生野ものしり辞典
2019年1月8日
ページ番号:45
百済野(くだらの)と勝山通
百済野(くだらの)
万葉集に名高い百済野(くだらの)は、四天王寺の東の野辺をさし、東は平野川、北は小橋のほとりまでだとされています。いまでは、昔を偲ぶことはできませんが、御勝山と舎利寺を連ねて盛り上がった土地とその周辺が百済野であったといえるでしょう。なお、この百済野に百済大寺があったという説がありますが、定かではありません。
生野のメインストリート・勝山通
四天王寺の東門から東へ約3kmの大通りが勝山通です。勝山通は、生野の中央を東西に行き来する生野のメインストリートで大阪~八尾線または難波足代線とも呼ばれます。その中ほどに、御勝山(おかちやま)古墳の小山があり、明治23(1890)年から大正15年までこの辺り4万3千坪(約141900平方メートル)の広い地域に『府立農学校』がありました。また、古墳の南側には『大阪管区気象台』もありました。現在、その跡地は『御勝山南公園』になっています。
『御勝山南公園』には、折口信夫(おりぐちしのぶ)の文学碑があり、「小橋(おばせ)すぎ 鶴橋生野来る道は古道と思う 見覚えのなき」と刻まれています。勝山通は、歴史の散歩道の一部です。
平野川と『柏原船』
平野川
かつての平野川(旧平野川)は、生野区「俊徳橋」の北辺りから東成区の「中本橋」辺りまでをきわめて曲折して流れていたため、しばしば氾濫の元になりました。そこで流れを変えるため、大正12(1923)年にいまの平野川(新平野川)のように直線に改修されました。いまの平野川の延長は、大和川分派点~第2寝屋川合流地点まで、17.375m あります。平野川は、奈良朝より平安朝にかけて百済郡(くだらごおり)が置かれ、その中央を流れていたので古くは百済(くだら)川と呼ばれていました。
『柏原船』
江戸時代、寛永の頃、付け替え前の旧平野川では、この流れを利用した水運が盛んで『柏原船』という荷物運搬船が大阪~柏原間を行き交っていました。船の長さは約12m、船幅が2m、12~15石積の船頭2名で運行していました。平野方面への積荷は、米・干鰯(ほしか)で代表される肥料が中心でした。しかし、大和川が付け替えられてからは衰退し、明治40(1907)年ごろにはその歴史を閉じました。
『猫間川』と『源ヶ橋』の由来
『猫間(ねこま)川』
生野区内では、鶴橋 2丁目の「近鉄鶴橋駅・東口」辺りから「府立生野ろう学校」・「桃谷公園」・勝山通を横断して「此花学院高等学校」を経て、生野西2丁目・4丁目の「源ヶ橋」までの南北に走る道路が、千年以前の昔から有名だった猫間(ねこま)川でした。大正12(1923)年の暗渠工事で、その川筋が道路に生まれ変わり猫間(ねこま)川筋として名前が残っています。
この猫間川は、一説には百済(くだら)川に対して高麗(こま)川と呼ばれていて、訛(なま)って猫間(ねこま)川と呼ばれるようになったと言われています。
『源ヶ橋(げんがはし)』
JR大阪環状線『寺田町』駅の東で、猫間川筋と国道25号線の交差地点に市バスの『源ヶ橋』停留所があります。この辺りに古い伝説があり、190年ほど昔に猫間川の渡し守(も)りをしていた“源さん”という、旅人の物を取り上げる悪い人がいました。
ある日、いつものように持ち物を盗み殺してしまった旅人が、長い間行方を探していたわが子だったのです。“源さん”は、そのことで改心し、私財を投げ出して猫間川に橋を架け、人々は善人になった“源さん”にちなんで『源ヶ橋』と名付けました。近くには、昭和10(1935)年ごろ建てられ、平成10 (1998)年10月に国の文化財(登録有形文化財)に指定された変わった洋館づくりの『源ヶ橋温泉』があります。
『桃谷(桃山)駅』と『青バス』
『桃谷駅』は『桃山駅』だった
いまのJR大阪環状線の開業当時(明治28年開通)には、小さな汽車が天王寺駅~玉造駅間を折り返し運行されていました。その間に位置する『桃谷駅』は、当時『桃山駅』と呼ばれていましたが、のちに京都は伏見の『桃山駅』と混同されるとの理由から『桃谷駅』と改称されました。
駅名の由来となった桃山・桃谷は、江戸時代中頃より周囲の丘陵地帯が桃の名所として賑わっていたことから桃山そして桃谷と名付けられました。
『青バス』と『銀バス』
昭和13(1938)年頃から、『青バス』と『銀バス』のサービス合戦が激化しましたが、輸送の円滑化を図る目的で大阪市が『青バス』を買収し、昭和15(1940)年6月1日には完全に統合されました。
"猪飼野新橋"ってどんな橋?
