第4回新世界地域
2024年8月1日
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座談会
地域の皆さんにお話を伺いました
時代の先端をいっていた明治・大正
区長
新世界地域は昔、西成郡今宮村の一部で、畑が広がっていました。そこからどのように開発されたのでしょうか。
上杉さん
昔、難波あたりにまちがあり、市域が広がっていきました。そして明治22(1889)年、この地域に初めて「偕楽園商業倶楽部」という施設ができました。また、「今宮臥龍館」という施設には、日本初のローラーコースター(ジェットコースターのようなもの)がありました。ほかにも、5階建ての建物がありました。昔の人は高いところに上りたかったんでしょうね。大人気だったようです。
でも、オープンした後、閑散としていたらしいです。あまりにもブッ飛んだ施設だったので、一般の方がついていけなかったんだと思います。
閉園した頃、平野の大念仏寺が火災になったので、施設の資材をその大念仏寺に持っていかれたと聞いています。
偕楽園商業倶楽部の全景図 (写真提供 新世界112thフェス歴史部会)
区長
そして、明治36(1903)年に第5回内国勧業博覧会が開催されました。
上杉さん
第5回内国勧業博覧会は、新世界と天王寺公園を合わせた辺りが第1会場で、堺の大浜が第2会場でした。堺の大浜の方は、水族館が戦後近くまで残りました。博覧会をこの地に引っ張ってきたのは、大阪商工会議所会頭の土居通夫さんでした。大阪の中にも何か所か候補地があったようですが、将来の大阪発展のポテンシャルが1番高い場所ということで新世界と天王寺の場所に決められたようです。
土居さんは関西の渋沢栄一のような方で、大阪電灯(今の関西電力)の初代社長や京阪電鉄の社長をされました。本当かどうかわかりませんが、大阪市役所の向かいの日本銀行は土居通夫さんの敷地だったと聞いています。
本を見ると、この博覧会に450万人、多いところだと500万人程の来場者があったと書かれています。
第5回内国勧業博覧会全景図
区長
博覧会は大成功だったんですね。
上杉さん
博覧会が終了し、その跡地は一時、日露戦争の捕虜収容所になりました。その後、明治45(1912)年に大阪土地建物という会社が、半分を新世界、半分を天王寺公園にしました。大阪土地建物の初代社長は、さっき言った土居通夫さんです。
区長
同じ方がされたんですね。
上杉さん
僕は大阪万博のときは小学校2年生でしたが、その華やかだったことを覚えています。土居さんは多分、恒久的な博覧会みたいなものを新世界につくりたかったんだと思います。
初めて大規模なイルミネーションをしたのも第5回内国勧業博覧会でした。イルミネーションがあるということは、夜中の開業ができたということ、大阪全体から見えるということです。この新世界、天王寺公園のあたりは、第5回内国勧業博覧会が基本になっていると思っています。
第5回内国勧業博覧会 美術館の夜景
区長
そして新世界に通天閣とルナパークが誕生しました。
上杉さん
新世界のルナパークは明治45(1912)年の7月3日にオープンしましたが、7月の終わり頃に明治天皇が危篤になられました。当時としては大きな話で、新世界はコマーシャルをあまり打つことができませんでした。そして、大正12(1923)年にルナパークは閉園してしまいます。
区長
ルナパークは10年くらいしか続かなかったんですね。そのほかにこの頃、噴泉浴場ができたと書かれています。
上杉さん
今のヘルスセンターのようなもので、ルナパークがオープンして、しばらくしてからできました。
区長
ルナパークや噴泉浴場があった大正時代、新世界はどのようなまちだったのでしょうか。
西上さん
私の父は大正時代にこの新世界で丁稚奉公をしていて、今も残っている食堂で働いていました。戦後独立して、ジャンジャンまちで商売を始めました。自分が若かった頃、「子ども5銭、大人10銭で遊べる新世界」というのがキャッチフレーズで、10銭あれば活動写真(今の映画)を観て、「上ま(注)」(1番良いうな丼)を食べて、コーヒーが飲めたんや、という話をしていました。
初代通天閣には天井画があって、とても綺麗だったことも父から教えてもらいました。それで自分が社長の時に、天井画を復刻したんです。大正時代の新世界は花街でもあり、演芸のまちでもあり、旦那衆のまちだったとも言っていました。小料理屋や料亭が並んでいて、芸者も千人ぐらいいたそうです。
(注)「上まむし」の略。まむしはうなぎのこと。
復刻された通天閣の天井画
区長
新世界には「南陽新地」があったと聞いています。
西上さん
私は昭和25(1950)年生まれですが、戦後もしばらく春日通りには三味線や小太鼓を料亭や芸者さんに売るお店が残っていました。三味線の稽古をしている音を聞きながら小学校に通学していました。
私の家では芸者さんが間借りしていました。下の階にはうちの家族が住んで、2階に飲み屋さんとその芸者さんの親子が同居していました。それが小学校5、6年生くらいまで続きました。
話を戻しますが、東京の浅草、神戸の新開地、そして大阪のこの新世界が「三大演芸映画のまち」でした。道頓堀ではありません。大正時代の新世界には、大衆娯楽の映画館や寄席小屋、今でいう大衆演劇の芝居小屋が20軒ぐらいあったそうです。
上杉さん
ルナパークができた頃の地図をみても、映画館、劇場が多くあったことがわかります。ルナパークを囲むように劇場や遊技場が配置されました。ちなみに、今の恵美須東1丁目あたりはショッピングモールでした。天王寺公園の方から歩いてきて通天閣の下を、先ほど西上さんがおっしゃった天井画を見上げながら渡ったら、全く違う世界が広がっていました。
昔の新世界の写真の中に、家族連れや大人の方が歩いている写真が残っています。そういう風景が新世界に来ていた人たちを象徴している感じがします。
ルナパークの全景(写真提供 新世界112thフェス歴史部会)
西上さん
昔は青物屋や乾物屋、魚屋が点在していましたが、初めて1つの場所に、今でいうスーパーマーケットに近い形ができたのが、この新世界市場なんです。大正3(1914)年に、この新世界にすごく画期的なものができたんです。民の力でつくった市場で、黒門市場とともに、近くに料亭が並んでいるので良いものを提供していました。
松本(芳)さん
金のある人は飛田の方で遊んだ後、こっちに流れてきたようですよ。
区長
子どもは5銭、大人は10銭あったら映画を観て、うなぎ丼ぶりの1番いいやつを食べて、コーヒーも飲めた。ファミリーで行っても楽しいし、お金を持ってはる旦那さんは、ちょっと大人の遊びをして。いろんな遊び方ができるまちだったんですね。
戦後の復興と通天閣の再建
区長
新世界のシンボル「通天閣」は昭和の一時期、吉本せいさん(吉本興業創業者)が所有されていたと伺いました。でも、昭和18(1943)年に隣の映画館の火事で延焼してしまったそうですね。
