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六十六部廻国供養塔 1基

2019年1月9日

ページ番号:9108

六十六部廻国供養塔

ろくじゅうろくぶかいこくくようとう

分野/部門

有形民俗文化財

所有者

宗教法人 寿法寺(じゅほうじ)

所在地

大阪市天王寺区四天王寺2

紹介

総高 : 3.3m
六十六部廻国供養塔 写真

 六十六部廻国供養塔とは、六十六部行者と呼ばれる、諸国を遍歴する行者に結縁して建立された供養塔のことをいう。六十六部廻国巡礼とは、法華経を書写して全国の六十六カ国の霊場に1部ずつ納経して満願結縁する巡礼行をさし、この巡礼に従事する行者を六十六部行者、六部行者、廻国聖などと呼んだ。中世後期、鎌倉時代末から室町時代にかけて、諸国を巡礼した六十六行者により、経巻を入れた金銅製の経筒が経蔵に奉納されたり、あるいは土中に埋納された事例が、文献上、あるいは考古学的な発掘調査により、実際に確認されている。このような六十六行者の淵源は、法華経を持して諸国を遍歴した源頼朝の前身である頼朝坊、北条時政の前身である箱根法師などに求められると伝承され、行者は彼らの末裔に連なるという。善光寺如来を背負って諸国を行脚する善光寺行者とも密接な関係にあるとされる。善光寺縁起では、秘仏であった善光寺如来を感得して模刻したのは伊豆走湯山(いずそうとうさん)の僧であり、走湯山や箱根山は鎌倉幕府ともかかわりが深い。東国でも信仰されたが、近世の大坂においても、厚い信仰を集めていたようである。
 徳川幕府の寺請制度のもとでは、原則的には自由な移動は禁止される。しかし、行者は特定の会所に所属しその支配下に入ることで、ある程度諸国を自由に巡礼する特権を得ていた。六十六部行者も、東京寛永寺、京都仁和寺、空也堂などが元締となり、その免状を得ることで廻国巡礼を行った。ただし、六十六カ国をまわるというよりも、実際は西国巡礼や国分寺などをまわったようである。六十六部行者に対する信仰が盛り上がる時期は、世情が安定し、信仰の上でも出開帳(でかいちょう)などが活発に行われ始める18世紀前半以降のことである。中世のような経筒を奉納する事例は、近世ではほとんど見られない。それにかわって、行者に結縁したことを記念するための、石造供養塔を建立することが行われた。
 大阪市内でこのような廻国六十六部供養塔は、約30例確認されている。このうち、最も年代が古いものは、寿法寺境内に立つ宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。花崗岩製で総高は3mを超え、市内の事例では最も大きく、他例を圧する堂々とした供養塔である。下二段の台石については後補の可能性がある。宝永8年(1711)2月8 日の銘を持つ。「奉納大乗妙典六十六部」と記し、性誉妙心・心親宗春を施主して建立されたとものである。全国的に見て、元禄から宝永頃に建立された供養塔が最も早い年代の事例であり、この種の供養塔としては古例に属する。近世の大坂における巡礼行者信仰のあり方を考えるうえで、重要な史料である。

用語解説

結縁(けちえん) 世の人が仏法と縁を結ぶこと。仏法に触れることによって未来の成仏・得道の可能性を得ること

伊豆走湯山(いずそうとうさん) 現在の静岡県熱海市にある伊豆山神社の旧称。鎌倉時代から明治維新の神仏分離令により寺を分けられるまで、神仏習合の典型的な存在であった

寺請制度(てらうけせいど) 江戸幕府が宗教統制の一環として設けた施策。人々を寺院に帰属させ、寺院が発行する寺請証文を受けることを民衆に義務付けた

出開帳(でかいちょう) 普段は公開していない寺院の本尊や秘仏などを他の土地に運んで行う開帳

宝篋印塔(ほうきょういんとう) もともとは宝篋印経にある陀羅尼を書いて納めた塔をさす。日本ではふつう石塔婆の形式の名称とし、方形の石を、下から基壇・基礎・塔身・笠・相輪と積み上げ、笠の四隅に飾りの突起があるものをいう。のちには供養塔・墓碑塔として建てられた。

参考文献

 田中智彦・北川央「大阪寺町および周辺寺院に遺る巡礼供養塔」(『大阪女子短期大学紀要』21 1996)

 

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