“猪飼野新橋”は『歴史の橋』
“猪飼野新橋”は、鶴橋5丁目・桃谷5丁目と中川西1・2丁目の平野川に架かる橋で、勾玉(まがたま)や前方後円墳をデザイン化した『歴史の橋』です。欄干には、日本書紀にかかれている「為橋於猪甘津、即号其処日小橋也」<猪甘津に橋を為(わた)す。即ち、そのところを号(なづ)けて小橋(おばせ)という>の14文字を配し、古代、河内湖に面した良港であったと伝えられる「猪甘津」とともに開けたこの地域の歴史を顕彰しています。
また、付け替えられる前の旧平野川には「つるのはし」という橋が架けられていましたが、それが文献に残る最古の橋「猪甘津橋」の跡とも言い伝えられ、桃谷3丁目17番街区にはその顕彰碑が建てられ、史跡公園として整備されています。
『田島のめがねレンズ』
『田島のめがねレンズ』は日本一の生産地
『田島のめがねレンズ』は、“生野区よいとこ 田島のめがね”と明治・大正の古い本にも紹介されているように、大阪はもちろんのこと、日本中にその名が知られていました。
おおよそ140年程のむかし、田島村で生まれた石田太次郎は、丹波の国へ行って眼鏡製造の技術を習って帰り、有望なこの仕事を村人達に教えてまわり、田島村の家庭産業に発達しました。
大正2(1913)年、農村の田島村に電力が引かれて眼鏡専門工場が初めて生まれ、住民の努力によって日本一の眼鏡生産地になり、近東アジアや欧米諸国へも輸出されるようになりました。 例年11月3日には、田島神社境内で石田太次郎の功績を偲び、感謝祭が催されています。しかしいまでは、田島のめがねレンズの製造業者も数少なくなりました。
『大阪管区気象台』
昭和43年まで御勝山南公園に大阪管区気象台がありました。
昭和4年にまず地震観測所が、つづいて昭和8年に気象観測所が港区から移転しました。当初は中央気象台大阪支台と呼んでいましたが、昭和14年に大阪管区気象台と改称されました。
現在の気象観測は宇宙に衛星を打ち上げ、より正確なデータで予報する時代となっていますが、初期の観測は地上だけでおこなわれていました。しかし、当時の観測としては画期的なもので、災害の防止や被害の軽減に役立てるほか観測資料の統計や気象学の研究など、広範な業務をおこなっていました。
こうして、近畿・中国・四国地方を統轄して、業務をおこなってきたこの気象台も、昭和43年8月に中央区の大阪合同庁舎に移転され、生野区での業務を終了することとなり、その跡地に現在の御勝山南公園ができました。
『俊徳街道』
区内のおよそ中央を通る俊徳街道とよばれる道があります。いまではそう目立つことのないくねくねした道ですが、西は四天王寺から東は信貴山までの15kmの道を俊徳丸が通ったという説があります。
昔、信貴山のふもとに高安左衛門道俊とよばれる長者がいました。長男の俊徳丸が苦しい難病にかかり、神様や仏様におすがりして全快しました。この事は五百年ほど前に「俊徳丸物語」として謡曲に取り入れられ、「弱法師」という題で有名です。高安の里に住む俊徳丸は悪人にいじめられて病気になり、四天王寺でさまよっている所を父にめぐりあい、家に連れて帰られるという物語です。
区内の街道沿いには俊徳地蔵尊、俊徳橋があります。何百年を過ぎた今も郷土の文化財として語り継がれています。
『源ヶ橋温泉浴場』
市バス「林寺1丁目」バス停の少し北側に一風変わった建物をした銭湯「源ヶ橋温泉浴場」があります。
この建物は1937年に完成し、平成10年10月16日に銭湯建築としては初めて国の登録有形文化財(建造物)に指定されました。
正面には「源ヶ橋温泉」と右から左に書かれた看板があり、時代を感じさせます。そのすぐ上、2階部分の窓の両端に高さ約1.5mの「自由の女神」像が立ち、屋根には1対の鯱がそびえています。
また、戦後直後まで2階部分はダンスホールとしてつかわれていました。当時の銭湯の利用者はお風呂上がりに2階へいき、おしゃれな雰囲気の中で酒を飲みかわしていたそうです。
ではなぜ「自由の女神」像が銭湯にあるのか?と経営者の中島さんに伺ってみたところ、いろいろ説があるらしいが、入浴=ニューヨークというしゃれでつくったのかも?とのこと。
この銭湯を利用されている人は、戦後直後のおもむきを感じながら湯船に浸かっていることでしょう。
『みゆき公園プロムナード』
市バス「御幸通」バス停から北東へおよそ100mほどのところにみゆき公園プロムナードがあります。
この公園は広さ600平方メートルほどの小さな公園で1983年に完成しました。
子どもたちが遊べるような遊具はありませんが、その名のとおりプロムナード(散歩道)となっており、園内には石畳が敷かれ、街の中のほっと一息できる場となっています。
また夜にはフットライトが灯され、気の合う2人で歩いていると何かドラマティックな雰囲気になれるかもしれません。
『コリアタウン』
1984年、朝鮮市場の再生のために、チャイナタウンを意識した「コリアタウン構想」を打ち出し、その9年後の1993年、御幸森天神宮から東へのびる長さ500mほどの商店街が完成しました。キムチをはじめ、たくさんの食料品やチマチョゴリなど、韓国・朝鮮のものなら何でもそろい、ソウルの南大門市場を思わせます。韓国・朝鮮語と大阪弁が行き交う異国情緒あふれるエネルギッシュなところです。