西上さん
吉本せいさんは、初代通天閣のラストオーナーです。通天閣の横にあった大橋座という映画館の映写室から出火して、通天閣の橋脚部分が焼けました。当時のフイルムはセルロイドでできていました。セルロイドはものすごく引火性が高いんです。これは僕の推測ですが、それが原因で出火したのではないかと思います。
また戦時中には、空襲のターゲットにされるということで通天閣を迷彩色に塗ったそうです。日本は資源の乏しい国で、当時、鉄材献納運動といって一般家庭でも錆びた包丁や鉄鍋を軍に献納していましたので、その初代通天閣の300トンという鉄材を大阪府に献納したらしいです。
でも結局使われず、明石の浜あるいは天保山に置かれたままだったと聞いています。
橋脚の焼けた通天閣(昭和18年頃の写真)
区長
昭和20(1945)年3月の大阪大空襲の被害は、この新世界でも大きかったのでしょうか。
松本(芳)さん
国際劇場の建物以外は全部、焼けてしまったそうです。
西上さん
国際劇場は昔、芸者さんの演舞場でした。当時のルナパークの面影が残っている建物は唯一、そこだけです。
区長
戦後、新世界はどうやって復興していったのでしょうか。
松本(芳)さん
初めは掘っ立て小屋のようなものだったのではないかな。うちの親父も屋台からです。
新世界はよそから流れ込んでくる人が多かったと思います。そして「新世界がこれから儲かるぞ」という時に、故郷の親戚に「お前らも来い」と声をかけました。だからジャンジャンまちは親戚が多いんです。
区長
それから、2代目の通天閣も昭和31(1956)年に再建されました。
雑野さん
私の祖父が新世界町会連合会の3代目の会長をしていて、その時に代表発起人となって今の通天閣の再建をしました。「通天閣は新世界のシンボリックなものだし、再建しないとね」という声が所々に上がってきた中で、「連合会会長の雑野さんがやりません?」と話を持ってこられて、最初はいろんな話があったみたいですけど、これは進められるんじゃないかということで、発起人になったんです。
その後、2代目通天閣の初代社長になり、その時に作った巻物に祖父が最初に書いた言葉は「通天閣の再建なくして新世界の復興なし」。通天閣を再建しないとあかんという熱い思いがあったんでしょうね。
2代目通天閣ができた当初の新世界。写真下部分には市電の車庫が見える
(写真提供 新世界112thフェス歴史部会)
区長
新世界では、地域振興会の新世界連合振興町会とは別に「新世界町会連合会」という組織がありますね。どのような組織なのか教えてください。
雑野さん
発足はたぶん、昭和22(1947)年か昭和23(1948)年頃だと思います。
上杉さん
戦後、縄張りで土地を盗りに来るやつがいたので、町会連合会は自警団から始まったという話を聞きました。
松本(文)さん
昔は、「おれんとこのもんや」と言えば自分のものになった時代ですからね。占有が所有にならないようにしないとね。
近藤さん
行政に対しては連合振興町会が窓口になることが多いですけれど、それ以外の話は町会連合会が窓口になって話を進めることが多かったです。
上杉さん
町会連合会は新世界にとっては、なくてはならないものです。昔はオーナーが時間に余裕があったから、喫茶店とかでいろいろと話ができたわけです。そこで話し合ったことを連合会にぶつけて、意見を共有していったんです。町会連合会がいろいろな話の受け皿になってきました。
近藤さん
喫茶店のオーナーに話をした時に「その話、町会連合会は通してるか?」と言われるような存在なんです。「町会連合会が知ってるんやな、それやったらええよ」って。町会連合会がなければ実現しなかったことがたくさんあると思います。
区長
劇場・映画館もずいぶんできたそうですね。
松本(芳)さん
昭和30(1955)年代の中頃は映画館が全盛で、大映、松竹、東宝、日活、東映の5社がありました。7歳か8歳だったとき、1日に7本の映画を観たことがあります。昔、映画館の封切は2本立てだったので、朝2本、昼間3本、夜2本観ました。
区長
7本も観たら、高くつきますね。
松本(芳)さん
お金は払いません。大人たちが入る時にその後ろについて入ったり、非常口から入ったり。
近藤さん
タダで入るパターンは「あるある」ですね。うちの隣は東宝敷島でしたが、ほぼタダで入らせてもらってました。
雑野さん
大体、どこの子かわかっているんです。だから、「次はあかんで」と言いながら入れてくれる。
松本(芳)さん
動物園も美術館も、お金を出して入ったことはありません。新世界の子どもは、どこの金網が破れているか知っていて、そこから入っていく。
西上さん
今の天王寺動物園は、子どもは無料ですが、僕らの時は有料でしたので。昔は金網だったので網を切って入っていきました。
区長
ほかに映画や劇場の思い出はありますか。
西上さん
づぼらやの隣に「公楽座」がありました。道頓堀の松竹座と同じ造りで桟敷席があって。良い映画館でした。子どもの頃に母親に連れられて、三波春夫や都はるみの実演を観に行った記憶があります。
上杉さん
「砂の器」という映画はご覧になりましたか。あれは新世界が本籍地ということでロケ地となり、「公楽座」でロングラン上映をしていました。
ついてしまった「怖いまち」のイメージ
区長
映画のまちとして賑わった新世界。でも、そのうちまちの様子も変わっていくんですね。
松本(芳)さん
道頓堀にも映画館がたくさんできてきましてね。結局は道頓堀に負けたんだと思います。
映画館のあとにはパチンコ屋がどんどんできていき、パチンコのまちになりました。
西上さん
昔、新世界は大阪一モダンなまちでした。キタやミナミに負けないまちでした。
堺筋を拡幅して市電を走らせるために、日本橋5丁目の長町というところにたくさん集まってきていた労働者を移動させました。その移動先が釜ヶ崎、今のあいりん地区です。戦後の高度経済成長期に労働者が増えて、昭和45(1970)年の大阪万博の頃には1万2千人から4千人ほどがあいりん地区に住んでいました。その労働者が新世界に飲み食いに来るようになり、昼間からパチンコをして、一般のお客さんにとっては近づきがたいまちになりました。一般の人が来ないから、通天閣の経営も厳しくなり、「通天閣は立っているけど、財務諸表を見たら、もう倒れてる」。そんな時期もありました。
松本(芳)さん
万博の頃はまだ良かったんです。高度成長の時で、労働者が来て新世界で遊んでくれはった。でも、労働者による暴動が起こって、新世界はだめになってしまいました。
1番最初の暴動は昭和30年代ではないかと思います。西成のロータリーの手前のところで日雇い労働者が車にはねられたかして、それへの警察の対応がめちゃくちゃ悪いということで起きました。その後も暴動は何回も起きました。
新世界のパチンコ屋でも暴動が起きました。開店からまだ10分か15分しか経ってないのに故障かなにかで店を閉めてしまったので、客が怒って暴動になったんです。
