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渡し場の跡

2017年2月6日

ページ番号:11264


浪花百景より「川崎の渡し 月見景」


 はじめにも述べたとおり、かつて大阪にはたくさんの渡し場がありましたが、その多くが廃止されて今は見ることができません。ここでは、廃止された渡し場の跡6ヵ所を選んで、その由来などを記してみました。(各箇所の地図に表示された赤丸印は、渡し場の跡に建てられた顕彰碑などの位置を示しています。)

A.野里(のざと)の渡し跡

淀川改修以前の中津川はこの付近を流れ、「野里の渡し」が置かれていた。「摂陽郡談」(元禄14年(1701)刊行)に「野里済(わたり)」とあり、尼崎方面への街道の一部になっていた。また「摂津名所図会大成」に「中津川の下流 野里村にあり この街道は大坂より尼がさきにいたる近道なるがゆへに西国往返の旅人兵庫西の宮尼が崎等の諸商人ことごとくこの渡しを越ゆるにより常に行人間断なく 別けて尼がさきの魚商人飛脚をはじめ西宮兵庫の飛脚諸商人日毎に通行して頗る賑わしき道条なり」という。明治9年に「槲(かしわ)の橋」という有料の木橋が架けられた。この橋は、新淀川の通水により中津川が埋め立てられる明治39年頃まであった。
 槲の橋と野里の渡し跡を示す小さな石碑は、旧中津川の堤防跡と思われる商店街の一角に立っている。またそこから南西にあたる住吉神社の境内には大阪市教育委員会の顕彰碑が、説明板とともに建てられている。


「野里の渡し跡」碑


「野里の渡し跡」碑(神社側)



・西淀川区野里一丁目20-14 : JR塚本駅下車、商店街を西へ徒歩7分。又は野田阪神から市バス38系統又は阪神バス「野里」下車、商店街を北東へ徒歩7分。


B.平田(へいた)の渡し跡

平田の渡しは延宝4年(1676)頃に開かれた。大坂町奉行から認可を受けて、手広く渡船業を営んだ土豪沢田佐平太の名からとったものではないかと言われているが、当時の渡しは、西成郡豊里村大字天王寺荘字平田と東成郡古市村大字今市を結んでいたので、この地名からきたとも考えられる。この地は丹波地方や大和地方への交通の要地で、淀川を上下する川船を改める番所があり、淀川両岸は渡船で結ばれていた。この渡しは、明治の新淀川開削工事によって、明治37年以降は豊里村内の飛び地を結ぶ村営渡船場(請負制)として存続し、大正14年に豊里村が大阪市に編入されたのに伴い市に引き継がれ、昭和23年4月には直営となった。しかし、同45年3月、豊里大橋の開通により300年に及ぶ歴史を閉じることになった。


在りし日の平田の渡し


「平田の渡し跡」碑(右岸)


「平太の渡し跡」碑(左岸)


渡し場の跡に架かる豊里大橋


・東淀川区豊里三丁目(淀川右岸) : 地下鉄太子橋今市駅から市バス27、33A、95「豊里」下車、南へ徒歩4分。
・旭区太子橋一丁目(淀川左岸) : 地下鉄太子橋今市駅から北へ徒歩5分。

C.源八(げんぱち)渡し跡

「摂津名所図会大成」には、「樋の口のほとりにあり天満源八町の濱より中野への舟わたしなるを以って名付くるなるべし 世に名高し」とある。
 左岸の都島側は農村地帯であったが京街道に近く、右岸側は大坂城代配下の役人が住む官舎街であった。渡しを東へ越えたところに「中野の梅林」があり、また両岸の堤は桜の名所として名高く、大そう賑わったという。この付近に生まれた俳人与謝蕪村は梅を好み、この梅林の情景を句に残している。 “源八をわたりて梅の主かな”
 渡しは明治40年に大阪市営となったが、昭和11年6月、源八橋の架橋により廃止され、橋にその名を残すのみとなった。

 


渡し場跡に架かる源八橋


「源八渡し跡」碑


・北区天満橋二丁目(大川右岸、公園内) : JR桜ノ宮駅下車、南西へ徒歩4分。

D.川崎(かわさき)渡し跡

右岸側はもと「天満の川崎」と呼ばれ、対岸の備前島に向かう渡しがあった。「摂津名所図会大成」に「天満川崎より備前島への舟渡しなり 上は網島さくらの宮下は天満宮 向こうに巍々たる金城ありて目ざましくして奇観なり」とある。川崎には、幕府の材木蔵や城代、町奉行配下の役人宅、諸藩の蔵屋敷が建ち並んでいた。一方の備前島(現在の都島区網島町)は、大坂城の京橋口に接し、京街道や大和街道に通じる要所であった。宝永4年(1707)の地図にこの渡しが見られる。明治10年に私設の橋が架けられたが同18年の大洪水で流失した。その後再び渡しが復活し、昭和20年の戦災によって施設が破壊されるまで続いた。
 戦後は長く橋も渡しもない状態が続いたが、昭和53年ここに自転車・歩行者専用の川崎橋が完成した。


 


渡し場の跡に架かる川崎橋


川崎橋の名の由来を記した碑


・北区天満一丁目(大川右岸、公園内):京阪、地下鉄の天満橋駅下車、北東へ徒歩10分。

E.富島(とみじま)渡し跡

この渡しの歴史は比較的新しい。明治18年の淀川大洪水のとき、約500メートル上流に架かっていた二代目の安治川橋が、上流から流れてきた流木、さらに流失した上船津橋をせき止める形となり、周辺住民に被害を及ぼす危険な状態になったため工兵隊によって爆破された。以来、この付近に橋が架けられることはなく、個人営業で始められたこの渡しが唯一の交通手段となった。その後明治40年に大阪市営となり、昭和6年11月に中央卸売市場が開設されてからは、仕入れに通う商人の専用渡しの感があったという。やがて、自動車の普及に伴い利用者が減少し、昭和57年にその歴史を閉じた。



手漕ぎの時代もあった富島渡し


左岸側に立つ顕彰碑と中央卸売市場の建物


・福島区野田一丁目(中央卸売市場管理棟前河川敷) : JR野田駅下車、南へ徒歩12分。
・西区川口三丁目(河川敷) : なんばバスターミナルから市バス84系統「弁天町バスターミナル」行き「国津橋」下車、北東へ徒歩6分。

F.難波島(なんばじま)渡し跡

難波島は木津川と三軒家川に挟まれた島であったが、当時の渡しはこの難波島と対岸(東)の月正島を結んでいた。「摂津名所図会大成」に「木津川にあり この地船大工職多く常に海舶を作事す」と述べ、さらに「芦分船言 昔日難波の住人ひらきし所なれば此島の名とするにや云々 いつくはあれど此浦のけしき猶いふにたらず」と記している。第二次大戦後まで難波島と周辺の川沿いには造船所が数多くあった。
 昭和57年まで運航されていた市営の渡船場は、大正区三軒家東三丁目と浪速区木津川二丁目を結ぶ、岸壁間75メートルの渡しであった。

 


大正区側の顕彰碑


建設中の国道43号と難波島渡し(写真は毎日新聞社提供)


浪速区側の顕彰碑


・大正区三軒家東三丁目3 : 地下鉄、JR大正駅から、市バス「鶴町四丁目」行き「永楽橋筋」下車、東へ徒歩12分。
・浪速区木津川二丁目5 : 南海汐見橋線木津川駅下車、北西へ徒歩4分。

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