古代の遺物の玉手箱、細工谷遺跡をご存じですか?
2024年3月22日
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本ページは天王寺区広報紙「天王寺」令和4年9月号から抜粋(一部編集)したもので、掲載している情報は当時のものです。
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(左上)1996年の細工谷遺跡調査(東から)、(右上)「百済尼」・「百尼」と書かれた奈良時代の甕、(下)出土した和同開珎
細工谷遺跡は、天王寺区の細工谷、筆ケ崎町、堂ケ芝の範囲に眠る古代の遺跡です。1996年に発見され、飛鳥時代から奈良時代(7~8世紀)の数々の資料が見つかりました。実際に遺跡を発掘された一般財団法人 大阪市文化財協会 東淀川調査事務所の岡村勝行所長に、発掘当時の話や、古代の天王寺区についてお話いただきました。
遺跡の説明をする岡村所長
出土した和同開珎
細工谷遺跡の発見と出土品
調査現場は幹線道路の建設予定地でした。小さな試掘調査を行った結果、古代の遺物を含む地層が確認され、約2000平米の本格的な調査を行うことになりました。中世の地層までは畑の跡が見られるぐらいだったのですが、古代の地層に至ってから多くの遺物が出土するようになり、状況が一変しました。
枝銭は奈良時代の溝の底から出土しました。新品の十円玉のような輝きがあり、6枚分の「和同開珎」がくっついていて、鋳型から取り外された状態の形のものと気づくには時間がかかりました。よく見ると溶けた銅が鋳型の先端に届かなかった失敗作品であることがわかります。貴重な銅は再度溶かされて利用されるため、通常こうした形で残ることはありません。日本最初の流通貨幣である和同開珎のこの枝銭は、発見から現在に至るまで全国唯一の資料となっています。その後、この溝からは約40枚の和同開珎のほか、鋳造・金属加工に関わる銅製品や道具などの出土が相次ぎました。このほかに遺跡からは和同開珎より古い富本銭も出土しています。
細工谷遺跡調査(1996年)
出土したばかりの枝銭
古代の天王寺区のすがた
さらに近くの大きな井戸からは百済尼、百尼、尼寺など、墨で書かれた土器が見つかり、百済尼寺がこの地に築かれたことが明らかになりました。百済(くだら)は朝鮮半島にかつて存在した国です。古い記録によりますと、660年の滅亡を機に日本に亡命した王族が難波の地に居住し、それを契機に百済郡が設置されます。その範囲は諸説ありますが、天王寺区、生野区にまたがる古来百済野と呼ばれた地域に重なります。細工谷の南西にある堂ケ芝には、百済尼寺とペアになる僧寺の百済寺があったと考えられており、この一帯が百済郡の中心であり、当時の政治・経済・文化の中核地であった姿が浮かび上がります。これらの2つの寺は、今も宝燈を伝える四天王寺とともに甍を並べ、古代の天王寺の地で濃密な歴史的景観を形作っていたことでしょう。
「百済尼」「百尼」と書かれた奈良時代の甕
墨書土器が見つかった井戸
身近で豊かな歴史遺産
天王寺区は、古くから海外との交流が盛んな地で、最先端の技術や情報がもたらされました。発掘により明らかになったのはその一部に過ぎません。私たちの足元にはまだ多くの遺跡が眠っており、おそらく50年先、100年先にも新しい発見があるに違いありません。先人が築いた文化に触れ、長い道のりに想いをはせることで、現在、未来を考えるヒントが見つかるかも知れません。
枝銭・墨書土器が出土したおおおその位置
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