上杉さん
新世界で暴動、というか揉めたのはその1回だけです。新世界の出入り口に警察が派出所を作ってくれていたので、新世界ではそんなに揉めたことはありません。投石はありましたが、火をつけるとか、むちゃくちゃ暴れるということはありませんでした。
西上さん
手配師がいてるんです。「ええ仕事あるで。今日1日働いたら1万円やで」などというわけです。行ったら1万円がもらえると思ってたのに、天引きされてお金が減らされるので不満が募って。そんなことが暴動の原因になっていくんです。せっかく稼いだ金がパチンコですられる。ですから西成のパチンコ屋が投石でガラスを割られたりしていました。でも、暴動が起こるたびに通天閣が映されるんです。その悪いイメージがつき、新世界には人が来なくなってしまいました。
松本(芳)さん
観光旅館、割烹旅館はみんな潰れてしまいました。
うちの嫁さんを新世界に連れてきた時、「今日は祭りの日なのか」と聞かれました。田舎から出てきた人には毎日が祭りに思えるくらい、たくさんの人がいました。また、そこらで人が寝ていました。
西上さん
たしかに治安も悪かったです。仕事につかない者もいて、人を恐喝したり金品を巻き上げるといったこともありました。
近藤さん
暴動自体は昭和40年代にもあったと思います。まだシャッターがなかった時代でしたが、暴動をきっかけにお店のシャッターが増えました。
松本(芳)さん
昭和62(1987)年の天王寺博覧会の時に、天王寺側からと動物園側からの入り口を作ったんですが、100人のうちの95人ぐらいは天王寺の方から来て、動物園側からは来ないんです。その頃はまだ暴動がありましたので、観光バスが来てもバスガイドが「はい、皆さん。この辺りは危ないですから、はぐれないで後ろをちゃんとついて来てくださいね」と言うんです。それまでは修学旅行生も来ていましたが、怖いまちだと言って客が来なくなり、動物園側の入り口付近の売店は、2~3か月で閉店してしまいました。
上杉さん
僕たちが子どもの頃は天王寺公園で遊んで、新世界では勉強ができないから、公園内にあった天王寺図書館で勉強していたんです。天王寺博覧会が終わった後、天王寺公園が閉鎖され、勉強する場所も遊ぶ場所もなくなりました。あの頃、大阪市役所に行った時に「このままでは恵美小学校もなくなりますよ」と言いましたが、本当にその通りになってしまいました。行政の責任は大きいですよ。
区長
新世界にとって厳しい時代が続いたんですね。日中、まちを歩く人の姿も大変少なくなったと聞いています。
松本(芳)さん
その時代に1度、笑福亭鶴瓶さんが誰かと一緒にラジオで「通天閣の下に集まってくれ」と言って人がてんこ盛り来たことがありました。
上杉さん
笑福亭鶴瓶さんと新野新さんですね。僕はまさにその時、ラジオで聴いていました。「新世界という場所は行ったことないけど、どういう場所なんやろな」という投稿があって。「じゃあ、みんなで新世界に行ってみよう」と。これはえらいことになるなとラジオを聴きながら思いました。
雑野さん
「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」ですね。
区長
また、昔ほどではないにせよ、演芸や芸能も続けられていたのですよね。
上杉さん
今はなくなってしまいましたが、「新花月」では笑福亭鶴光が初舞台を踏んだと言われています。「やす・きよ」さんや「いと・こい」さん、敏江・玲児さんやフラワーショウさんも出ていました。
雑野さん
「新花月」からいろんな人がメジャーになっていきました。お客さんもわりと辛めのお客さんでしたから。
近藤さん
歌謡ショーもあったから、大御所の演歌歌手も舞台を踏んでいました。
区長
新世界が低迷期にあった時期に、市電天王寺車庫跡地の開発の計画が持ち上がり、平成9(1997)年にフェスティバルゲートができました。皆さんにとってこの大型娯楽施設はどのようなものだったでしょうか?
近藤さん
画期的な話でした。大きな期待をしていました。新世界にとってはすごく大きな出来事でした。
まあ、いろんな意見がありました。あんな立派なものができて、新世界は裏町みたいになってしまうんじゃないかという人もおられました。でも実際には、フェスティバルゲートに来た若い子が新世界に流れてくるし、同時にスパワールドもできて、お客さんの層が若返ったことを実感しました。
フェスティバルゲートとスパワードができた時が1つの分岐点というか、変化の大きなきっかけになったんですが、実際ちょっと早かったのかなと。もしフェスティバルゲートが今あれば、すごいことになっていたんじゃないかと思います。
区長
残念ながら経営破綻し、平成19(2007)年には閉館となってしまいました。
雑野さん
あれは信託事業でしたよね。常時24時間、警備員を何人も立てていたと聞いています。一方でアトラクションは有料でしたが、入場料は無料でした。
西上さん
都市型遊園地としては面積が狭かったので、私は3年持つかなと思っていました。
上杉さん
もう1つ、失敗だったのは、南海の新今宮駅を降りた方は、JRの新今宮駅から出ることができないんですよ。あれが解決できていたら難波から南海電鉄で新世界にもっと人が来れたんですよ。南海とJRの間で行き来ができるように切符を共有化してほしいとあの時にだいぶ言ったんですが、結局実現されませんでした。
近藤さん
今も、入場料を払わないといけませんもんね。南海の新今宮駅で降りて、新世界の方に行こうと思ったらJRの新今宮駅で入場料を払ってプラットホームを歩かないといけないわけですよ。入場料を払わずにプラットホームをそのまま歩いてこれたら、新世界への動線は格段によくなります。
上杉さん
高速道路の下もちゃんとしてくれないと。高速道路がなかった頃は天王寺公園も日本橋もストレスフリーで行けたんですが、高速道路があるために帰ってしまうんですよね。まちが切れてしまうんです。
近藤さん
高速道路を今からどうにかするのは無理な話ですが、切符に関しては仕組みの問題だから、なんとかならんのかなと思ってましたね。
上杉さん
もともと新世界を発展させたのは阪堺電車で、南部を発展させたのは南海電鉄なんです。南海は新世界では降りてほしくないかもしれませんが、南大阪のひとつのエリアとして考えてもらいたい。なにわ筋線ができる時にはぜひ、実現してほしいと思います。
「新世界」の地名に誇りを感じる今
区長
平成の時代に入ると、新世界を舞台にした映画が公開され、フェスティバルゲート開業の前年にはNHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」が放映されました。その後も新世界がテレビで紹介されることが多くなり、全国に知られるようになりました。
松本(芳)さん
20年程前でしょうか。「だるま」が有名になり始めた頃から、だんだん串カツの店が増えてきました。
西上さん
最初は「八重勝」に人が並び出しました。
