めて「ボックス席」が、入場口には入場者数を正確に計る「ターンスタイル」と呼ばれる計数機付きのバーが設置されマスコミの話題となりました。翌1951(昭和26)年には関西初の夜間照明設備が設置され、「東の後楽園、西の大阪球場」と呼び称されるようになりました。また、球場隣接地には大阪アイス興業株式会社によるアイススケート場、ローラースケート場、ボウリング場なども併設され、大変な賑わいを見せていました。
大阪球場をホームグラウンドとする南海ホークスは1950(昭和25)年から1966(昭和41)年までの17シーズンを通し、リーグ優勝9回、あと8回はすべて2位という輝かしい戦績を残しています。 日本選手権でも勝利を収めた1959(昭和34)年は、読売ジャイアンツを日本選手権初の4戦の4勝で撃破しました。記念パレードは、そのころ数少なかったオープンカーを大阪中から集め、紙吹雪の舞う御堂筋を進んで行われました。
また、松竹ロビンス、近鉄バールス、阪神タイガースによる公式戦も開催され、1954(昭和29) 年度には大阪球場史上最高の有料入場人員114万2千人を記録しました。
しかし1988(昭和63)年、南海ホークスはダイエーへ売却、ホークス主催の試合が行われなくなったこの頃から、マドンナやサイモン&ガーファンクルなどの大物アーティストによる野外コンサートなどが開催され大変な好評を博しましたが、騒音や振動による公害からこれらコンサートも実施できなくなりました。
これにより球場活用の様々なプランが検討された結果、1991(平成3)年から開催された「なんば大阪球場住宅博」は日本で初の球場内イベント型住宅展示場という話題性やミナミの中心部に位置する立地、大阪球場内および周辺の商業集積など恵まれた集客環境が功を奏し、1998(平成10)年まで継続しました。
1998(平成10)年、難波再開発計画が具体化するなか遂に撤去工事が行われ、大阪球場はその半世紀の歴史に幕を閉じました。2003(平成15)年には「なんばパークス」として生まれ変わり、かつてピッチャーズプレートとホームプレートがあった位置に記念のプレートが敷かれています(「なんばパークス」2階の広場にあります)。大相撲三月場所 (難波中3丁目4番)
大阪における相撲は1692(元禄5)年、袋屋伊右衛門が官許を得て、西区高臺通に興行したのが最初といわれており、徳川時代大坂相撲としてたいへん賑わいました。難波では1869(明治2)年に定場所とされたのを初めに、他の土地を転々としながらも1904(明治 37)年6月場所より1913(大正2)年1月、翌1914(大正3)年1月から1916(大正5)年1月まで難波の土橋西詰にありました。そのため「土橋の相撲」として、大阪の人々に親しまれ、場所明けになると叶橋から賑橋の間に力士ののぼり旗が色とりどりに立ち賑わいを見せていました。
現在も難波にあるこの大阪府立体育会館(エディオンアリーナ大阪)が、なにわの春を告げる大相撲三月場所の常設会場となっており、毎年名勝負、名場面が展開され、多くのファンを喜ばせています。
旧体育会館は、1952(昭和27)年 講和条約の締結を記念して建設され、当時日本で初めてかつ東洋一の規模を誇る室内体育館でした。現在は旧体育会館が老朽化したため建て替えられ、1987(昭和62)年に新体育会館としてオープンし、地上4階地下2階の「スポーツ・文化の殿堂」として親しまれています。難波の繁華街に位置し、全国各地からのアクセスが良いことから、スポーツの国際大会や、全国大会で利用され、全国的に知名度の高い歴史ある体育会館です。浪速消防署 (元町1丁目14番)
大阪市で最初に開設された伝統と歴史のある南消防署は、1989(平成元)年に南区の分区により浪速消防署と名称を変更して歩み出しました。
昭和30年代には、浪速消防署には本署と南坂町、道頓堀、恵美須、上町、立葉の5つの出張所があり、1960(昭和35)年にスノーケル車、翌年に排煙車が配備されビル火災への対応が着々と進められました。また1970(昭和45)年に一部完成した「虹のまち」(現在のなんばウォーク)に分駐所が設置、翌46年には浪速出張所が開設されました。
庁舎は2000(平成12)年に近代的かつ機能的な建物に生まれ変わりました。
浪速区役所
浪速区は1925(大正14)年、南区の分割により誕生し、木造2階建ての庁舎が竣工しました。その後、急激な区勢の発展により10年も経たないうちに庁舎の拡張改築が必要となり1939(昭和14)年には鉄筋コンクリート3階建て地階付きの庁舎が完成しました。
しかし1945(昭和20)年、戦禍のため全焼に遭い(戸籍係倉庫のみが災禍を免れ、戸籍原簿の消失はなかった) 当時戦災のために休校中であった敷津小学校に区役所を移転しました。狭小の事務室であらゆる不便と困難を克服して満4年余りを過ごしていましたが、1949(昭和24)年、改修予算の決定と地域による庁舎復興建設委員会の強力な推進により一部を残して改修を終えました。1955(昭和30)年には浪速区創設30周年記念事業の一端として庁舎の残りの改修が行われ、3階講堂その他諸施設が完成しました。
庁舎は、老朽化により2002(平成14)年に7階建てのスタイリッシュなデザインの建物に生まれ変わりました。
参考資料
難波土地区画整理事業誌(大阪市難波土地区画整理組合)
- 古地図でたどる大阪24区の履歴書(本渡 章)
- 難波小学校創立百十周年記念誌(大阪市立難波小学校)
- 甦えるわが街(大阪市建設局)
- 浪速区史
- わが町を語る―区制50周年のあゆみ―、
- 浪速区制70周年記念誌
- 懐かしの風景画
- 大阪市HP、各史跡の解説板 など
(注)この記事は地域の語り部の方々の発言をもとに作成しております。歴史考証はしておりませんので、予めご了承ください。
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