雑野さん
「八重勝」はよく、テレビの取材を受けていましたね。「だるま」も赤井英和さんの影響で、テレビでいろいろと紹介されるようになりました。
西上さん
新規の店も増えて、いまでは50数軒あるんじゃないかと思います。
区長
映画館からパチンコ屋、そして串かつ屋。最初の映画館のお客さんはファミリー層や地元の人。新世界に住んでいない人も遊びに来ていました。パチンコ屋さんの時代には西成の労働者がお得意さん。そしていまの串カツ屋さんは観光客がお客さん。つまり、ターゲットが変わっていってるんですね。
今のこのまちについて、どう感じておられますか。
松本(芳)さん
少し前から新世界のことをよく「ディープなまち」と言っていますが、私はあんまり良い気がしません。なんだか怖いもの見たさで来ているように思えます。
近藤さん
レトロなまちとも言われていますが、レトロってお金をかけていないんです。オーナーさんがお金をかけずに、元々の姿のまま小さく商売をして、それが残っちゃっての「レトロ」なんです。お金がないから、改装していないんです。だから自慢できるまちではないんです。本音は、レトロと言われても嬉しくない部分もあります。
西上さん
私が子どもの頃に「ゼットゲーム」という遊びがありました。いまでいうビンゴゲームで、新世界に2軒ありました。大きな紙に赤、青、俗にいうビンゴがあって。マイクでボールを圧縮で飛ばして、出てくる番号をおはじきで置いていくんです。それで縦横5つ並んだら景品がもらえて、換金もできるんです。パチンコ屋は世襲なのにセットゲームは1代限りで許可がなくなってしまうんですが、結構流行っていました。
ゼットゲームはパチンコと一緒で18歳以上でないと参加できませんが、僕は中学校ぐらいの時に大人の人と一緒に行って、一升瓶を当てたことがあります。
アレンジボールというのもありました。パチンコとは違いますがパチンコと同じ形式です。そして今でもありますがスマートボール。そういうものを「レトロなまち」として新世界の売りにしている面もあります。
それから、「ブーマン」は新世界が発祥の地なんです。
近藤さん
「ブーマン」というのは1人でも打てるスタイルの麻雀で、一局一局が短いんです。お客さん同士のやり取りではなく、お店が決めたレートでやる小さい勝負で、1回数百円から千円くらいで遊べるんです。
上杉さん
麻雀屋も新世界が発祥だと、新世界興隆史に書いてあります。
西上さん
「いづも屋」という屋号の、鰻で有名なお店も新世界が発祥です。出雲地方から出て来て、ルナパークの時代に鰻を出したと聞いています。
松本(芳)さん
作曲家の服部良一さんが若い頃、「いづも屋」で働いていたそうです。先日、なんばの髙島屋の前でイベントがあった時に司会者がそう言っていました。
近藤さん
あえて言えば、ミックスジュースも新世界の千成屋珈琲が発祥です。
区長
いろんなものがこの新世界から生まれたのですね。
では最後に、皆さんにとって新世界はどんなまちなのか。これから新世界はどんなまちになっていってほしいのか。順番にお尋ねしたいと思います。
松本(芳)さん
暴動のようなことが起こらずに、これからもずっと、皆さんに来て楽しんでいただけるまちであればいいなと思っています。
西上さん
「庶民に娯楽を」というのが、新世界ができた時の大義だったらしいので、これからもその形は変わるかも知れませんが、庶民に娯楽を提供する場所であり続けて行ってほしいと思います。
雑野さん
生まれて育って今もそこで生活してるんで「ふるさと」であり、祖父の代からで、子どももいるので、いろんな風評もあったり、いろんな時代も経てきてるんですけども、やっぱり愛すべきまちかなって思っています。
これからも安全安心なまちで、皆さんに来ていただいて、楽しい思い出を作っていただけるまちになってほしいと思います。それと、我々住民にとっても住みやすくて、「ここに住んでて良かったね」と思えるようなまちになっていけばいいなと思います。
近藤さん
今まで生まれ育ってきて、今となれば愛着はあるんですよ。新世界が好きか嫌いかと聞かれたら、好きになるんですけど、大学生の頃は、嫌いなまちだったかもわからないですね。
みんなにからかわれたり、よくあんなところに住んでるなと言われたり。良いようには言われなかったまちなんで、自分の中では劣等感がすごくあって、自分のまちでありながら、なんか好きになれなかったという時代が結構長かったように思います。
この半世紀で、新世界は映画館のまちからパチンコのまちになり、今は串カツのまちになっています。いろんな形で様変わりしてきてようやく、若い世代の人から外国人観光客まで、賑やかなまちになってきています。有名になって、良いまちになったと言われてます。すごく良い形で変貌してきたなと思います。
次の世代が、新世界で商売すること、新世界に住むことに自信を持って、というのかな。「新世界で生まれたんやで」「新世界で商売してんねんで」と自慢できるまちとしてこれからもずっと発展してほしい。将来どんなまちになるかはまったくわからないけど、どんな形であっても、いつも賑わいのある新世界であってほしいなと思います。
松本(文)さん
商売が利くまちと、住みやすいまちと、両方であればいいんですけど、必ず相反する部分があります。その辺のところがこれから先、いい具合に融合していければいいなと思うんです。
我々は先に去っていきますが、うちの息子も新世界で商売させてもらってますし、今のところはそれなりにうまくいってますんでね。この調子でやっていけたらいいなと。孫は別のまちに住んでいますが、いずれまた帰ってきてくれればいいなと思っています。
上杉さん
長いスパンで見たら、やっぱりこのまちは思い出のまちだと思います。この新世界は、昔からロングユーザーが多いんです。僕の店にも昔から来てくださっている方たちがいて、ある方が「わしはこの子が三輪車の時から来てる」というと、横のおじいちゃんが「わしはこの子が乳母車の時から来てるんや」とマウントを取ろうとする、というような面白い話もあります(笑)。
このまちは天王寺公園も含めてですけど、難波と阿倍野を結ぶまちだと思うんです。だからこのまちと天王寺公園は内国勧業博覧会の理念をもっと尊重したほうがいいんじゃないかなと思っています。
そして将来も、人が住めるまちであってほしいです。住めなくなったらこのまちは終わりかなと思います。商売をする人やまちに来る人の中には、繁華街に来たら何をしてもいいと思っている人がいますが、そうではなく節度を持って来てほしいと思います。
区長
内国勧業博覧会の時の理念というのは、どういうことですか。
上杉さん
あの内国勧業博覧会はすごく大きなイベントだったわけじゃないですか。そして半分に分けたわけでしょ。このまちはいつまでも博覧会であったまちであって欲しいということ。土居通夫さんのお墓も通天閣が見える方向に建っています。そういった設立者の思い、それが染まったまちなんです。
昔の人は多分、築城の理念があったんだと思います。例えば美術館を建てた場所は、絶対に水害の起こらない場所だとわかってつくっている。昔の人は僕らが思っているよりもすごいんです。
ほかの人は異論があるかもしれないけど、やっぱりここは「新世界」という町名に変えるべきだと思う。昔は恥ずかしかったんですよ、新世界。
松本(文)さん
高校時代、体調が悪くて学校を休んだことがあったんです。その時、若干、俺に思いを寄せてた女の子がお見舞いに来てくれたんですが、びっくりしたやろな。その後、俺に対する当たりがそれまでと違うようになったと感じました(笑)。
近藤さん
確かに若い頃、皆それは経験してますね。自分の彼女を遊びに来させられないまちだったんですよ。
雑野さん
僕もそういう思い出はあります。どこから来てんの?と聞かれたときは「新世界」と言わないで「動物園の横やねん」とか「通天閣の近くやねん」という。「新世界」を主語として喋れない。新世界の話をして、「恐いとこやな」とか「えらいとこやな」と言われるのを何回か経験すると、学習能力がありますので。「新世界」というのを主語として言うことにだんだん恐れを感じるというか。
上杉さん
でも今やっと、「おれは新世界生まれやで」って言える時代が来たんです。
通天閣の住所も「恵美須東1丁目 通天閣」よりも、「新世界1丁目 通天閣」の方がかっこええやんか。
区長
今は胸を張って「新世界」を名乗れるというお話。このまちが辿ってきた歴史を知ってこそ、なおさら深くて、いい話やなあと心に沁みました。
そういう皆さんの思いをぜひ今回の記事で紹介したいと思います。
新世界地域の歴史
偕楽園商業倶楽部
草原に出現した遊園地
明治時代を迎えても、新世界・今宮周辺は田畑が点在するほかは、遠く住吉方面まで草原が続く寂しい土地でした。そんな今宮のおよそ5千坪の敷地に、1889 (明治22)年に誕生したのが偕楽園商業倶楽部です。その本部は、開放的なベランダが特徴的な洋館に、瓦をのせた城郭風の破風や、ドーム型の展望台が組み合わさったユニークな5階建ての建物でした。
本部のほかには、内外の商品を陳列した商品陳列館、蒸気機関を展示運転しその性能を宣伝する蒸気機械館が設置されました。また欧米各国の発明品の設計図や利用法の説明図を展示する諸機械模図館、海外諸国への里程(距離)と商品の輸送費・関税などを展示する報告堂、世界各地の各種市場の相場を提示する報告室、内外のさまざまな新聞を閲覧することのできる内外諸新聞縦覧室など、経済・商業に関する情報を提供する施設も充実していました。
大阪の「新名所」商業倶楽部
元来商業倶楽部は、商業の隆盛を目的に設立されたのですが、和風庭園「偕楽園」には散策路が設けられ、随所に滝や噴水が配置されていました。途中の眺めの良いところには談話・休憩用の小亭がつくられ、備えつけの「伝話機」を使って、園内に出店している割烹店や茶店から酒飯を取り寄せることもできました。商業倶楽部は会員制でしたが、商品の宣伝効果を高めるために、入場料を払えば誰でも利用でき、一種の遊園地として大阪の「新名所」と言われるようになります。
商業倶楽部は政治の舞台にもなっています。明治の自由民権運動をリードしてきた板垣退助率いる自由党は1884 (明治17)年に解党しましたが、国会開設を目前に控えた1889 (明治22)年12月19日、大井憲太郎らが自由党の再興をめざしてこの商業倶楽部で会合を開きました。およそ230名が出席した再興準備会の結果、翌年1月に自由党は復活したのです。また民権運動家として名高い中江兆民も、1890 (明治23)年7月の衆議院議員選挙において当選し、その祝賀会が商業倶楽部で開催されました。
大阪市への編入
南海鉄道の開通と市街地拡大
わが国で最初の民間鉄道として阪堺鉄道(後、南海鉄道。現在の南海電鉄)が1885 (明治18)年12月に難波~大和川間の蒸気運転を開始しました。その後も南海鉄道は路線の延長を進めて、1903 (明治36)年には和歌山市にまで達しました。開設当時の難波停車場界隈は、依然として葱畑が広がり、多少の人家と料亭「明月」がある程度の閑散とした土地でしたが、宅地化の進む南大阪の玄関口として発展を続け、道頓堀南側の難波新地・千日前との間にいち早く商店街が形成されました。
1889年(明治22)年には大阪鉄道(現在のJR関西本線)が湊町(現在のJR難波駅)~柏原間に開通します。すでに日本橋界隈が1889 (明治22)年の大阪市制施行にともなって南区に転入されていたのに対し、西成郡今宮村も阪堺鉄道や大阪鉄道の開業によって市街地の拡大が進んだため、今宮村の大阪鉄道以北の地(現在の新世界を含む)が1897 (明治30)年の第1次市域拡張時に大阪市に編入されることになりました。
第5回内国勧業博覧会
史上最大の博覧会
大阪が待望した第5回内国勧業博覧会が、1903 (明治36)年3月1日から7月31日まで、開催されました。内国勧業博覧会とは国内産業や貿易を振興する目的で明治政府が主催したもので、第1回から第3回までは東京の上野公園で、第4回が京都市岡崎町で開かれました。
今宮の商業倶楽部敷地もすでに大阪市に買収され、今宮・天王寺周辺のおよそ10万坪が第1会場とされ、第2会場には堺市大浜水族館があてられました。この内国勧業博覧会は来館者数435万人を数える最大規模かつ最後のものとなりました。
博覧会の正面は高さ27メートルの洋風建築で、その左手には金の鯱を掲げた名古屋城天守閣を模した愛知県売店、右手には高塔を備えた擬洋風建築の東京売店が来場者を迎えました。場内には、6千坪の大勧業館を中枢とした農業、水産、美術などの陳列館、イギリス・アメリカ・ドイツなど海外18か国からの出品物を収めた参考館、各種のスポーツを体験できる体育館など数多くのパビリオンが並んでいました。
第5回内国勧業博覧会 正門
第5回内国勧業博覧会 東京売店の絵葉書
最新の技術が一同に集結
本邦初公開の冷蔵庫を見世物とするパビリオンも人気で、入館を待つ長い行列ができたそうです。新発明の自動ドアから一歩足を踏み入れると、6℃に冷やされたエントランスホールです。ガラス越しに冷凍された魚、生肉、卵などが見物できる冷蔵室は、展示ブースであると同時に、食料品保存に関わるさまざまな実験を行う場でもありました。そのため会期中に各自治体の技術者を集めて、冷凍技術に関する講習会も催されたそうです。講習の最終日には、長期間にわたって冷凍保存されている魚などを実際に調理して、おそるおそる試食して、その効果を確認したといいます。
会場内には展示館のほか娯楽施設も数多く用意されていました。なかでも8人乗りの小舟に乗って、12メートルの高さから池に向かって95メートル余りの軌道を駆け下りるウォーターシュート「飛艇戯」には長蛇の列ができました。
第5回内国勧業博覧会 ウォーターシュート「飛艇戯」
新世界と通天閣
新たな「歓楽街」の建設構想
大盛況のもとに閉会した博覧会の会場跡地は、まもなく勃発した日露戦争のために、陸軍に貸与されることになり、倉庫や衛生病院などに利用されました。戦争が終結すると、東側の公共用地が整備されて天王寺公園が開園し、その他一部の用地が売却されました。残った柵外地(公園用地を限っていた柵の外という意味でこう呼ばれました) 1万2千坪は、堂島米穀取引所理事の宮崎敬介らが中心になって設立した大阪土地建物株式会社が一括して借り受けることになりました。ちょうど博覧会跡地のすぐ傍には、阪堺電気軌道のターミナル・恵美須町駅が予定されていたために、その駅前に新しく魅力的な歓楽街を建設したいという考えが財界にあったのです。
「新世界」とシンボル通天閣の誕生
新しい歓楽街の建設工事には、大量の鉄骨・石材・木材が使用され、数千の工事作業員が動員されました。轟音喚声の響く工事の様子を見物した人たちは「新市街出現」「第二千日出現」と口々に噂したといいます。たまたま1912 (明治45)年1月16日に難波新地の風呂屋の煙突から出た火の粉が原因で、大阪最大の盛り場であった千日前の歓楽街が全焼してしまうという南の大火が発生します。千日前の復興よりも先に完成を、ということで突貫工事が進められた結果、7月3日、ついに「新世界」が出現するのです。
新世界のシンボルが、高さ約75メートルの初代・通天閣でした。凱旋門をモチーフとするアーチ型の塔脚の上に、エッフェル塔を手本とする展望タワー。この通天閣にのぼるには、まずその塔脚の70段の階段をのぼらなければなりません。階段をのぼると四季折々の花が植えられたルーフガーデンが目の前に広がります。そこから最上階の展望台にエレベーターで一気にのぼると、南の紀淡海峡から北の摩耶六甲にいたる大パノラマが目の前に展開しました。
「通天閣」は大阪土地建物株式会社の社長であり、同時に大阪商工会議所の会頭であった土居通夫氏の「通」をとり、天に通ずる高い塔という意味で命名されたといわれてきました。しかし現在では、私塾「泊園書院」で商家の子弟教育にも力を入れていた儒学者の藤沢南岳氏が命名したというのが定説となっています。初代通天閣
パリを模した街路を持つ北地区
新世界の北地区はパリを意識したまちづくりがなされ、通天閣を中心に恵美須町、日本橋筋に抜ける西北へ恵美須通(現在の通天閣本通)、中央を北に向かって玉水通(現在の春日通)、一心寺、四天王寺方面へ向かう東北へ合邦通(現在も同じ)というように街路が放射状に整備されました。
通天閣の足元の広場は「清華園」という和風の庭園が整備され、この広場を囲んで半円形のまちなみは「円街」と呼ばれました。円街のもっとも西寄りには東京の優秀で著名な商品のみを東京出身の店員が取り扱うという評判の勧商場「東京館」がありました。恵美須通と玉水通に挟まれた区角には「ビリ軒」という西洋料理店、玉水通と合邦通に囲まれた「井筒」という料理店があり、それぞれキリンビールとアサヒビールのビアホールになっていました。こうした建物の建築様式は、すべて近世ドイツ様式で統一されていたといわれます。通天閣で凱旋門とエッフェル塔が合体してしまったように、当時の人たちにとってフランスもドイツもなく、居ながらにしてヨーロッパの雰囲気に浸れることが魅力だったのでしょう。コニーアイランドをめざした南地区
一方、新世界南地区の建設にあたっては、ニューヨークのコニーアイランドが手本にされたといわれています。中心となる巨大な娯楽施設は、ニューヨークのアミューズメントパークと同じルナパーク(ラテン語で「月の園」の意味)と命名されました。その周囲には見世物小屋、芝居小屋、映画館、売店などが軒を連ね。興行街として発展が期待されました。
英国騎士の衣装をまとったインド人がもぎりに立つルナパークの正面入口を抜けると、園内にはいろいろな遊びが用意されていました。ブラスバンドの演奏が行われる八角屋根の「音楽堂」、多数の水鳥や猿を観察することができる「水禽舎」、「モンキーホール」などの施設に加えて、80人乗りの円盤が上下動しながら高速で回転する「サークリング・ウェーブ」と言う絶叫マシーンもありました。その中でもっとも話題になったのが「不思議館」です。光学のトリックとカラクリに俳優の実演もおりまぜて、豊臣秀吉が現代に蘇生するところを見せるアトラクションです。
ルナパークの象徴が「ホワイトタワー」と名づけられた塔で、通天閣のルーフガーデンとは4人乗りのロープウェーで結ばれていました。タワーの下には「白雨亭」という休憩所があり、奥には米国の女性彫刻家E.I.ホースマンが夢をヒントに創造した福の神「ビリケン」が鎮座していました。
新世界の変貌
和風レジャーランドへの変質
計画的な歓楽街として華々しく船出をした新世界でしたが、直後に明治天皇が崩御、その結果庶民の足が遠のくという不幸に見舞われます。ルナパークの周辺では第2期工事が進められ、芝居小屋、映画館などからなる興行街の整備が進みましたが、ルナパークと新たに建設された「噴泉浴場」を除くと閑散としていたそうです。
ルナパークさえも日本庭園に改造され、安来節の上演が目玉になるなど庶民に理解しやすい和風のレジャーランドへの変質を始めていました。そして千日前の焼け跡にライバルとなる複合娯楽施設「楽天地」が開業(1914年)すると、ルナパーク内のさまざまなアトラクションは廃止されて、伝統的な演芸や演劇をみせる小屋中心の遊園地へと姿を変えました。
1923 (大正12)年になるとルナパークは買収されて閉園することになり、その跡地にはパークキネマ、パーク劇場、公楽座など独立の演芸場が並びました。
温泉リゾート施設「噴泉浴場」
一方、噴泉浴場は新世界では異色ともいえる温泉リゾート施設でした。周囲約29メートルもある浴槽の中央には、大理石の美人像があって頭上から滝のように湯を噴出させたといいます。サウナやドイツから輸入したラジウムを用いた薬湯の浴槽もあり、人々からは「ラジウム温泉」として親しまれました。大休憩室、食堂、化粧室、理髪室と全国でも類まれな大浴場として、連日賑わったそうです。また噴泉浴場の新設備として1928 (昭和3)年にオープンした温水プールは、男女別の25メートルプールで、営利目的のものとしては当時の大阪で唯一のものでした。
大きく発達した交通網
ルナパークの開業は10年ほどの短い期間でしたが、第5回内国博覧会以降、新世界及びその周辺は大阪南のターミナルとしても繁華街としても大きく発展しました。
1911 (明治44)年に南海鉄道の電化が実現しますが、それ以前は当区内には停車場はありませんでした。一方、同年には片岡直輝が発起人となった阪堺電気軌道が恵美須町と堺市大小路の間で開通します。期を同じくして、南海鉄道が今宮戎駅を設置したことで、その後の両鉄道は乗客の激しい争奪戦を繰り広げることになりました。
また、市電第1号は1903(明治36)年の花園橋~築港間でしたが、その5年後には南北線(第2期線)が梅田~恵美須町間に開通しました。それ以降、霞町車庫の開設に続き、恵美須町~霞町間(1913年)、霞町~阿倍野橋間(1918年)が開通するなど、市電網の拡充が進み、恵美須町は交通の要地となりました。
明治末年には自動車交通も確立されました。内国勧業博覧会では自動車の試運転が行われましたが、これが機縁となって中川辰之助ら有志がアメリカから2台の蒸気自動車を購入し、恵美須町から梅田に至る乗合自動車の営業を始めました。この蒸気自動車の営業運転は市電第2期線の開通にともなって廃止されましたが、1924(大正13)年から大阪乗合自動車株式会社が市内中心部の主要道路に青く塗装したバスを走らせました。市営バス事業も1927(昭和2)年に開始され、先発の青バスに対し、銀色の市バスは銀バスの愛称で迎えられたといいます。
なお、東京の上野~浅草間に次ぐ日本で2番目の地下鉄は、1933(昭和8)年に梅田~心斎橋間に開業し、1935(昭和10)年に難波まで、1938年(昭和13)年には天王寺まで延長されました。ジャンジャン横丁の発祥
大正初期には新世界周辺に花街も形成されました。1915 (大正4)年逢阪通に開業した貸座敷「小雪倶楽部」では、花代システムに時間制が採用されて破格の安さを実現した大正芸妓が人気を博しました。その成功をみて、芸妓や酌人をおいて、貸席経営に乗り出す料理旅館やカフェーも増加し、新世界と天王寺公園の間に芸妓の居住指定地域として南陽新地とよばれる和風の茶屋町が形成されたのです。
さらに1918 (大正7)年には、新世界の南方に公許の遊郭である飛田遊郭(西成区)が開業しました。この遊郭と通天閣を結ぶ道筋に小規模な飲食店が集積する石見町が開かれました。各店が競ってジャンジャン(三味線)、ドンドン(太鼓)、テンテン(小鼓)と鳴り物で呼び込みを行ったためにジャンジャン横丁(ジャンジャン町)と後に呼ばれるようになりました。
新世界で飲んだ客が、花街へ流れ、そしてまた、今度は女性を連れて飲み直しに来る。こうして眠らないまちとして新世界に賑わいが戻ってきました。
変貌していくまちなみ
しかし1927 (昭和2)年の金融恐慌をきっかけに、新世界に訪れる人の数が再び停滞するようになると、旅館やカフェーなどの出店が増々めだつようになりました。パリやニューヨークの異国気分を味わうことのできる明治版テーマパークであった新世界は、こうして変貌を遂げてきたのです。
通天閣の焼失
太平洋戦争が始まると、通天閣自慢の長身が、空襲の目標になると噂されるようになります。そこで姿を見えにくくするために、塔全体に迷彩をほどこしたこともあるそうです。
1943 (昭和18)年1月16日、塔脚部分にあった映画館からの出火は、通天閣にも燃え移ってしまいました。外壁が崩れ落ち、鉄骨がむき出しになった通天閣は危険だということもあり、また、「お国のため」に各家庭から鍋や釜など金属の献納運動が展開されていたこともあり、ついに通天閣は解体され、300トンの鉄材として供出されるのです。
作家の林芙美子が新世界の情景を描いたのもこの頃です。
二人は、霞町で電車を降りた。
音楽の、新世界とは、ふんいきがまるきり違う。線路下のトンネルをくぐると、共同便所に、交番の派出所が、左側にあった。
「ここね、ジャンジャン横丁いうのですワ。昔は、この向こうに、通天閣いう、高い鉄骨の、塔があったのですよ…」
芳太郎の説明である。里子はがっかりしていた。
ごみごみとした狭い道筋を、両側とも同じような店並が続いている。すし、うどん、串カツ、マージャン、将棋クラブ、カイテン焼き(たいこやき)、ホルモン焼き、一杯五円の黒蜜、生命判断に、薬屋。丁度、東京の池袋界隈にそっくりである。…。戦後の新世界
戦災からの復興
太平洋戦争で区内面積の約93%が被災した浪速区でしたが、1945 (昭和20)年3月13日の大阪大空襲で新世界の歓楽街も完全に焼け落ちてしまいました。しかし、区内でもいち早く復興した新世界は、1947 (昭和22)年に商店会を設立しました。特に庶民の娯楽として映画の人気が高まると、封切館を中心に興行街としての顔を取り戻していきました。
通天閣の再建事業
通天閣の再建運動は戦後、早くからありましたが、1954 (昭和29)年に名古屋にテレビ塔ができたことでその機運は急速に高まりました。翌年には、地元住民からの出資によって通天閣観光株式会社が設立されましたが、株主の名簿に名を連ねた住民は400人余りにのぼるといいます。
塔の設計は、名古屋のテレビ塔設計者で当時日本における高層建築の第一人者であった内藤多仲博士(早大名誉教授)に依頼されました。もちろん、「先生、名古屋の塔より高うしとくなはれや」と念を押すことだけは忘れなかったといいます。
建設の資金繰りにも一苦労で、初代通天閣が「ライオン本舗」を広告主としたように、スポンサー探しが始まりました。思うようなスポンサーが見つからないなか、関西の企業にこだわっている余裕もなくなり、広告料も引き下げて、ようやく日立製作所との主塔ネオン広告の契約が成立したのです。
1956年(昭和31)年10月28日竣工の2代目通天閣は高さ103メートル。わずか1年2か月余りという急ピッチの工事でした。
日雇い労働者の盛り場として
終戦直後から高度成長期にかけての建築ブームで大量の日雇い労働者が大阪に集まってくると、新世界はやがて、安く飲んで遊べる労働者のまちとなっていきました。1960年代にはいると、新世界に隣接する西成区のあいりん地区(通称釜ヶ崎)で日雇い労働者による暴動がたびたび起きるようになりました。その数は1961(昭和36)年から1973(昭和48)年の13年間に計21回を数え、新世界のイメージは大きなダメージを受けました。1970(昭和45)年の大阪万博に向けて、鉄道や道路のインフラ整備を担う労働者が集まってきたことで、新世界は一時、賑わいを取り戻しますが、日雇い労働者の盛り場としての印象が強く、まちに若者や家族連れの姿はありませんでした。
再び大阪の代表的なスポットへ
平成の時代(1989年~)に入ると、新世界を舞台にした映画が公開され、NHK朝の連続テレビ小説「ふたりっ子」が1996 (平成8)年10月から半年にわたって放映されたことで、再び新世界が脚光を浴びることになりました。
またその翌年には、南霞町の旧市電車庫跡地に、8階建ての都市型遊園地「フェスティバルゲート」と温泉施設「スパワールド」がオープンし、まちの活性化への期待が高まりました。
「フェスティバルゲート」は経営不振のため2007年(平成19)年に閉園してしまいますが、映画やドラマの影響によりテレビ番組で紹介される機会が増え、全国に新世界の名が知られるようになりました。また、2000年代後半から串カツ店が増え、今では串カツ屋がひしめくまちとなっています。
新世界は関西国際空港からのアクセスも良く、外国人観光客が年々、増加しています。新世界は今また、大阪を代表する観光地として連日にぎわっています。
年表
- 明治22年(1889年) 偕楽園商業倶楽部誕生
- 明治30年(1897年) 第一次市域拡張。今宮村の一部(新世界を含む)を市域に編入
- 明治36年(1903年) 第5回内国勧業博覧会開催
- 明治41年(1908年) 市電南北線(梅田―恵美須町)開通
- 明治45年(1912年) 通天閣、ルナパーク開業
- 大正2年(1913年) 市電霞町線(恵美須町―霞町)開通
- 大正4年(1915年) 市電西道頓堀天王寺線(桜川2丁目―芦原橋―大国町―恵美須町―天王寺西門)開通
- 大正7年(1918年) 市電霞町玉造線(霞町―阿倍野橋)開通
- 大正12年(1923年) ルナパーク閉園
- 大正14年(1925年) 第二次市域拡張、浪速区創設
- 昭和9年(1934年) 室戸台風襲来
- 昭和13年(1938年) 地下鉄御堂筋線(難波―天王寺)開通
- 昭和18年(1943年) 新世界大火、大阪市22区制により現在の浪速区となる
- 昭和20年(1945年) 爆撃により区域の93.4%が消失、終戦、枕崎台風襲来
- 昭和25年(1950年) ジェーン台風襲来
- 昭和31年(1956年) 現通天閣完成
- 昭和36年(1961年) 第2室戸台風襲来
- 昭和41年(1966年) 市電南北線のうち日本橋筋3丁目―恵美須町間廃止、霞町玉造線(霞町―阿倍野橋)廃止、市電霞町線(恵美須町―霞町)廃止長柄橋―阿倍野橋間の市電廃止
- 昭和43年(1968年) 市電西道頓堀天王寺線(桜川2丁目―天王寺西門)廃止
- 昭和44年(1969年) 地下鉄堺筋線(天神橋筋6丁目―動物園前)開通
- 平成5年(1993年) 地下鉄堺筋線(動物園前―天下茶屋)開通
- 平成8年(1996年) NHK朝の連続テレビ小説「ふたりっ子」放映
- 平成9年(1997年) 「フェスティバルゲート」「スパワールド」開業
- 平成19年(2007年) 「フェスティバルゲート」閉園
- 平成23年(2011年) 「新世界&天王寺動物園百年祭」スタート
- 令和5年(2023年) 「スパワールド」がリニューアルオープン、通天閣が屋外広告看板を全面リニューアル、「新世界・通天閣111周年記念フェス」開催
新世界地域の史跡と名所
通天閣(恵美須東1丁目18番)
1912(明治45)年、パリのエッフェル塔をモデルに建設され、全国的にもその名が知られている大阪のシンボル通天閣は、「天に通ずる塔」という意味で、現在の通天閣は2代目です。
初代通天閣は、産業振興の目的で開かれた内国勧業博覧会の会場跡地を利用してルナパークと共に造られました。通天閣とルナパーク内のホワイトタワーがロープウェーで結ばれ一大娯楽場としてデビューし、市民の憩いの場として親しまれました。
1943(昭和18)年、 太平洋戦争の激化と共に解体のうきめにあいましたが、地元の人々の努力により、1956(昭和31)年に再建され、再び大阪のシンボルとしてよみがえり、今も市民から愛され親しまれています。
現在の通天閣は高さ108mで、地上93mの跳ね出し展望台は先端部分がシースルーフロアになっており、空中浮遊しているようなスリル体験を味わうことができます。また、通天閣の真下には大正時代の将棋名人・坂田三吉を偲んだ 「王将碑」があります。
初代通天閣
2代目通天閣(現通天閣)
坂田三吉と王将碑(恵美須東1丁目 18番)
大正時代の将棋指し・坂田三吉は通天閣を見上げては闘志をかきたてたそうです。ただ、北条秀司の義曲「王将」に描かれた三吉像は、実像とは大きくかけ離れたキャラクターだったともいいます。
三吉は1870 (明治3)年6月3 日に和泉国舳松村(現在の堺市協和町)で父・卯之助と母・くにの間に生まれました。生い立ちは不明ですが、30歳を過ぎて結婚したときには飛田(現、西成区)付近に居を構えたといいます。しかし暮らしは苦しく、生活資金がなくなると妻こゆうはちゃぶ台の上に将棋盤を載せて夫の帰宅を待ち、それを見た三吉は「よっしゃ」と飛び出していったそうです。そして三吉は将棋大会の会場を探して賞金を稼いでは現金に換えて戻るのでした。
1907 (明治40)年に大阪朝日の嘱託となってから三吉は酒も賭将棋もやめたといいますが、この頃から各新聞社が有名な棋士を抱え込むようになったことが、棋界の対立や分裂の原因となりました。すでに小野五平12世名人から八段を許されていた三吉は、1925 (大正14)年に名人を僭称(注)したことで中央棋界から絶縁されてしまいます。
晩年、勝負師の面影がすっかり薄れた三吉は、将棋クラブに顔を出す程度で、1946 (昭和21)年に77歳で亡くなったときも家計が苦しく墓さえ建てられなかったといいます。後に日本将棋連盟は故人に名人・王将位を追贈し、通天閣の真下に王将碑が建立されました。
(注)名人を僭称・・・当時、関根金次郎13世名人を中心に棋界の統一が進み、1924(大正13)年に将棋連盟が設立されました。しかし東西の対抗意識を背景として関西棋界は合同に参加せず、三吉を名人に推挙しました。
王将碑の写真
国際劇場(恵美須東2丁目1番)
新世界で唯一戦前から残る建物ですが、当初は周辺にあった花街「南陽新地」の芸妓さんの発表が行われる「南陽演舞場」であり、1930(昭和5)年に創建されました。設計は心斎橋の三木楽器「開成館」も手がけた増田建築事務所で、2階部分には「劇場」の文字からデザインされたと思われる洒落た飾り窓やアーチが装備された窓が、内部には演舞場時代の名残を残した2階席がある、レトロな雰囲気の漂う昭和モダニズム建築です。
新世界国際劇場
ジャンジャン横丁(恵美須東3丁目 2~4番)
通天閣を中心とした新世界の一角を占める名物商店街で、「ジャンジャン横丁」 または「ジャンジャン町」の愛称で呼ばれています。正式には「南陽通商店街」といいます。
この愛称は、戦後間もない頃、この通りが通天閣と飛田遊郭 (西成区)を結ぶ 道筋に当たり、立ち飲み屋や射的の店などが立ち並び遊郭に向かうお客さんに、三味線でジャンジャン、太鼓でドンドン、小太鼓でテンテンと競って呼び込みをしていたことに由来しています。林芙美子の絶筆「めし」にも「ジャンジャン町」として登場します。
今もかつて浪速で1番の繁華街だった雰囲気がそのまま残っていて、立ち飲み屋、串カツ屋、食堂など安くておいしい飲食店や、囲碁・将棋クラブ、ゲームセンターなどがひしめいています。時が移り変わっても庶民に優しい盛り場です。
ジャンジャン横丁(地元の人はジャンジャンまちという)
参考資料
「浪速区・まちの歴史」(浪速区役所)
「浪速区制70周年記念誌 夢はばたく浪速のまち」(浪速区役所)
懐かしの風景(浪速区役所)
通天閣のホームページ など
(注)この記事は地域の語り部の方々の発言をもとに作成しております。歴史考証はしておりませんので、予めご了承ください。
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